デビュー後の活躍、30歳での事故死
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「ジネット・ヌヴー」の記事における「デビュー後の活躍、30歳での事故死」の解説
一躍スターとなったヌヴーは、ヴァイオリニストとしてのキャリアの最初に、ハンブルクでブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏した。次いで1936年にニューヨーク、1938年にベルリンでデビューした。その後、第二次世界大戦が勃発する1939年9月までの間に、ヌヴーはドイツ、ソ連、アメリカ、カナダで演奏した。 特にベルリンでの人気はすさまじく、独エレクトローラ(英EMIのドイツ法人)との録音契約が直ちに成立し、1938年4月~5月と1939年4月に、計7曲をベルリンで録音した。全て、SP盤1面に入るピアノ伴奏の小品であった。録音時のピアノ伴奏はen:Bruno Seidler-WinklerとGustaf Beck であった。 ヌヴーは第二次世界大戦の間は演奏活動を中断していたが、フランスに平和が戻ると演奏活動を再開した。ピアノ伴奏は、兄ジャンが務めた。フランシス・プーランクのヴァイオリンソナタの作曲に当たって協力し、1943年の初演を作曲者と共に行った。ヌヴーは1945年から1946年にかけ、フランスとイギリスの間を何度も行き来して演奏会や録音を行った。1945年11月から、英EMIとの本格的な録音をスタートし、シベリウスとブラームスのヴァイオリン協奏曲をはじめ、CD換算で3枚分のスタジオ録音を翌1946年の8月までに行った。 1946年から1947年にかけて南北アメリカを演奏旅行し、次いで欧州各地で演奏した。1948年にはオーストラリア・アメリカで演奏旅行を行った。1949年にはエディンバラ国際フェスティバル(8月~9月)に出演し、イギリスの各地で演奏した。 1949年10月20日のパリでのリサイタルが、ヌヴーの最後の演奏会となった。 1週間後の10月27日、兄ジャンと共にエールフランスのロッキードL-749コンステレーションに搭乗し、三度目のアメリカ演奏旅行に向けて旅立った。このエールフランス機には、エディット・ピアフの愛人としても知られるフランス人プロボクサー、マルセル・セルダンも同乗していた。しかし、同機はアゾレス諸島の主島であるサンミゲル島の山中に墜落し、乗員と48人の乗客は全員死亡した(1949年エールフランスロッキード コンステレーション墜落事故)。ヌヴーの遺体は、発見された時に愛器ストラディヴァリウスを両腕に抱え込むようにしていたと伝えられる。
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