タバコ文化と奴隷制の興隆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/12 03:15 UTC 版)
「アメリカ合衆国南部の歴史」の記事における「タバコ文化と奴隷制の興隆」の解説
1613年にタバコの栽培が始められてから、それが初期南部経済の基盤を形作るようになった。綿花が基幹製品になったのはかなり後のことであり、特に1794年にイーライ・ホイットニーがコットン・ジンを発明して綿花栽培の収益性を大きく向上させたことにより発展した。それまでは、綿花の大半はカロライナ植民地の大規模プランテーションで栽培され、小さな農場でも利益が出るタバコが南部と大西洋岸中部の重要な輸出用換金作物となった。 植民地における奴隷制の初期形態は1619年にオランダの奴隷船によって奴隷が輸入されたのが始まりであり、1660年代には既に奴隷が年季奉公者よりも経済的に有利な労働力になっていた。この期間の平均余命は低く、人口が過剰になったヨーロッパから多くの年季奉公者がアメリカに来ていた。年季奉公者は奴隷よりもコストが安く、モラルは高かったので、農園主の中には年季奉公者を使う方が経済的と考える者も多かった。 このために初期植民地の奴隷制はカリブ海のものとは大きく異なっていた。カリブ海の奴隷は文字通り死ぬまで大規模な砂糖と米のプランテーションで働かされたが、アメリカの奴隷は平均余命が高く、出産による奴隷人口の自然増も図られた。1808年にアメリカ合衆国議会によって奴隷の輸入が禁じられた後も、この人口増が奴隷制の継続の重要な要素となった。 奴隷貿易の大半は三角貿易の一部として行われた。すなわち奴隷、ラム酒および砂糖の交易だった。南部農園主はカリブ海で栽培されたサトウキビを使ってニューイングランドで造られたラム酒で奴隷を買った。この奴隷貿易は年季奉公者の導入が下火になった後に南部のタバコ栽培の労働需要を満たすことができた。アメリカに連れて行かれる奴隷の大半は食を拒み無益な労働よりも死ぬことを望んだと言われている。 タバコ労働者の需要が増加し始めた頃に植民地の死亡率が減少した。17世紀後半や18世紀初期までに、奴隷はタバコ栽培のための経済的に貴重な労働資源となった。また大西洋岸中部よりも南部の開拓者達は米、藍および綿花を育てて売却することで裕福になった。サウスカロライナのプランテーションはカリブ海のプランテーションをモデルにすることが多かったが、その規模までは同じようにできなかった。
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