ハイチ革命とドミニカ独立戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 07:02 UTC 版)
「イスパニョーラ島」の記事における「ハイチ革命とドミニカ独立戦争」の解説
フランス革命に乗じて黒人や混血(ムラート)勢力が決起しハイチ革命が起こり、1804年には西半球初の黒人国家ハイチ帝国 (1804年-1806年)を誕生させ、プランテーションを解体させ小作農を多数生み出した。一方で独立後のハイチはフランスにより、放棄したプランテーションなどの賠償金を払うよう強要され財政や経済は混乱してしまった。 スペイン領サントドミンゴ(スペイン語版、英語版)は、フランス革命戦争でのスペインとフランスの講和(バーゼルの和約)により1795年にフランスに割譲され、以後サン=ドマングのハイチ革命の荒波をかぶり、ハイチ黒人軍侵入による奴隷制度撤廃とナポレオン軍侵入による奴隷復活、ハイチ共和国軍に対するフランス軍の駐留継続が続き、ナポレオン戦争後の1814年にスペイン支配が復活するまでにすっかり荒廃してしまった。もともとサントドミンゴを放置していたスペイン人に対し、中南米で独立戦争が荒れ狂う1821年、副総督ホセ・ヌニェス・デ・カセレス(スペイン語版、英語版)(José Núñez de Cáceres)はスパニッシュ・ハイチ(スペイン語版、英語版)独立を宣言しシモン・ボリバルの大コロンビアへの併合を提案した。しかしハイチ共和国大統領ジャン・ピエール・ボワイエにより侵攻され人口の少ないスパニッシュ・ハイチは敗北し、全島がハイチ領となってしまう(ハイチ共和国によるスペイン人ハイチ共和国占領(スペイン語版、英語版))。 詳細は「ドミニカ独立戦争」を参照 ハイチ支配下で要職はハイチ人が占め、対仏賠償を払うための税金がサントドミンゴ側に課せられるなどの屈辱的な状況下で、スペイン人やメスティーソたちは独立運動を模索した。1838年にフアン・パブロ・ドゥアルテ(スペイン語版、英語版)(Juan Pablo Duarte)が秘密結社ラ・トリニタリア(スペイン語版、英語版)(La Trinitaria)を結成し、1844年にドミニカ共和国独立を成し遂げた。この際のハイチに対する決戦の功績でマティアス・ラモン・メラ(スペイン語版、英語版)(Matías Ramón Mella)とフランシスコ・デル・ロザリオ・サンチェス(スペイン語版、英語版)(Francisco del Rosario Sánchez)はドゥアルテ同様英雄と称えられている。ラ・トリニタリアを支援した富裕な牧場主ペドロ・サンタナ(スペイン語版、英語版)が初代大統領となりアメリカ合衆国憲法にならった憲法を制定した。 ハイチ側では元黒人奴隷の将軍フォースタン=エリ・スールーク(英語版)が事態を収拾し、皇帝に即位した。これに対しハイチの侵攻を恐れるドミニカ共和国は1861年、保護を求めスペイン植民地に逆戻りするが再度の植民地支配に対して反発も強まった。ハイチは独立運動を金銭や拠点の面から支援し、1865年ドミニカ共和国は再独立した。ドミニカ共和国側はスペインという大きな悪よりハイチという小さな悪を選んだ形だったが、ハイチを恐れアメリカ保護領になる提案も出したが合衆国が拒否して失敗した。ドミニカ共和国側では再独立戦争に勝利した黒人軍人ウリセス・ウロ(Ulises Heureaux)がドミニカの大統領として君臨した。19世紀末にはハイチもドミニカも安定し、エリート層と農民層の対立は残しつつ、近代化へ向けた歩みを始める。
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