マケドニア軍の侵攻とアテアス王とは? わかりやすく解説

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マケドニア軍の侵攻とアテアス王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 20:38 UTC 版)

スキタイ」の記事における「マケドニア軍の侵攻とアテアス王」の解説

紀元前4世紀スキュティア王アテアス(アタイアス)はヒストリア住民との戦争苦しみアポロニアを介してマケドニア王ピリッポス2世紀元前359年 - 紀元前336年)に援助求め養子縁組もちかけた。しかし、途中でヒストリア王が死去したため、アテアスは援軍来ていたマケドニア兵を帰国させ、この話をなかったことにさせた。その頃ピリッポス2世は長引くビュザンティオン攻囲戦出費取り返すべく、スキュティア遠征画策しており、初め率直に攻囲要する費用求めたものの、相手にされなかったため、すぐさまビュザンティオン攻囲解いてスキュティア遠征とりかかったピリッポス2世初めスキュティア人を安心させるためにヒステル河口ドナウ川)に神像建てるという口実軍隊差し向けたが、アテアス王が警戒し、「国境越えて神像建てたならば、マケドニア軍去った後、神像を鏃にかえてしまうであろう」と敵意募らせたため、結局全面戦争となった(前339年)。初めスキュティア軍が勝っていたものの、ピリッポス2世狡猾さ敗れ、2万人少年婦人が捕えられ、膨大な数の家畜奪われた。その中から2頭の血統良い雌馬純血種作るためにマケドニア送られた。この戦いでスキュティア王アテアスが戦死したが、年齢90歳を超えていた。

※この「マケドニア軍の侵攻とアテアス王」の解説は、「スキタイ」の解説の一部です。
「マケドニア軍の侵攻とアテアス王」を含む「スキタイ」の記事については、「スキタイ」の概要を参照ください。

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