ウィーンのカフェ文化
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「世紀末ウィーン」の記事における「ウィーンのカフェ文化」の解説
「de:Wiener Kaffeehaus」および「ウィーン#カフェハウス」も参照 ウィーンはコーヒーの街として知られる。ウィーン風コーヒーは「カプツィーナー」や「フランツィスカーナー」をはじめとして、淹れ方や牛乳の量、合わせるもの(リキュールや生クリーム)による種類だけで十数種におよぶといわれる。ウィーンの世紀末文化においても、カフェハウスの役割はきわめて大きかった。 シュテファン・ツヴァイクは『昨日の世界』(1942年)のなかで「あらゆる新しいものに対する最良の教養の場所はつねにカフェであった」と述べ、また、カフェほど「オーストリア人の知的な活発さと国際的視野とに貢献したものはおそらくないだろう」と回想している。カフェには新聞や雑誌が置いてあり、仲間との会話を楽しむ情報交換の場であり、批評し、議論をする場でもあった。ウィーンの住宅事情の悪さがカフェハウスの流行に拍車をかけたともいわれているが、男女の交際のあり方や都市民の生活のあり方や質もまた、おおいに変化したのである。 1824年に開業したカフェ・フラウエンフーバー(ドイツ語版)は現存するウィーンで最古のコーヒーハウスで、レストランとして利用されていた時代にはモーツァルトもここで演奏している。ウィーン大学の近くにあるカフェ・ラントマンは、精神分析医のジークムント・フロイトも通った。ホテル・インペリアル(ドイツ語版)1階のカフェ・インペリアルはグスタフ・マーラーのお気に入りであった。建築家アドルフ・ロースが内装をデザインしたカフェ・ムゼウム(ドイツ語版)では、両大戦間、のちにノーベル文学賞を受賞するエリアス・カネッティが他の文学者たちと過ごすことが多かった。オペレッタの名手であったフランツ・レハールは、カフェ・シュペール(ドイツ語版)では崇拝の的であった。シュペールには、コロマン・モーザーやヨゼフ・マリア・オルブリッヒといった分離派の芸術家も顔を出した。 カフェ・グリーンシュタイドル(ドイツ語版)は1847年に開店し、青年ウィーン派の詩人や作家がここに集まり、定期的に会合を開いた。カール・クラウス、アルトゥール・シュニッツラー、リヒャルト・ベーア=ホフマン、フーゴ・フォン・ホーフマンスタール、シュテファン・ゲオルゲといった面々であった。しかし、この店は道路拡張工事のため1897年に閉店することとなる。そのため、ここの常連たちはいっせいにカフェ・ツェントラール(ドイツ語版)にうつったという。 カフェ・ツェントラールはアーチ型の天井をもつ店で、そこには作家や自由思想家たちが集まった。名物男でカフェ文士として知られるペーター・アルテンベルクはここの常連であり、現在、この店には彼の座像が飾られている。アルテンベルクは、宿泊場所はホテルを利用していたが、起きている時間の大半をツェントラールで過ごし、また、彼より20歳近く若いエゴン・フリーデルとよく連れ立ってウィーンの街を徘徊した。2人は、廃業する前のカフェ・グリーンシュタイドルにもよく顔を出した。カフェ・ツェントラールには、オットー・バウアー、カール・レンナー、ルドルフ・ヒルファーディングといった社会主義者も通った。ヒルファーディングの友人であったロシア人、レオン・トロツキーもここの常連であった。彼が本名であるブロンシュタインというユダヤ風の姓を捨てたのは、反ユダヤ主義のせいであるという。彼はここでロシア革命の構想を練った。二重帝国の外務大臣だったレオポルド・ベルヒトルド(ドイツ語版)はロシア革命勃発の報を耳にしたとき、大笑して「驚くにもほどがあるよ、あの一日中ツェントラルでチェスに熱中していたプロンシュタイン君があの革命をしたというのかい」と叫んだという。ツェントラールには、ロシア革命の指導者ウラジーミル・レーニン、心理学者のアルフレッド・アドラーも顔を出した。 カフェハウスでは、文士たちによる執筆もさかんになされた。その一方で、文学作品にもカフェでの場面が頻繁に登場する。1938年以前のウィーンの人々にとって、カフェハウスは1日のうちの最も大事な時間を過ごす場でもあったのである。
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