ザロモン時代
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党組織の再建がだいぶ進んでくると、ヒトラーは突撃隊を各支部ではなく、中央からコントロールすることを希望するようになった。1926年7月27日にヒトラーは、9月1日より突撃隊最高指導者(OSAF)を新設し、フランツ・プフェファー・フォン・ザロモンを11月1日から同職に就任させると発表した。 ザロモンは直ちに支部集団単位になっていた突撃隊を中央集権型の組織体制へ変更した。旅団(2〜5個連隊で構成)、連隊(2〜5個大隊で構成)、大隊(2〜4個中隊で構成)、中隊(5〜8個団で構成)、団(6〜12人で構成)という指導者原理に基づく垂直組織で構成させ、特に大隊を日常の活動の基本単位とした。1927年初頭には、18個大隊が編成された。突撃隊員はザロモンに忠誠を誓い、彼は党中央執行部のメンバーとして議長であるヒトラーに忠誠を誓う形となった。しかしこのために、大管区指導者など党の政治組織の指導者からの指示に突撃隊が従う必要がなくなってしまい、後々の対立を招くことになる。 隊員数は、ザロモンの隊最高指導者就任時に2万人、1927年8月に3万人、1929年8月には5万人、1930年10月には6万人ほどになった。隊員は大多数が10~20代の若者たちであり、1929年になると旧帝国軍人や義勇兵であった者が突撃隊の中で25%程度にまで減り、大多数は従軍経験のない世代に変貌した。 1930年1月14日、突撃隊員ホルスト・ヴェッセルが赤色戦線戦士同盟隊員に銃撃され、瀕死の重傷を負う事件が起き、2月23日にその傷が原因で死去した。ヴェッセルはヨーゼフ・ゲッベルスによって殉教者として宣伝に利用されるとともに、彼が作詞した「旗を高く掲げよ」は党歌となった。 同年3月頃にはナチスのヤング案反対闘争で突撃隊員の暴力活動が増えた。ヒトラーは突撃隊を禁止される恐れがあることから過剰な暴力活動を嫌がっていたが、禁止しすぎれば離隊者が増える恐れがあったので、なかなか厳しい締め付けを出来なかった。結果、国旗団や赤色戦線戦士同盟などの左派武装組織との路上闘争が激しくなり、死傷者が頻繁に出るようになった。そのため6月5日にバイエルン州でナチスの制服が禁止され、さらに6月11日にはプロイセン州政府、6月13日にはバーデン州でも禁止された。このため党は対抗措置として制服を白シャツに代えることで規制を切り抜けた。 ザロモンは突撃隊の福祉制度の充実も図った。負傷保険制度(突撃隊員の給与の一部を保険として積み立て、負傷した際に負傷の程度に応じて保険金を得られるシステム)を導入し、また労働組合の「労働者ハウス」にならって「突撃隊ハウス」を各地に作るようになった。ここは失業者隊員の宿泊施設であり、また隊員のクラブとなった。 ザロモン時代に様々な組織が突撃隊のもとに創設・あるいは傘下に入れられた。1926年に彼が最高指導者に就任した直後に親衛隊が傘下となっており、1934年までその状態が続いた。また1930年中に航空突撃隊(Flieger-SA)、自動車突撃隊(Motor-SA)、海上突撃隊(Marine-SA)が創設されている。このうち航空突撃隊は、1933年にドイツ空軍の前身ドイツ航空スポーツ協会(DLV)に吸収され、自動車突撃隊は1934年に国家社会主義自動車軍団(NSKK)として突撃隊から独立している。
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