ペロンの復権とは? わかりやすく解説

ペロンの復権(1973年-1976年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 07:06 UTC 版)

アルゼンチンの歴史」の記事における「ペロンの復権(1973年-1976年)」の解説

1973年3月11日大統領選挙により、正義党からペロン秘書エクトール・ホセ・カンポラが勝利するカンポラ同年5月25日大統領就任した18年振り正義党勝利後、カンポラはすぐにキューバとの国交回復東側諸国との国交樹立外資系銀行7行の国有化などの左翼ナショナリズム政策を採ったが、しかし、カンポラ政権このように左傾化したペロニスモを代表していたために、ペロニスタ右派との内部分裂激しくなってしまった。こうして分裂したペロニスタ統率のために、ペロン自らが大統領就任することが求められたため、7月13日カンポラ辞任し9月23日実施され大統領選挙60%以上の支持により、三度フアン・ペロン大統領就任した就任当時78歳心臓病患っていた第三次ペロン政権は、しかし都市ゲリラ活動インフレに対して効果的な対策打ち出せず、社会協約体制再現新外資法の制定農地改革なき農業関係諸法制定などの政策行った。しかし、これらの政策効果上げず20年前のペロン体制復活目指しただけで終わり1974年7月1日心臓発作アルゼンチン史正負共に多く遺産残した生涯終止符打ったペロン死去すると妻であり、副大統領だったイサベル・ペロン大統領就任し、ここで世界初女性大統領誕生するが、イサベル・ペロン都市ゲリラ跳梁インフレに対して朝令暮改繰り返すだけで全く有効な対処出来ず、さらにイサベル・ペロン顧問であったロペス・レガ社会福祉相は極右準軍事組織実質的な死の部隊)「アルゼンチン反共産主義同盟」(AAA) を結成し政権にとって目障りな知識人政治家ジャーナリスト次々と暗殺することになり、このため左右両派のテロがさらに激化したこうした状況の中、1976年3月26日陸海空三軍軍事評議会統治能力失っていた政権に対してクーデター起こしイサベル・ペロン失脚した。ラヌーセ将軍提案した軍部ペロニスタ和解のための努力は、双方無為無策のために水泡に帰すこととなった

※この「ペロンの復権(1973年-1976年)」の解説は、「アルゼンチンの歴史」の解説の一部です。
「ペロンの復権(1973年-1976年)」を含む「アルゼンチンの歴史」の記事については、「アルゼンチンの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ペロンの復権」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ペロンの復権」の関連用語

ペロンの復権のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ペロンの復権のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのアルゼンチンの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS