ザグウェ朝とは? わかりやすく解説

ザグウェ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/31 06:53 UTC 版)

ザグウェ朝(Zagwe dynasty)は、今日のエチオピアにあった歴史上の王国である。900年頃から1270年、最後の王ザ=イルマクヌン(Za-Ilmaknun)がイクノ・アムラクの軍との戦争で殺されるまで広い領土を治めた。王朝の名前は、アガウ族が支配階級であったことから、ゲエズ語で「アガウ族の王朝」という意味のZe-Agawから来たと考えられている[1]。ザグヴェ朝の最も有名な王は、ラリベラに石造りの教会を作ったことで知られるゲブレ・マスケル・ラリベラ英語版である。


  1. ^ Roland Oliver, The Cambridge history of Africa: From c. 1600 to c. 1790, Volume 1, (Cambridge University Press: 1982), p.112.
  2. ^ David Buxon, The Abyssinians (New York: Praeger, 1970), p. 44
  3. ^ G.W.B. Huntingford, "'The Wealth of Kings' and the End of the Zāguē Dynasty", Bulletin of the School of Oriental and African Studies, 28 (1965), p. 8
  4. ^ Henze, Layers of Time (New York: Palgave, 2000), p. 50 n.19
  5. ^ Taddesse Tamrat, Church and State in Ethiopia (Oxford: Clarendon Press, 1972), pp. 56ff
  6. ^ G.W.B. Huntingford, "'The Wealth of Kings'", p. 2


「ザグウェ朝」の続きの解説一覧

ザグウェ朝(近代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 08:01 UTC 版)

エチオピアの国家元首の一覧」の記事における「ザグウェ朝(近代)」の解説

ザグウェ朝の末裔であるギヨルギス2世皇帝位にあった期間もまたザグウェ朝と呼ばれる。 ギヨルギス2世1868年6月11日 - 1871年7月11日

※この「ザグウェ朝(近代)」の解説は、「エチオピアの国家元首の一覧」の解説の一部です。
「ザグウェ朝(近代)」を含む「エチオピアの国家元首の一覧」の記事については、「エチオピアの国家元首の一覧」の概要を参照ください。


ザグウェ朝(近代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 08:02 UTC 版)

エチオピア帝国」の記事における「ザグウェ朝(近代)」の解説

ザグウェ朝の末裔であるギヨルギス2世皇帝位にあった期間もまたザグウェ朝と呼ばれる。 ギヨルギス2世1868年 - 1871年

※この「ザグウェ朝(近代)」の解説は、「エチオピア帝国」の解説の一部です。
「ザグウェ朝(近代)」を含む「エチオピア帝国」の記事については、「エチオピア帝国」の概要を参照ください。


ザグウェ朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 06:47 UTC 版)

エチオピアの歴史」の記事における「ザグウェ朝」の解説

1137年 にサグウェ朝を成立したマラ・テクレ・ハイマノート王は、アクスムよりも南方300kmに位置するラスタ地区本拠地とし、その地区ロハ首都定めた。ザグウェ朝の支配領域ファーティマ朝伸張と、自らがエチオピア高地拠っていたことからアクスム王朝比べて南方移動していた。ザグウェ王朝紅海支配するファーティマ朝交易行いその利益繁栄の源となった一方、ザグウェ王朝キリスト教への熱心な奉仕者であり、1177年には教皇アレクサンデル3世から手紙届けられる至ったその手紙のやり取りインノケンティウス4世から100年以上に渡って継続的に続けられその結果ドミニコ派の修道士エチオピア派遣するなどの交流生んだまた、最初インノケンティウス4世の手紙の宛名が「プレスター・ジョン宛てとなっていたことで、これが後にエチオピア=プレスター・ジョン説の噂の出所となる。こうして時の教皇に伝わるほど共通してキリスト教擁護してきたザグウェ王朝歴代国王だったが、その中でも熱心だった王ゲブレ・マスケル・ラリベラはラリベラの岩窟教会群建設した。それは2万人以上を動員し24年歳月費やして丘陵くりぬいた11教会群によって構成され地下寺院だった。また、ラリベラ聖地エルサレムにも巡礼行っており、甥のナアクエト・ラアブの巡礼とともにエチオピアキリスト教徒存在強く印象付けた。そのため、バチカン図書館にはゲエズ語書かれラリベラ伝が収められている。 キリスト教を軸に独自の建築美術築き上げたザグウェ王朝だったが、国力アムハラ人ら有力部族が独立傾向見せ11世紀から衰え始める。ザグウェ王朝アガウ族によって打ち立てられ王朝だが、周囲にはより大規模なアムリク人などが存在しており、その協調綻びそのまま国家危機となった。ザグウェ王朝滅亡直接きっかけ王位継承を巡る内紛であり、これに乗じて王朝南端ショア(ショワ)と周辺地域のアムリク人らが相次いでザグウェを攻め、ついに1268年、ザグウェ王朝滅亡したラリベラ聖堂近景 ラリベラ聖堂遠景

※この「ザグウェ朝」の解説は、「エチオピアの歴史」の解説の一部です。
「ザグウェ朝」を含む「エチオピアの歴史」の記事については、「エチオピアの歴史」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ザグウェ朝」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ザグウェ朝」の関連用語

ザグウェ朝のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ザグウェ朝のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのザグウェ朝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのエチオピアの国家元首の一覧 (改訂履歴)、エチオピア帝国 (改訂履歴)、エチオピアの歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS