マケドニア総督と追放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 05:38 UTC 版)
「ガイウス・アントニウス・ヒュブリダ」の記事における「マケドニア総督と追放」の解説
紀元前62年の春、ヒュブリダはプロコンスル権限で総督を務めるため、マケドニア属州に向かった。到着すると直ちに権力を振るい、強奪、税金の未納金の取り立て、虐待を始めた。また、国境沿いの部族(ダルダノイ族とモエシ族)との戦争を開始したが、敗北してしまった。マルクス・カエリウス・ルフス(紀元前48年法務官)の演説に、酔ったヒュブリダを軍事的脅威が迫っていることを知った友人達が起こそうとする場面が描写されている「敵が接近しているとの知らせに恐怖し、彼らはヒュブリダの名前を叫び、肩を揺さぶり、耳元で何かをささやき、何かを壊したりしてヒュブリダを起こそうとしたが、ヒュブリダは昏睡していて何も聞こえずまた触覚も失っており、酔いから覚めて起きることができなかった。このため彼はケントゥリオや愛人達の手の中で、朦朧としていた」。 ヒュブリダの悪行はすぐにローマに届いた。同年秋、元老院議員たちはヒュブリダを呼び戻そうとしたが、キケロは彼を支持し、ヒュブリダはさらに2年間プロコンスルの地位に留まった。紀元前62年末から61年初頭に送られたキケロからの書簡が多数残されており、この段階で二人の同名関係に重大な問題が生じたことが推測される。ヒュブリダはキケロとの密約を秘密にしておくことができず、また約束していた金銭の支払いも十分には実行していなかった。キケロはバルカン半島で広範なビジネスのコネクションを持っていた、友人のティトゥス・ポンポニウス・アッティクスに助けを求めなければならなかった。「このトロイの木馬は確かに遅い」キケロは紀元前61年1月1日付のにアッティクス宛書簡にこう書いている。「私は恥知らずと狡猾と遅さで、彼を超える者を見たことがない... 言い訳をと遅延ばかりだ ....」。キケロは、パラティヌスの丘に豪華な邸宅を購入した借金を、マケドニアの金でまかなうことを望んでいたため、ヒュブリダの約束不履行は彼を大いに悩ませた。この問題は紀元前61年2月までには解決していたようだが、一方でキケロはマケドニアから何も受け取っていなかったという説もある。 ヒュブリダがローマに戻ったのは紀元前60年末のことである。 彼は直ちに告訴され、紀元前59年の初め(遅くとも3月)に裁判が行われた。告訴内容ついては正確な情報はない。キケロは『フラックス弁護』の中で、ヒュブリダは「収奪罪ではなく、以前に有罪判決を受けた共謀罪で告訴された」と書いているが、ほとんどの歴史学者は、総督職としての無能と カティリナとの共謀の双方で起訴されたと考えている。検察官はマルクス・カエリウス・ルフス、ルキウス・カニニウス・ガッルス、クイントゥス・ファビウス・マクシムスであり、ヒュブリダの弁護はキケロが行った。キケロは、この裁判はカティリナの共謀者を民会の正式決定なく処刑した自分自身を叩く試みと認識し、ヒュブリダ陰謀への参加についての広範な憶測を展開し、これに反論していくという戦術を構築した。キケロはその年の執政官であるカエサル(カティリナの共謀者に対して処刑ではなく無期懲役を主張した)を、カティリナに同調しており、いわゆる「第一次陰謀(紀元前65年)」に加担していたと非難した。対してカエサルは、同日にキケロの最大の政敵であるプブリウス・クラウディウス・プルケルのパトリキからプレブスへの移行を認めた(これにより氏族名をクラウディウスからクロディウスに変更した)。プルケルは翌年護民官に就任し、キケロを告訴することになる。 裁判はヒュブリダの敗訴に終わった。ヒュブリダはローマ市民権を失い、追放された。ローマ社会の大部分はこれを喜びをもって受け入れ、カティリナの墓は花で飾られた。ヒュブリダはケファロニア島に定住した。ストラボンによれば、亡命者であるにも関わらず「私有地であるかのように島全体を彼の権力の下に保持していた」としている。ヒュブリダはそこに新しい都市を建設した。
※この「マケドニア総督と追放」の解説は、「ガイウス・アントニウス・ヒュブリダ」の解説の一部です。
「マケドニア総督と追放」を含む「ガイウス・アントニウス・ヒュブリダ」の記事については、「ガイウス・アントニウス・ヒュブリダ」の概要を参照ください。
- マケドニア総督と追放のページへのリンク