カーソン・トレイル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/09 22:58 UTC 版)
「カリフォルニア・トレイル」の記事における「カーソン・トレイル」の解説
カーソン・トレイル(1848年開通、モルモン移民トレイルとも呼ばれた)は、約40マイル (60 km) のフォーティマイル砂漠を抜けてハンボルト・シンクを離れ、カーソン・シンクの西の縁を回って、現在のネバダ州ファロンの近くでカーソン川に至った。カーソン・トレイルは、ジョン・C・フレモントが1844年2月にカーソン・パスを通ってシエラネバダ山脈を越えた時の斥候、キット・カーソンに因んで名付けられた。砂漠を抜ける道には西端で厚さ6ないし12インチ (15-30 cm) の砂が積もっていたが、カーソン川が堆積した砂が西に吹き寄せられたものである。この砂で大変疲れ切っていた役畜が砂漠を旅するのを難渋させ、1849年やその他主要な移民の年には数百の役畜がここで死んだ。 移民の荷車ルートは通常、1人の女性を含む約45人のモルモン大隊を除隊したメンバーが早くに開発したカーソン・パスを使っていた。彼らは17両の荷車と300頭の牛を連れて1848年に東のソルトレイクシティに向かった。これらの荷車隊は、カリフォルニアに中実の車輪を付けた単純な牛車以外作る設備の無かった1846年あるいは1847年に移民してきた古参兵だった。彼らは現在のプレーサービル(1848年にはサッターズ砦より東に実質的開拓地は無かった)の東にシエラネバダ山脈のアイアン山尾根を辿り、シルバー湖に近いトラジディ・スプリングに至った。ここで彼らは斥候の中の3人が殺されているのを見つけたが、インディアンによるものと考えられた。そこからは標高9,050フィート (2,760 m) のウェスト・パスに上り、ケイプルズ湖に降れば、数マイル先が標高8,650フィート (2,640 m) のカーソン・パスだった。ここで下の美しい渓谷に下りる方法はロープや鎖を使って何度も方向を変える必要のある大変急な尾根道だけであり、その先にホープ渓谷の水源レッド湖があった。カーソン山脈を越えるためには、カーソン川を辿り、約6マイル (10 km) の大変荒々しいカーソン川キャニオンを進むことだった。このキャニオンは巨礫や岩で埋っており、それらはカーソン山脈から川がえぐってキャニオンまで1,000フィート (300 m) 以上も落下させたものだった。幾つかの場所では荷馬車を通す為にキャニオンを拡げ、塞いでいる巨礫を取り除いて東に進んだ。巨礫や通り抜けられないような狭いキャニオンで火をつけようとすれば(流木は容易に手に入った)、熱い岩に冷たい水をかけることでつるはしやシャベルを使って容易に岩が砕けることが分かった。火、水、および熱心につるはしをつかうことで通れなかった道が通れるようになった。1853年ころ、このキャニオンを抜ける道路は間歇的に有料となり、巨礫が除去され2つの橋が造られた時には大変使いやすいものになった。現在のカリフォルニア州道88号線と同89号線がカーソン川キャニオンを通っており、爆発物やブルドーザーを使って滑らかにまた真っ直ぐにされている。 1848年に西に向かった旅行者は、現在のネバダ州ファロンからモルモン大隊が造った道を辿った。カーソン川キャニオンを抜ける道はまだ大変荒々しいものであり、巨礫に対してロープやバール、梃子などを使って格闘し、幾つか急ごしらえの橋も使って最後に美しい標高7,100フィート (2,160 m) のホープ渓谷に入った。ホープ渓谷から西に向かう旅人は、急峻で岩が多く曲がりくねった道を登って、氷河が造った圏谷の裏壁を進みタホ湖の南でシエラネバダ山脈を越えた。レッド湖に近いホープ渓谷の奥では、この道が「悪魔の梯子」と呼ばれ、最後の半マイル (1 km) で険しい斜面を700フィート (110 m) 以上も登らなければならなかった。今日、注意して見ると、鉄の縁をつけた荷車の車輪がつけた刻み目、溝、錆跡が見られ、ロープ、鎖やプーリーで付けられた樹木の傷跡もわかる。旅人達はおよそ1日の重労働で峠の頂点にまで達した。この道は標高8,700フィート (2,650 m) のカーソン・パスでシエラネバダ山脈を越えた。当時の先に進む道はカーソン・スパーに遮られていた。これはウェスト・パス(現在はカークウッド・スキーリゾートの一部)に進むことによってのみ荷車を進められる切り立った尾根だった。カーソン・トレイルを進むには、モルモン大隊が切り開いた道を辿り、現在のケイプルズ湖(貯水池)で南に折れ、標高9,500フィート (2,900 m) のウェスト・パスに登ってやっとシエラネバダ山脈を越えたことになった。ウェスト・パスを越える半日行程はカーソン・パスを越える時よりも容易であり、1848年から1863年まで数千の荷車が使った。その後カーソン・スパーの崖の面により良い経路が開通された。カーソン・トレイルはプレーサービルや金鉱地帯の中心に真っ直ぐ伸びており、長年多くの移民にとって主要経路となった。現在のカリフォルニア州道88号線は道の難しい所の多くを切り開いて真っ直ぐにし、自動車が通れるようにしている。しかし大まかにモルモン移民トレイルあるいはアイアン山道路と呼ばれた道に合流するまでカーソン・トレイルの大半に沿って進んでいる。その先はカリフォルニア州ポロック・パインズやプレーサービルに通じている。 カーソン・トレイルには多くの枝道ができ、荷車のために有料道路ができたので、移民や鉱夫達はそれらを通ってシエラネバダ山脈を越えた。
※この「カーソン・トレイル」の解説は、「カリフォルニア・トレイル」の解説の一部です。
「カーソン・トレイル」を含む「カリフォルニア・トレイル」の記事については、「カリフォルニア・トレイル」の概要を参照ください。
- カーソン・トレイルのページへのリンク