ニシンの戦い
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ニシンの戦い(ニシンのたたかい、英語:Battle of the Herrings、フランス語:Journée des Harengs)は1429年2月12日に、フランス・オルレアン郊外のルヴレ=サント=クロワで起こった、イングランド王国軍とフランス王国・スコットランド王国軍の戦いである。百年戦争のオルレアン包囲戦中に、攻城側のイングランド軍の輜重隊をフランス・スコットランド軍が襲撃したが撃退された。運んでいた物資の中にニシンの樽があり、戦闘後に戦場にニシンが大量にばらまかれていたことからこう呼ばれた[1]。
- ^ [1] (April 2000) Retrieved on 4 May 2008
- ^ 堀越、P33 - P38、ペルヌー、P376 - P378、清水、P165 - P170。
- ^ a b c d Devries, Kelly. Joan of Arc a military leader. The History Press 2003. ISBN 978-0752460611.
- ^ ペルヌー、P378、清水、P170。
- ^ 堀越、P38 - P40、ペルヌー、P378 - P379、清水、P170 - P171。
- ^ 堀越、P40 - P41、ペルヌー、P379 - P382、清水、P171 - P174。
- 1 ニシンの戦いとは
- 2 ニシンの戦いの概要
- 3 背景
- 4 戦闘
- 5 戦後
- 6 参考文献
ニシンの戦い
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「ニシンの戦い」も参照 1428年10月、オルレアンへの脅威がリッシュモンとラ・トレモイユのゲリラ隊に一刻も早い一時停戦を促した。1429年初期、クレルモン伯はオルレアン解放のためにフランス=スコットランド軍をブロワに集めた。イングランド軍の包囲部隊はジョン・ファストルフの指揮下にあり、パリからイングランド軍の補給部隊が派遣されたことを聞き、クレルモン伯はそれを迎撃するために回り道をすることを決定した。ジャン・ド・デュノワ指揮下のオルレアンからの軍は、イングランドの軍列を気付かれないように通過し加勢した。 2月12日、2つの軍はジャンヴィルで合流し、ルヴレ(Rouvray)でイングランドの補給部隊を攻撃し、ニシンの戦いとして知られる交戦となった。この時、補給部隊が来る四旬節用のための大量の魚を積んでいたことから、この名が付いた。 フランス軍の接近に気づいたイングランド軍は、供給用の車を伴った「ウォーワゴン」を作り、その周囲を弓兵に取り囲ませた。クレルモン伯はフランス軍に「下がれ、砲撃でダメージを加えるぞ」と命じた。しかし、エヴルー伯に率いられたスコットランドの連隊は大砲での攻撃に不満を表し、近づくことを決定した。フランスの隊列は、続くべきか、命令どおり残るべきか不確かであったために気後れしていた。 フランス軍が動かなかったこと、または気後れしたほんのわずかな兵しか動いていなかったことを見て、イングランド軍は好機であると感じた。イングランドの騎馬隊がウォーワゴンから出動し、孤立したスコットランド軍を圧倒し、気後れしていたフランス軍を撃退した。フランス軍は混乱とパニックに陥り、撤退した。エヴルー伯は戦死し、デュノワは負傷した。3日後、ファストルフが勝ち誇ってオルレアンのイングランド兵に物資を届けた。 ルヴレでの敗北により、フランス軍の士気は大きく低下した。クレルモン伯とデュノワは敗戦の責任に関してお互いを非難し合い、リッシュモン派とラ・トレモイユ派の間に再び亀裂が入り、口論といさかいが起きた。クレルモン伯は憤慨してオルレアンを離れ自領に戻り、更なる戦いへの参加を拒んだ。王太子はブルゴーニュ派との和平を求めるよう再び説得され、もしこれに応じない場合辞職してドーフィネに後退し、更にはスコットランドに亡命することも考慮するよう説得された。 3月、デュノワは異母兄オルレアン公の代わりに、中立地域としてそこを治めるために、オルレアンを自分に引渡せという善良公が拒否出来ない提案をした。善良公はベッドフォード公にその提案を受け入れるように説得するために、4月初旬に急いでパリへ向かった。しかしベッドフォード公は、オルレアンは間もなく陥落すると確信し彼の提案を拒んだため善良公は怒り、イングランドの包囲に対するブルゴーニュの援助を止めた。 ちょうどニシンの戦いの日に、フランスの農家の若い娘ジャンヌ・ダルクが、ヴォークルールのDauphinoisの守備隊長であるロベール・ド・ボードリクールと会い、王太子を救援し、ランスで彼の戴冠式を行なうという神から与えられた使命を、懐疑的であったボードリクールに説明した。彼女は以前2度に渡ってボードリクールと会い、そのことを拒否されていた。しかしこの時彼は承諾し、シノンにある王太子の邸宅に彼女を連れて行くように取り計らった。ラ・ピュセル年代記によると、ボードリクールとのこの会談の際、ジャンヌはその日王太子の軍隊がオルレアン付近で撤退を余儀なくされ、自分を彼の元にすぐに送らなければ、他の悪いことが起きると打ち明けていた。 結果的に、ルヴレでの敗戦の知らせがヴォークルールに届いた時に、ボードリクールは彼女の先見の明を確信するようになり、彼女を王太子の元に連れて行くことに同意した。物語が真実であろうとなかろうと、すべての出典によって受け入れられていようとなかろうと、2月23日にジャンヌはヴォークルールを去り、シノンに向かった。
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