マケドニア軍の侵攻とアテアス王
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「スキタイ」の記事における「マケドニア軍の侵攻とアテアス王」の解説
紀元前4世紀、スキュティア王アテアス(アタイアス)はヒストリアの住民との戦争で苦しみ、アポロニア人を介してマケドニア王ピリッポス2世(紀元前359年 - 紀元前336年)に援助を求め、養子縁組をもちかけた。しかし、途中でヒストリア王が死去したため、アテアスは援軍に来ていたマケドニア兵を帰国させ、この話をなかったことにさせた。その頃のピリッポス2世は長引くビュザンティオン攻囲戦の出費を取り返すべく、スキュティア遠征を画策しており、初めは率直に攻囲に要する費用を求めたものの、相手にされなかったため、すぐさまビュザンティオン攻囲を解いてスキュティア遠征にとりかかった。ピリッポス2世は初め、スキュティア人を安心させるためにヒステル河口(ドナウ川)に神像を建てるという口実で軍隊を差し向けたが、アテアス王が警戒し、「国境を越えて神像を建てたならば、マケドニア軍が去った後、神像を鏃にかえてしまうであろう」と敵意を募らせたため、結局全面戦争となった(前339年)。初めはスキュティア軍が勝っていたものの、ピリッポス2世の狡猾さに敗れ、2万人の少年・婦人が捕えられ、膨大な数の家畜が奪われた。その中から2万頭の血統の良い雌馬が純血種を作るためにマケドニアに送られた。この戦いでスキュティア王アテアスが戦死したが、年齢は90歳を超えていた。
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