マエスの交易旅行が行われた時期の特定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 20:39 UTC 版)
「マエス・ティティアノス」の記事における「マエスの交易旅行が行われた時期の特定」の解説
マエスが冒険旅行を成し遂げ、ユーフラテス川以東の情報を地中海世界へもたらした時期についても、諸説ある。通説では、マエスをマリノスと同時代人とする。散佚したマリノスの著書はトラヤヌス帝に関連する名称への言及は豊富だがハドリアヌス帝に関するものがないため、紀元107年から114年の間に書かれたものと推定される。 しかし、ロンドン大学教授のマックス・ケアリは、マエスの率いる隊商がローマとパルティアの断続的な抗争の合間を縫ってタシュクルガンへ行ったであろうことに鑑みると紀元前1世紀の終わり頃ではないかとした。ケアリは、交易品を通過させる中間者を支配するか取り除くかして、絹糸の輸入を確立することに冒険の目的があったなどとする説から離れて、マエスの旅がなされうる時期を考察した。パルティア人はそのような中間者の中でも最も当てにできない者たちであった。 交易路の東端であるタシュクルガンは当時中国が支配を目論む西の果ての地だったが、紀元50年頃に遊牧系のクシャーナ朝の侵攻を受けた。しかし75年頃に状況が改善し、クシャーナ朝の侵入が一時的に止まった。したがって、マエスの旅がなされた時期は50年以前か75年以降と考えられる。一方で交易路の西端では117年にパルティアがトラヤヌス帝との争いを終結させ、彼らの協力が可能になったが、マリノスが東方の情報を得て本に著すまでの時間を考慮すると遅すぎる。パルティアとネロ帝との争いが終息するのが65年であるが、この場合、クシャーナ朝の侵入がまさに行われていた時期である。 ケアリは、このように論じた上で、パルティアがアウグストゥスとの間で講和がなされた紀元前20年以降を提示した。プトレマイオスはマエスが「マケドニア人」であると記しているが、「マエス」という名前が全くギリシア人風でなくむしろセム語風であることから、マエスはセレウコス朝シリアかローマ属州としてのシリアにおけるマケドニア文化の中で育ったセム系の人物であったと推定される。また、紀元150-210年のイタリアとシチリアには、マエシー=ティティアニー(Maesii Titianii)という家族の記録が残っており、ケアリは、紀元前13年頃からシリア属州の総督になったマルクス・ティティウスが、パルティアの王子たちに自ら教育を施してローマに帰化させていることから、東方への冒険を後援した可能性があると指摘した。
※この「マエスの交易旅行が行われた時期の特定」の解説は、「マエス・ティティアノス」の解説の一部です。
「マエスの交易旅行が行われた時期の特定」を含む「マエス・ティティアノス」の記事については、「マエス・ティティアノス」の概要を参照ください。
- マエスの交易旅行が行われた時期の特定のページへのリンク