ハイチ戦役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/22 01:29 UTC 版)
1802年、フランス政府は不満分子となっていたポーランド軍団のほとんど(二個半旅団5280人)を、はるか西方カリブ海のサン=ドマング(ハイチ)で起きた革命の鎮圧に差し向けた。 ナポレオンとしては、サン=ドマング植民地を維持したい一方で、自身のフランス軍本体は近場のヨーロッパでの戦争で使うため温存したかった。そこでポーランド軍団が、ドイツ人やスイス人、その他ナポレオンの寵を失ったフランス軍部隊とともに送られることになったのである。 ハイチ戦役で、ポーランド軍団は壊滅状態に陥った。わずか2年足らずで、5280人の兵が戦闘や熱帯病(特に黄熱病)によりわずか数百人にまで減ってしまった。1803年にフランスがハイチからの撤退を決断するまでに、約4000人のポーランド人がハイチで亡くなった。生存者のうち、約400人は島にとどまり、数十人が近隣の島やアメリカへ移住し、約700人がフランスへ帰還した。兵数については、ボフダン・ウルバンコフスキは派遣されたのが6000人、帰国できたのが330人としている。 ポーランド人にとって、遠く離れた植民地でフランスのために、しかも自分たちと同じように独立を目指している人々と戦うというのは、ほとんど意味を見出せないことであった。ハイチでは、革命の際にかなりの数のポーランド人たちが革命へ共感して部隊単位でフランスを捨て、ジャン=ジャック・デサリーヌとともに戦った、という伝説が今でも語られている。実際に革命側に寝返ったポーランド人は、150人ほどであった。多くの愛国的ポーランド人がカリブ海に散ったことで、ポーランド復興の機運は大きく後退した。またこの出来事は、ポーランド人の間で、今まで好意をもってくれていると信じていたフランスやナポレオンに対する強い不信感を植え付けることになった。
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