フランスへの道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 05:36 UTC 版)
警察署での勤務も2年目を迎えた頃、講道館ではフランス柔道連盟より指導員の派遣依頼を受けており、その矛先が安部に向けられる事となった。講道館に国際部が無かった当時、海外との交渉を一手に担っていた嘗ての恩師・松本芳三より打診を受けた安部は、終戦後の貧しい生活の中で若気の至りもあって海外での柔道指導に興味を抱き、また講道館で米軍兵に稽古を付けた経験もあったので、2年間という契約でこの誘いを承諾したという。安部はこの時29歳、段位は講道館六段であった。当時は現在のように飛行機は発達しておらず、安部は1951年10月に横浜港からラ・マルセエーズ号で出航。 香港、マニラ、サイゴン、セイロン、スエズ運河を経てマルセイユに至る30日間の船旅の道中、一等客船の切符で招かれた安部は船内のレストランで見た事もない料理とワインに驚き、柔道指導に行くという事でフランス人乗組員から手厚いもてなしを受け、「夢のような旅だった」と述懐する。 当時の欧州には柔道連盟のような団体はあったものの、国境を跨いだ統括組織として活発に活動しているわけではなく、欧州各国ではその流派や技量に格差が見られた。例えばイギリスでは“イギリス柔道の父”こと小泉軍治が伝える講道館柔道が正しく継承されていたが、ドーバー海峡を隔てた隣国のフランスでは川石酒造之助が広めた川石式柔道がパリを中心に主流となっていて講道館柔道とはかなり掛け離れた物が流布していた。安部に拠れば、川石式柔道は「技に理論が無く、「崩し」や「作り」を指導せず、(生徒達に)技の入り方だけ教えて後は力任せに投げていたので、技が美しくなかった」「どうせ外国人は日本語の技名など覚えられないとの理屈から、技を“背負投”や“大外刈”ではなく、“肩技1番”“足技1番”といった具合に全て番号で呼んでいた」との事。道場を運営すれば儲かるとの理由で川石式柔道はかなり盛んに行われていたが、安部は「褒められるような柔道は少ないものだった」と当時を振り返る。
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