ザグウェ朝
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ザグウェ朝(Zagwe dynasty)は、今日のエチオピアにあった歴史上の王国である。900年頃から1270年、最後の王ザ=イルマクヌン(Za-Ilmaknun)がイクノ・アムラクの軍との戦争で殺されるまで広い領土を治めた。王朝の名前は、アガウ族が支配階級であったことから、ゲエズ語で「アガウ族の王朝」という意味のZe-Agawから来たと考えられている[1]。ザグヴェ朝の最も有名な王は、ラリベラに石造りの教会を作ったことで知られるゲブレ・マスケル・ラリベラである。
- ^ Roland Oliver, The Cambridge history of Africa: From c. 1600 to c. 1790, Volume 1, (Cambridge University Press: 1982), p.112.
- ^ David Buxon, The Abyssinians (New York: Praeger, 1970), p. 44
- ^ G.W.B. Huntingford, "'The Wealth of Kings' and the End of the Zāguē Dynasty", Bulletin of the School of Oriental and African Studies, 28 (1965), p. 8
- ^ Henze, Layers of Time (New York: Palgave, 2000), p. 50 n.19
- ^ Taddesse Tamrat, Church and State in Ethiopia (Oxford: Clarendon Press, 1972), pp. 56ff
- ^ G.W.B. Huntingford, "'The Wealth of Kings'", p. 2
- 1 ザグウェ朝とは
- 2 ザグウェ朝の概要
- 3 外部リンク
ザグウェ朝(近代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 08:01 UTC 版)
「エチオピアの国家元首の一覧」の記事における「ザグウェ朝(近代)」の解説
ザグウェ朝の末裔であるギヨルギス2世が皇帝位にあった期間もまたザグウェ朝と呼ばれる。 ギヨルギス2世(1868年6月11日 - 1871年7月11日)
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ザグウェ朝(近代)
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「エチオピア帝国」の記事における「ザグウェ朝(近代)」の解説
ザグウェ朝の末裔であるギヨルギス2世が皇帝位にあった期間もまたザグウェ朝と呼ばれる。 ギヨルギス2世(1868年 - 1871年)
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ザグウェ朝
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1137年 にサグウェ朝を成立したマラ・テクレ・ハイマノート王は、アクスムよりも南方300kmに位置するラスタ地区を本拠地とし、その地区のロハに首都を定めた。ザグウェ朝の支配領域はファーティマ朝の伸張と、自らがエチオピア高地に拠っていたことからアクスム王朝に比べて南方に移動していた。ザグウェ王朝は紅海を支配するファーティマ朝と交易を行い、その利益が繁栄の源となった。一方、ザグウェ王朝はキリスト教への熱心な奉仕者であり、1177年には教皇アレクサンデル3世から手紙が届けられるに至った。その手紙のやり取りはインノケンティウス4世から100年以上に渡って継続的に続けられ、その結果ドミニコ派の修道士がエチオピアに派遣するなどの交流を生んだ。また、最初のインノケンティウス4世の手紙の宛名が「プレスター・ジョン」宛てとなっていたことで、これが後にエチオピア=プレスター・ジョン説の噂の出所となる。こうして時の教皇に伝わるほど共通してキリスト教を擁護してきたザグウェ王朝の歴代の国王だったが、その中でも熱心だった王ゲブレ・マスケル・ラリベラはラリベラの岩窟教会群を建設した。それは2万人以上を動員し、24年の歳月を費やして丘陵をくりぬいた11の教会群によって構成された地下寺院だった。また、ラリベラは聖地エルサレムにも巡礼を行っており、甥のナアクエト・ラアブの巡礼とともに、エチオピアのキリスト教徒の存在を強く印象付けた。そのため、バチカン図書館にはゲエズ語で書かれたラリベラ伝が収められている。 キリスト教を軸に独自の建築美術を築き上げたザグウェ王朝だったが、国力はアムハラ人ら有力部族が独立の傾向を見せる11世紀から衰え始める。ザグウェ王朝はアガウ族によって打ち立てられた王朝だが、周囲にはより大規模なアムリク人などが存在しており、その協調の綻びがそのまま国家の危機となった。ザグウェ王朝滅亡の直接のきっかけは王位継承を巡る内紛であり、これに乗じて王朝南端のショア(ショワ)と周辺地域のアムリク人らが相次いでザグウェを攻め、ついに1268年、ザグウェ王朝は滅亡した。 ラリベラの聖堂近景 ラリベラの聖堂遠景
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