ビートルマニア
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ビートルマニア(英語:Beatlemania)とは、イギリスの音楽バンド「ビートルズ」の関連用語で、特に1960年代に存在した熱狂的なファンを指した言葉。「ビートルズ・マニア」とも呼ばれる。現代でも一部のファンが自称する事がある。
概要
1962年10月にEMIパーロフォンからシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」でレコード・デビューしたビートルズは、1963年に入ると急激に人気を獲得した(詳細はこちらを参照)。特に10代を中心とした若い女性たちのビートルズへの熱狂はすさまじく、幾つかの記録映像(ビデオ版の「ザ・ビートルズ・アンソロジー」や「コンプリート・ビートルズ」)で、その高音による喚声が残されている。
こうしたファンの一部は公演で声援を送るだけではなく、ビートルズが宿泊しているホテルの周囲を取り囲んで終夜喚声を上げる様な状況をイギリス各地で起こすようになった[1]。11月になると、チケットの発売日の3日前から未成年を含むファンが行列を作るという状況が問題視され、イギリス議会で取り上げられる[2]。10月頃になって、「デイリーミラー」がこうしたファン達を称してビートルマニアという言葉を使い始めるようになった[3]。
ブライアン・エプスタインの発言[4]によると、1964年にビートルズがアメリカ合衆国のJFK国際空港に降り立った時の状況が、ビートルズが世界的な人気を獲得した契機となり、これがビートルマニアのイメージの元になっているとされる。
派生した用語
この用語はその後さまざまな派生形を生んだ。たとえば、1970年代初頭のローラーマニア (Rollermania) はスコットランドのバンド、ベイ・シティ・ローラーズについて用いられ、1980年代初頭にはラテンアメリカ全土を熱狂させたメヌード (Menudo、のちにリッキー・マーティンが在籍していたグループ) を指してメヌードマニア (Menudomania) という用語が作られている。
ビートルマニアの関連作品
- ビートルマニア (ミュージカル)(EN:Beatlemania (musical)) - ブロードウェイミュージカル。1977年から1979年まで1006回公演された。トニー賞の最優秀照明デザインにノミネートされた。
- ビートルズと私(EN:Beatles Stories) - セス・スワースキーが8年間かけてビートルズ関係者を取材したインタビュードキュメンタリー映画。
ビートルマニアのイベント
- ビートルズファンのためのフェスト(EN:The Fest for Beatles Fans) - 1974年からアメリカにて年2回開催されているビートルズファンフェスト。
ビートルマニアの人物
- セス・スワースキー - 自作映画のビートルズと私で、自らビートルマニアであるとコメントしている。
脚注
ビートルマニア(BEETLE MANIA)
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「キング・オブ・ザ・モンスターズ」の記事における「ビートルマニア(BEETLE MANIA)」の解説
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ビートルマニア
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「ブリティッシュ・インヴェイジョン」の記事における「ビートルマニア」の解説
詳細は「ビートルマニア」を参照 1963年10月、アメリカ合衆国で初めて、イングランドにおけるビートルズに対する熱狂に関する記事が新聞で全国的に報道された。ビートルズが11月4日にエリザベス王太后の前で『ロイヤル・ヴァラエティ・パフォーマンス』に出演し、音楽業界とメディアは一気にこのグループに注目するようになった。11月の間だけでも、アメリカでは主要な印刷媒体や2つのネットワークテレビ局の夕方の番組で、「ビートルマニア」として知られる現象に関する多数の報道が行われた。 12月10日、CBSイブニングニュースのキャスターであるウォルター・クロンカイトは明るい内容の報道を探しており、もともとは1963年11月22日にCBSモーニングニュースでマイク・ウォレスが放送したが、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件のためその夜だけでお蔵入りになった内容を再放送した。メリーランド州シルバースプリングに住む15歳のマーシャ・アルバートは、このリポートを見た翌日、WWDCのDJだったキャロル・ジェイムズに手紙を書き、「なんでアメリカにはこういう音楽がないのでしょうか?」とたずねた。12月17日にジェイムズとアルバートはビートルズの「抱きしめたい」を放送した。WWDCの電話は点滅しっぱなしになり、ワシントンD.C.のレコード店は在庫のないレコードを求めるリクエストを大量に受けた。ジェイムズがレコードを国中の他のDJに送ると、似たような反応が起こった。12月26日にキャピトル・レコードが予定より3週間早く「抱きしめたい」のレコードをリリースした。ティーンエイジャーたちの学校が休暇に入っている期間にレコードが発売されたということもあり、ビートルマニアがアメリカ合衆国中に素早く広まった。12月29日には『ボルティモア・サン』が、多くの大人たちの冷淡な意見を反映し、ビートルズの「インヴェイジョン」(侵略)を否定的に評価する社説を出した。この次の年だけで、ビートルズの曲は30回もホット100入りを果たした。 1964年1月3日、『ザ・ジャック・パー・プログラム』がBBCから許諾をとったビートルズのコンサートの映像を「冗談のつもりで」放送したが、3千万人もの視聴者がこれを見ていた。この映像はほぼ忘れられているが、ビートルズのプロデューサーであるジョージ・マーティンはこのせいで「子供たちの興味がかきたてられた」と述べている。1964年の1月半ばに「抱きしめたい」が突如チャートに出現し、一気にアメリカ合衆国の主な音楽チャート40種類のほぼ全てでトップにのぼりつめ、アメリカにおけるファブ・フォー(Fab Four、「すてきな4人組」)ことビートルズの長期にわたる強力な芸術活動の最初の成果となった 。「抱きしめたい」は『キャッシュボックス』誌1964年1月25日号(1月18日発売)で1位となった。1964年2月1日にはBillboard Hot 100で1位になった。1964年2月7日にCBSイブニングニュースはビートルズがその午後にアメリカ合衆国に到着したことについてのニュースを放送し、その中で特派員が「今回のブリティッシュ・インヴェイジョンはビートルマニアというコードネームで遂行です」とコメントした。2日後の2月9日の日曜日、ビートルズは『エド・サリヴァン・ショー』に出演した。ニールセンの視聴率調査では、アメリカ合衆国の視聴者の45%がこの夜、ビートルズの出演を見た。 マイケル・ロスによると、『エド・サリヴァン・ショー』はしばらくの間、「暖炉の前でスリッパを履いてくつろぐような気楽な経験」とみなされており、1964年2月にテレビを鑑賞していた7千3百万人の視聴者のうち、自分たちが見ていたバンドがどんな影響を及ぼすようになるのか、きちんとわかっていた者は多くはなかった。 すぐにビートルズは大きく違うさまざまな反応を引き起こし、その過程で他のどのバンドよりも頻繁にコミックソングや時事ソングなどの題材になり、1964年から1965年の間だけで少なくとも200曲が出た他、ポール死亡説が流れた1969年などにもこの種のものがたくさん発行された 。多くの反応のうち、熱狂を肯定的にとらえたのはイギリスのガール・グループであるケアフリーズの"We Love You Beatles" (1964年4月11日に39位)や、"A Love Song to the Beatles"という副題がついているパティ・ケイクスの"I Understand Them"などがある。大混乱に不満の意を示したのはアメリカのグループであるフォー・プレップスの"A Letter to the Beatles" (1964年4月4日に85位)や、アメリカのコメディアンであるアラン・シャーマンの"Pop Hates the Beatles"などがある。 4月4日にビートルズはBillboard Hot 100シングルチャートの上位5位を独占したが、その後、上位3位を独占したミュージシャンすらまだ出ていない。ビートルズは『キャッシュボックス』のシングルチャートでも同週に上位5位を独占したが、1位と2位はHot 100とは逆であった。グループのチャートにおける圧倒的な成功は1970年に解散するまで続いた。
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