ヒルマン・モーター・カー・カンパニー・リミテッド(1910-1967年)
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「ヒルマン (自動車)」の記事における「ヒルマン・モーター・カー・カンパニー・リミテッド(1910-1967年)」の解説
1910年、社名をヒルマン・モーター・カー・カンパニー・リミテッド(Hillman Motor Car Co. Ltd )とする。 A・J・ドーソン A・J・ドーソンがコータレンの後任の技術者となった。ドーソンはヒルマンのシングル・モデル・ポリシーに従い1913年、9hp 4気筒単一鋳造サイドバルブ1327ccエンジンのこぢんまりとまとまったヒルマン・ナインを設計・製作した。自動車が金持ちの道楽から大衆の移動手段になりつつあった。この車はかなりの数を販売し、ヒルマン社は軌道に乗ってきた。英国国内ではエンフィールド、シンガー、スタンダードが育ってきていたが、ヒルマンの販売は堅調だった。1914年には年450台程を生産していた。 この車は第一次世界大戦後には1600cc11hpと大きくなり1925年まで4000台程が生産された。 ジョン・ブラック 1918年、ドーソンが会社を離れるが、ジョン・ブラック(1895年 - 1965年)が後を継ぐ。コータレン、ドーソンは技術者だったが、ジョン・ブラックは法学部出の営業である。 1496ccに排気量を小さくし1500cc以下のヴォワチュレット・クラスに参戦できるようにしたスポーツモデルが1919年に作られた。そのうちの一台は『英国のミスター・モーターレーシング』と呼ばれたレイモンド・メイズが購入し、1920年に参戦しブレシア・ブガッティに移籍するまで使用した。 ジョン・ブラックとスペンサー・ウィルクス 1921年ウィリアム・ヒルマンが亡くなる。ウィリアムの後もヒルマン家が会社の経営権を握っていたが、日々の会社の運営はジョン・ブラックとスペンサー・ウィルクスがおこなった。ジョン・ブラックはこの年にデイジー・ヒルマンと結婚しヒルマンの娘婿となっている(ヒルマンを離れた1939年に離婚)。スペンサー・ウィルクスもヒルマンの娘婿となった。 会社の方針を変え再び上級市場に狙いを定め、1925年、14hp(フォーティーン)を出す。14hpは大ヒットとなり、1928年まではこのモデルのみが生産された。4気筒1,954ccの保守的な車でオースチンの12(トゥェルブ)やハンバー14/40などが競合だった。14hpは1930年まで作られ5年間で11,000台程販売された。1928年になると14hpに加え初めてOHVを採用した2.6L直列8気筒エンジンをフォーティーンのシャーシを延長して搭載、58bhpで70mphを出した。このエンジンはルーツ買収後、ハンバー製シャーシに搭載されヴォルティック(Vortic )となる。さらに後には美しいコーチワークのボディを乗せて1929年ヒルマン・ウィザード (Hillman Wizard 、エンジンは2.1/2.8L)となる。この直8は2,795台製造されている。 1927年にはすでに国内の独占販売権をケント州メイドストーンのルーツ兄弟に与えている。
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