ニシンの戦いとは? わかりやすく解説

ニシンの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/13 03:45 UTC 版)

ニシンの戦い(ニシンのたたかい、英語:Battle of the Herrings、フランス語:Journée des Harengs)は1429年2月12日に、フランスオルレアン郊外のルヴレ=サント=クロワ英語版で起こった、イングランド王国軍とフランス王国スコットランド王国軍の戦いである。百年戦争オルレアン包囲戦中に、攻城側のイングランド軍の輜重隊をフランス・スコットランド軍が襲撃したが撃退された。運んでいた物資の中にニシンの樽があり、戦闘後に戦場にニシンが大量にばらまかれていたことからこう呼ばれた[1]


  1. ^ [1] (April 2000) Retrieved on 4 May 2008
  2. ^ 堀越、P33 - P38、ペルヌー、P376 - P378、清水、P165 - P170。
  3. ^ a b c d Devries, Kelly. Joan of Arc a military leader. The History Press 2003. ISBN 978-0752460611. 
  4. ^ ペルヌー、P378、清水、P170。
  5. ^ 堀越、P38 - P40、ペルヌー、P378 - P379、清水、P170 - P171。
  6. ^ 堀越、P40 - P41、ペルヌー、P379 - P382、清水、P171 - P174。


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ニシンの戦い

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オルレアン包囲戦」の記事における「ニシンの戦い」の解説

「ニシンの戦い」も参照 1428年10月オルレアンへの脅威リッシュモンラ・トレモイユゲリラ隊に一刻早い一時停戦促した1429年初期クレルモン伯オルレアン解放のためにフランススコットランド軍をブロワ集めたイングランド軍の包囲部隊ジョン・ファストルフ指揮下にあり、パリからイングランド軍の補給部隊派遣されたことを聞きクレルモン伯はそれを迎撃するために回り道をすることを決定したジャン・ド・デュノワ指揮下のオルレアンからの軍は、イングランドの軍列を気付かれないように通過し加勢した。 2月12日2つの軍はジャンヴィルで合流し、ルヴレ(Rouvray)でイングランド補給部隊攻撃し、ニシンの戦いとして知られる交戦となった。この時、補給部隊が来る四旬節用のための大量積んでいたことから、この名が付いたフランス軍接近に気づいたイングランド軍は、供給用の車を伴ったウォーワゴン」を作り、その周囲弓兵取り囲ませた。クレルモン伯フランス軍に「下がれ砲撃ダメージ加えるぞ」と命じた。しかし、エヴルー伯に率いられスコットランド連隊大砲での攻撃に不満を表し近づくことを決定したフランス隊列は、続くべきか、命令どおり残るべきか不確かであったために気後れしていた。 フランス軍が動かなかったこと、または気後れしたほんのわずかな兵しか動いていなかったことを見てイングランド軍は好機であると感じたイングランド騎馬隊ウォーワゴンから出動し孤立したスコットランド軍を圧倒し気後れしていたフランス軍撃退したフランス軍混乱パニックに陥り、撤退したエヴルー伯は戦死しデュノワ負傷した3日後、ファストルフが勝ち誇ってオルレアンイングランド兵に物資届けた。 ルヴレでの敗北により、フランス軍士気大きく低下したクレルモン伯デュノワ敗戦責任に関してお互い非難し合いリッシュモン派とラ・トレモイユ派の間に再び亀裂入り口論いさかい起きたクレルモン伯憤慨してオルレアン離れ自領に戻り更なる戦いへの参加拒んだ王太子ブルゴーニュ派との和平求めるよう再び説得され、もしこれに応じない場合辞職してドーフィネ後退し更にはスコットランド亡命することも考慮するよう説得された。 3月デュノワ異母兄オルレアン公代わりに中立地域としてそこを治めるために、オルレアン自分引渡せという善良公が拒否出来ない提案をした。善良公はベッドフォード公にその提案受け入れるように説得するために、4月初旬急いでパリへ向かった。しかしベッドフォード公は、オルレアン間もなく陥落する確信し彼の提案拒んだため善良公は怒りイングランド包囲対すブルゴーニュ援助止めた。 ちょうどニシンの戦いの日に、フランス農家の若い娘ジャンヌ・ダルクが、ヴォークルールのDauphinoisの守備隊長であるロベール・ド・ボードリクール会い王太子救援しランス彼の戴冠式行なうという神から与えられ使命を、懐疑的であったボードリクールに説明した。彼女は以前2度渡ってボードリクールと会いそのこと拒否されていた。しかしこの時彼は承諾しシノンにある王太子邸宅に彼女を連れて行くように取り計らったラ・ピュセル年代記によると、ボードリクールとのこの会談の際、ジャンヌその日王太子軍隊オルレアン付近撤退余儀なくされ、自分彼の元にすぐに送らなければ、他の悪いこと起きると打ち明けていた。 結果的に、ルヴレでの敗戦知らせがヴォークルールに届いた時に、ボードリクールは彼女の先見の明確信するようになり、彼女を王太子元に連れて行くことに同意した物語真実であろうとなかろうとすべての出典によって受け入れられていようなかろうと、2月23日ジャンヌはヴォークルールを去りシノン向かった

※この「ニシンの戦い」の解説は、「オルレアン包囲戦」の解説の一部です。
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