ニヴフとは? わかりやすく解説

ニヴフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/23 23:59 UTC 版)

ニヴフ/ニブフ(Nivkh、нивх)、ロシア語の複数形ではニヴヒ/ニブヒ(Nivkhi、нивхи)は、主としてロシアに住む少数民族である。その多くは樺太サハリン州)、アムール川(黒竜江)下流域に住んでいる[1]1979年の人口は約4,400人[1]。かつては、ギリヤーク(Gilyak)、複数形ギリヤーキ(Gilyaki)と呼ばれた[1][2]アイヌとも、ツングース・満洲系諸族モンゴル系民族とも系統の異なる民族であり、古シベリア諸語(旧アジア諸語)の一つである固有の言語ニヴフ語を話す[1][2]。歴史的にはアイヌやツングース・満洲系の諸民族と密接なかかわりを有し、文化要素においても共通性が認められる[1][2]


注釈

  1. ^ 丹菊逸治によれば、1990年代以降は、少なくともロシア連邦内で、公の場では「ギリヤーク」という呼び名は姿を消し、名実ともに「ニヴフ」が用いられるようになったという[7]
  2. ^ 「魚皮韃子」と呼ばれたのはニヴフだけでなく、ナナイなど魚皮を利用するアムール川流域の他の民族をも含めた呼称である[13]
  3. ^ ニヴフの現代の中国語(漢語)表記は「尼夫赫」である。
  4. ^ ニヴフ族のうち、ニヴフ語を母語とする者の割合は1928年には99.6パーセントであったが、1989年には23.3パーセントに減少している[15]
  5. ^ シベリア出身のソ連の考古学者アレクセイ・オクラドニコフは、現在のコリャーク人の住地よりはるか南方のオホーツク海沿岸でコリャークとみられる民族の住居址を検出しており、ゾロタリョフの仮説を補強するかたちとなっている[19]
  6. ^ ただし、ニヴフだけが先住民であり、この地域の基層文化の担い手であったのかという点については異論もあり、未解決問題も存在している[5]
  7. ^ シディは、モンゴル建国の功臣でチンギス・カンに仕えたムカリ(木華黎)の子孫(ムカリの曽孫ナヤンの子)。クビライによって同知通政院事に任じられた。
  8. ^ 「骨嵬」(苦夷・蝦夷とも)はニヴフ語でアイヌを意味する kuyi を音訳したものと思われる[28]。「亦里于」については、かつてツングース系民族のウィルタとする説が有力であったが、近年では、「骨嵬」とは別のアイヌ系集団であったとする説も唱えられている[29]
  9. ^ 元朝は1274年と1284年の2度にわたって西日本を襲撃し(「元寇」)、1292年1296年には「琉求」(台湾沖縄かは不明)に遠征した[28]
  10. ^ ニヴフや元朝の視点に立てば「南からの骨嵬・亦里于襲来」と呼ぶことも可能である[32]
  11. ^ 清国の中心部と東北辺境地帯との間には、山丹交易のおこなわれた河川経路のほか、寧古塔・三姓から道なき道を通ってウスリー川(烏蘇里江)河畔に至る森の経路、琿春からポシェト湾を経由して沿海州南部に通じる海岸沿いの経路などいくつかの交易路があった[37]。しかし、アイグン条約と北京条約による国境画定の結果、これら交易路は分断され、また別経路に置き換えられた[37]
  12. ^ デレンの満洲仮府については、候補地が3か所ほどあり、なかでも現在のノヴォイリノフカロシア語版にあった可能性が高いとする説が提唱されている[41]
  13. ^ 樺太庁の対応の急変は、1925年の北サハリン保障占領の終了にともない、「トナカイ王」と呼ばれたサハ(ヤクート)の資産家ヴィノクーロフが北樺太より亡命したことが影響しているといわれる[16]
  14. ^ 樺太アイヌには刑法民法が適用されたが、ニヴフとウィルタには刑法のみが適用されるにとどまった[51]
  15. ^ その多くは戦後シベリアに抑留され、ほとんどが同地で死去した。
  16. ^ 漁撈民に属するのは、他にカムチャツカ半島南部のイテリメン族(カムチャダール族)、オビ川流域のハンティ族などであり[14]、アムール川流域ではナナイウリチが漁撈を主な生業としている[55]
  17. ^ たとえば妹が男きょうだいの顔をまたいで裾で顔をこするなどの宗教的禁忌を犯した場合、妹はイヌを彼に渡さなければならなかった[57]。また、女性の月経血が男性のきょうだいに付着したら、その者は死ぬと考えられていたので、ただちに女性のイヌを譲りうけ、その場で殺して皮革で何かを製造・使用するなどして、これを浄めた[57]
  18. ^ 熊祭りは、狩猟で殺したクマに関連するものと、子グマを檻などで飼って行うものとに分けられるが、樺太・アムール川下流の諸族の儀式はいずれも後者の形態をとる[62]
  19. ^ アイヌ語も孤立言語であり、便宜上、パレオ・アジア語に含めることがある[65]
  20. ^ ソ連時代、無神論を推し進めるボリシェヴィキ政権によって極東・シベリアのシャーマンたちも徹底的な迫害を受けた[70]
  21. ^ 死と短命にかかわる説話は、世界各地に類例がある。日本神話におけるイワナガヒメコノハナノサクヤビメの説話もこうした範疇に属する。→詳細は「バナナ型神話」参照。
  22. ^ 典型的な兄妹始祖神話は、大洪水で生き残った兄妹が結婚して人類の祖となるというもので、稲作文化に付随して中国大陸南方から日本列島朝鮮半島に流入したとみられる[71]日本神話ではイザナギイザナミの兄妹神がオノゴロ島に降り立って「国産み」をする話が、洪水伝承の断片であろうとされている[73]琉球諸島各地にみえる「油雨」「火の雨」伝承では、神が人間を罰するというモティーフが加わる[73]
  23. ^ 網走市立郷土博物館所蔵のトンクルは、シラカンバの樹皮を筒状にまるめ、その両端に魚皮を張って共鳴させる箱をつくり、これに棒を貫いて、筒の片側の張り皮の上の弦を軸棒の両端で止める一弦の弦楽器である[74]。これをウマの毛を張った弓で擦って音曲を奏でる[74]
  24. ^ ウィルタ、ウリチ、満洲の諸語でも弦楽器を指す単語は互いに似通っている[75]。これは、偶然とはいえないほどの一致であり、また、モノ自体は相当に異なるのにもかかわらず名前自体が共通と言ってよい、稀有な例である[75]。相互の言語間で、他にこのような例はない[75]
  25. ^ 近年では高身長の者も増えている[18]
  26. ^ アムール川流域のニヴフに比べてサハリンのニヴフは極度に短頭で頭示数は85である[77]
  27. ^ 論文中の系統名称は2012年時点のものであることに注意が必要である。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 荻原(1988)pp.383-384
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o W.キーリッヒ(1981)p.49
  3. ^ Смoляк, 1975, p25
  4. ^ a b c d e 『ブリタニカ国際大百科事典:小項目事典2』「ギリヤーク族」(1973)p.378
  5. ^ a b c 荻原(1989)pp.80-81
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z 日本大百科全書(ニッポニカ) 佐々木史郎『ニブヒ』 - コトバンク
  7. ^ 丹菊逸治 (2009年6月22日). “「ギリヤーク」という名称について”. ニヴフ言語・文化研究. 丹菊逸治のHP. 2022年7月9日閲覧。
  8. ^ Taксaми, 1976, p126
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m 佐々木高明(1979)pp.598-599
  10. ^ ニヴフ語研究(建築中) 大阪大学
  11. ^ Schrenck,p117
  12. ^ a b 加藤(1977)pp.275-280
  13. ^ a b c d e f g 荻原(1989)pp.99-102
  14. ^ a b c d e f 河野(1981)pp.64-68
  15. ^ a b Ants Viires (1993年8月). “The red book of the Russian Empire. "THE NIVKHS"”. The Peoples of the Red Book. The Redbook. 2022年8月5日閲覧。
  16. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 天野(2017)pp.26-32
  17. ^ a b c d e f g 洞(1983)pp.456-457
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 丹菊逸治 (2009年9月3日). “「気の毒なギリヤーク人は本当に気の毒か?」”. ニヴフ言語・文化研究. 丹菊逸治のHP. 2022年7月9日閲覧。
  19. ^ a b c 加藤(1989)pp.445-447
  20. ^ a b c d e f g 平山(2014)pp.125-127
  21. ^ “オホーツク人のDNA解読に成功―北大研究グループ―”. 北海道新聞. (2012年6月18日). http://www.okhotsk.org/news/oho-tukujin.html 2012年6月18日閲覧。 
  22. ^ “「消えた北方民族の謎追う 古代「オホーツク人」」北大が調査”. 朝日新聞. (2009年2月4日). http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200902040080.html 2009年2月4日閲覧。 
  23. ^ 大泰司・本間(2008)p.19
  24. ^ a b 平山(2014)pp.87-89
  25. ^ a b c 菊池(2009)pp.166-167
  26. ^ 中村和之(2010)pp.414-415
  27. ^ 元史』巻119「木華黎伝」附碩徳伝
  28. ^ a b c d e f g h 平山(2018)pp.73-75
  29. ^ 中村和之(2006)pp.111-115
  30. ^ 『元史』「世祖本紀」至元元年十一月丙子(1264年11月25日)条
  31. ^ a b c d e f 関口(2015)pp.53-55
  32. ^ 海保(1996)
  33. ^ a b c d e 平山(2018)pp.78-79
  34. ^ A.アルテーミエフ(2008)
  35. ^ a b c d e 加藤(1989)pp.454-456
  36. ^ a b c 平山(2018)pp.118-120
  37. ^ a b c d e f g 原(1998)pp.51-52
  38. ^ ウィキソース『松前島郷帳
  39. ^ a b c 高倉(1979)p.708
  40. ^ a b c 第3章 松田伝十郎と間宮林蔵の樺太踏査”. 稚内市史. 稚内市. 2022年7月15日閲覧。
  41. ^ a b 髙橋(2008)pp.96-101
  42. ^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ) 船津功東韃紀行』 - コトバンク
  43. ^ a b 『ブリタニカ国際大百科事典:小項目事典2』「北蝦夷図説」(1973)p.247
  44. ^ a b 函館市中央図書館. “北蝦夷廻島見聞図絵”. 函館市/函館市地域史料アーカイブ. ADEAC. 2022年7月15日閲覧。
  45. ^ a b c 松阪市図書館. “樺太地図(北蝦夷山川地理取調図)”. 松阪 四五百森(よいほのもり)デジタルアーカイブ:松阪の偉人. ADEAC. 2022年7月15日閲覧。
  46. ^ 松浦武四郎記念館. “2回、3回目の蝦夷地調査”. 松浦武四郎の生涯. 松阪市. 2022年7月15日閲覧。
  47. ^ 松浦武四郎記念館. “4回、5回、6回目の蝦夷地調査”. 松浦武四郎の生涯. 松阪市. 2022年7月15日閲覧。
  48. ^ 谷沢尚一 著、北海道大学文学部附属北方文化研究施設 編「安政三年採録のニクブン語彙を繞って―松浦武四郎の「野帳」を中心に」『北方文化研究』第13巻、北海道大学、135-161頁、1980年3月。 NAID 40003547219 
  49. ^ a b c 天野(2017)pp.34-39
  50. ^ a b c d e f g h i 真野森作. “あの人気漫画の舞台「樺太」の戦前、戦中、そして戦後”. 政治プレミア. 毎日新聞. 2022年7月15日閲覧。
  51. ^ a b c 平山(2018)p.167
  52. ^ 菅原(1966)
  53. ^ a b 百瀬(2012)pp.208-209
  54. ^ 加藤(1989)pp.472-473
  55. ^ a b c d e 加藤(1994)pp.166-170
  56. ^ a b c d e f g h i 髙橋(2008)pp.78-82
  57. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 加藤(1977)pp.297-303
  58. ^ a b c 荻原(1989)pp.96-99
  59. ^ 髙橋(2008)pp.73-77
  60. ^ 藤本編(1981)p.46
  61. ^ a b c d e f g h i 荻原(1989)pp.120-124
  62. ^ a b c d e f g h i j k 加藤(1994)pp.170-175
  63. ^ a b c d e f 荻原(1989)pp.93-96
  64. ^ Taксaми, 1961, p111
  65. ^ a b 加藤(1977)pp.280-281
  66. ^ Смoляк, 1970, p270
  67. ^ Taксaми, 1969, p56
  68. ^ a b 荻原(1989)pp.118-120
  69. ^ Gall(1990)pp.4-6
  70. ^ エカテリーナ・シネリシチコワ (2022年3月24日). “ソ連時代、シャーマンたちはいかに迫害されたか”. RUSSIA BEYOND 日本語. ロシア・ビヨンド. 2022年8月5日閲覧。
  71. ^ a b c d e 荻原(1989)pp.57-61
  72. ^ a b 増井寛也「<太陽を食べる犬>その他三則 : ジュシェン人とその近縁諸族の歴史・文化点描」『立命館東洋史学= 立命館東洋史学』第34巻、立命館東洋史學會、2011年7月、1-34頁、CRID 1390009224894409088doi:10.34382/00006190ISSN 1345-1073NAID 120006733512 
  73. ^ a b 篠田(2005)p.333
  74. ^ a b c d 藤本編(1981)pp.56-57
  75. ^ a b c d e f g h i 篠原智花・丹菊逸治 (2013年3月31日). “「トンコリはどこからきたか?」”. ニヴフ言語・文化研究. 丹菊逸治のHP. 2022年7月9日閲覧。
  76. ^ a b c 丹菊逸治 (2007年12月31日). “ニヴフの伝統歌”. ニヴフ言語・文化研究. 丹菊逸治のHP. 2022年7月9日閲覧。
  77. ^ a b c d e f 荻原(1989)p.92
  78. ^ Atsushi Tajima, Masanori Hayami, Katsushi Tokunaga, Takeo Juji, Masafumi Matsuo, Sangkot Marzuki, Keiichi Omoto, and Satoshi Horai, "Genetic origins of the Ainu inferred from combined DNA analyses of maternal and paternal lineages." Journal of Human Genetics (2004) 49:187–193. doi:10.1007/s10038-004-0131-x
  79. ^ KHARKOV, Vladimir Nikolaevich, "СТРУКТУРА И ФИЛОГЕОГРАФИЯ ГЕНОФОНДА КОРЕННОГО НАСЕЛЕНИЯ СИБИРИ ПО МАРКЕРАМ Y-ХРОМОСОМЫ," Genetika 03.02.07 and "АВТОРЕФЕРАТ диссертации на соискание учёной степени доктора биологических наук," Tomsk 2012
  80. ^ a b c "САНГИ Владимир Михайлович"
  81. ^ サンギ2(2000) 著者略歴
  82. ^ 佐々木史郎. “客員研究員の紹介:チュネル・ミハイロヴィチ・タクサミさん”. 国立民族学博物館Archives. 国立民族学博物館. 2022年8月5日閲覧。
  83. ^ 中村, チヨ, 1906- - Web NDL Authorities (国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス)






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ニヴフ」の関連用語

ニヴフのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ニヴフのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのニヴフ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS