ザロモン時代とは? わかりやすく解説

ザロモン時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:26 UTC 版)

突撃隊」の記事における「ザロモン時代」の解説

党組織再建がだいぶ進んでくると、ヒトラー突撃隊各支部ではなく中央からコントロールすることを希望するようになった1926年7月27日ヒトラーは、9月1日より突撃隊最高指導者(OSAF)を新設しフランツ・プフェファー・フォン・ザロモン11月1日から同職就任させる発表したザロモン直ち支部集団単位になっていた突撃隊中央集権型の組織体制変更した旅団(2〜5個連隊構成)、連隊(2〜5個大隊構成)、大隊(2〜4個中隊で構成)、中隊(5〜8個団で構成)、団(6〜12人で構成)という指導者原理に基づく垂直組織で構成させ、特に大隊日常の活動基本単位とした。1927年初頭には、18大隊編成された。突撃隊員はザロモン忠誠誓い、彼は党中央執行部メンバーとして議長であるヒトラー忠誠を誓う形となった。しかしこのために、大管区指導者など党の政治組織指導者からの指示突撃隊が従う必要がなくなってしまい、後々対立を招くことになる。 隊員数は、ザロモンの隊最高指導者就任時に2万人1927年8月に3万人1929年8月には5万人、1930年10月には6万人ほどになった隊員大多数1020代若者たちであり、1929年になると旧帝国軍人や義勇兵であった者が突撃隊の中で25%程度にまで減り大多数従軍経験のない世代変貌した1930年1月14日突撃隊ホルスト・ヴェッセル赤色戦線戦士同盟隊員銃撃され瀕死の重傷を負う事件起き2月23日にその傷が原因死去したヴェッセルヨーゼフ・ゲッベルスによって殉教者として宣伝利用されるとともに、彼が作詞した旗を高く掲げよ」は党歌となった同年3月頃にはナチスヤング案反対闘争突撃隊員の暴力活動増えたヒトラー突撃隊禁止される恐れがあることから過剰な暴力活動嫌がっていたが、禁止しすぎれば離隊者が増える恐れがあったので、なかなか厳し締め付け出来なかった。結果国旗団赤色戦線戦士同盟などの左派武装組織との路上闘争激しくなり、死傷者頻繁に出るようになった。そのため6月5日バイエルン州ナチス制服禁止され、さらに6月11日にはプロイセン州政府6月13日にはバーデン州でも禁止された。このため党は対抗措置として制服白シャツ代えることで規制切り抜けたザロモン突撃隊福祉制度充実図った負傷保険制度突撃隊員の給与一部保険として積み立て負傷した際に負傷程度に応じて保険金得られるシステム)を導入し、また労働組合の「労働者ハウス」にならって突撃隊ハウス」を各地作るようになった。ここは失業者隊員宿泊施設であり、また隊員クラブとなった。 ザロモン時代に様々な組織突撃隊のもとに創設・あるいは傘下入れられた。1926年に彼が最高指導者就任した直後親衛隊傘下となっており、1934年までその状態が続いた。また1930年中に航空突撃隊(Flieger-SA)、自動車突撃隊(Motor-SA)、海上突撃隊(Marine-SA)が創設されている。このうち航空突撃隊は、1933年ドイツ空軍前身ドイツ航空スポーツ協会DLV)に吸収され自動車突撃隊1934年国家社会主義自動車軍団NSKK)として突撃隊から独立している。

※この「ザロモン時代」の解説は、「突撃隊」の解説の一部です。
「ザロモン時代」を含む「突撃隊」の記事については、「突撃隊」の概要を参照ください。

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