パダーニア事件(1994-1998)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 03:17 UTC 版)
「同盟 (イタリア)」の記事における「パダーニア事件(1994-1998)」の解説
1994年の総選挙で北部同盟は同じく既存政党の票をさらって躍進したシルヴィオ・ベルルスコーニのフォルツァ・イタリアが主導する右派連合「自由の極」に加わって選挙を戦い、ジャンフランコ・フィーニの国民同盟(旧ネオ・ファシスト党)や キリスト教中道民主連合らと共に第1次ベルルスコーニ内閣を樹立した。しかしその背後で選挙戦そのものは苦戦を強いられており、労働者層の多くがキリスト教民主主義を主張したフォルツァ・イタリアに投票したことで、得票率は以前より後退してしまっていた。しかし選挙区の幾つかの投票区構造などから、得票率から見れば過大な議席数を得て存在感を発揮することができた。政権でも下院議長や、5つの大臣職(副首相・工業大臣・経済大臣・欧州議会担当大臣・行政改革担当大臣)を与える厚遇だったが、友好関係は長く続かなかった。 1995年1月、ボッシは連立政権の分権政策が不充分であると表明、野党第1党である左翼民主主義者党(旧・イタリア共産党、現・イタリア民主党の前身)による内閣不信任案に賛成票を投じて造反した。しかし党内では予想以上にボッシの路線に反発があり、多くの穏健派分権主義者が北部同盟を離脱してイタリア連邦党を樹立、後にフォルツァ・イタリアへ合流した。党内には左派グループのみが残る形となり党勢衰退を危惧する声が起こったが、ボッシは分権主義に理解を示す左派連合「オリーブの木」と結びついて幾つかの地方選挙を戦っている。右派連合離脱後、命運を決める事となる1996年の総選挙で北部同盟は議席数を下院議員59名・上院議員27名と躍進を遂げ、ボッシら強硬な自治を説く党内左派が一定の力を維持する形になった。従って党内意見は過激な言説が通るようになっていき、最終的に北部同盟は「中央政府が即時連邦制に移行しないなら、北部のみで連邦制の新国家を樹立する」と宣言した(パダーニア構想)。そして政府がこれを黙殺すると「パダーニア連邦政府」の樹立を宣言して対決姿勢を強めたが、国連や国連加盟国にこれを承認する国は一切現れず、国際法上は無効行為と見なされた。 1996年から1998年はこうした過激な行動も相まって北部同盟が最も注目を集めた時代となったが、元から複数の地方主義の寄り合いである北部同盟内では対立が絶えなかった。1998年には主要前身政党であったヴェネツィア共和国運動が北部同盟からの離脱を宣言し、それ以外にも多数の幹部党員がボッシの強硬路線を拒絶して離党していった。1999年、党内外の批判からボッシは事実上、パダーニア構想を無期限で凍結して、連邦制によるイタリアという枠組みでの地方分権へと再び回帰する道をとった。だがこうした一貫性のない行動はますます党内の混乱に拍車をかけ、更に北部同盟の議員・党員の離脱を生み出した。同年に行われた欧州議会選挙で北部同盟は敗北して議席を減らし、勢いに陰りが見えていることを印象付けた。
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