ペロンの復権(1973年-1976年)
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1973年3月11日の大統領選挙により、正義党からペロンの秘書エクトール・ホセ・カンポラが勝利するとカンポラは同年5月25日に大統領に就任した。18年振りの正義党の勝利後、カンポラはすぐにキューバとの国交回復、東側諸国との国交樹立、外資系銀行7行の国有化などの左翼ナショナリズム政策を採ったが、しかし、カンポラ政権はこのように左傾化したペロニスモを代表していたために、ペロニスタ右派との内部分裂が激しくなってしまった。こうして分裂したペロニスタ統率のために、ペロン自らが大統領に就任することが求められたため、7月13日にカンポラは辞任し、9月23日に実施された大統領選挙で60%以上の支持により、三度フアン・ペロンが大統領に就任した。 就任当時78歳で心臓病を患っていた第三次ペロン政権は、しかし都市ゲリラの活動やインフレに対して効果的な対策を打ち出せず、社会協約体制の再現、新外資法の制定、農地改革なき農業関係諸法の制定などの政策を行った。しかし、これらの政策は効果を上げずに20年前のペロン体制の復活を目指しただけで終わり、1974年7月1日に心臓発作でアルゼンチン史に正負共に多くの遺産を残した生涯に終止符を打った。 ペロンが死去すると妻であり、副大統領だったイサベル・ペロンが大統領に就任し、ここで世界初の女性大統領が誕生するが、イサベル・ペロンは都市ゲリラの跳梁やインフレに対して朝令暮改を繰り返すだけで全く有効な対処が出来ず、さらにイサベル・ペロンの顧問であったロペス・レガ社会福祉相は極右の準軍事組織(実質的な死の部隊)「アルゼンチン反共産主義同盟」(AAA) を結成し、政権にとって目障りな知識人や政治家、ジャーナリストを次々と暗殺することになり、このために左右両派のテロがさらに激化した。 こうした状況の中、1976年3月26日に陸海空三軍の軍事評議会が統治能力を失っていた政権に対してクーデターを起こし、イサベル・ペロンは失脚した。ラヌーセ将軍が提案した軍部とペロニスタの和解のための努力は、双方の無為無策のために水泡に帰すこととなった。
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