イスラーム勢力との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 06:25 UTC 版)
「ニケフォロス2世フォカス」の記事における「イスラーム勢力との戦い」の解説
即位したニケフォロスは積極的な対外政策を推し進めた。皇帝となってからも強力な重装騎兵軍団をつくり上げてイスラーム勢力を相手に戦い続け、アレッポ、タルソスを占領した。さらに、フォカス家の家臣団はヘラクレイオス王朝のヘラクレイオス1世の時代以来300年以上も帝国から離れていたシリアのアンティオキアを奪回するなど、帝国領の拡大に成功を収めた。かつてのキリスト教五大本山 のひとつでオリエント有数の大都市であったアンティオキアの回復にコンスタンティノポリスの市民は歓喜した。市民たちは、凱旋の行進を行う皇帝を喝采して、 おお、明けの明星が昇りはじめた。朝の星が昇る。彼の瞳に太陽の光が輝く。その前では、サラセン人も恐怖に蒼ざめて死ぬ。 という歌をうたったといわれる。なお、歌詞中の「サラセン人」とは、イスラーム教徒(ムスリム)を指している。敬虔なキリスト教徒であるニケフォロスはまた、現在まで続くアトス山の修道院共同体を後援した。エドワード・ギボンは「この軍勢をローマ軍と呼ぶことに躊躇しない」と評している。 しかし、長年アラブ人との最前線に立っていたためか、東方の風習が抜け切れず、あれだけ熱狂的にニケフォロスを迎え入れたはずの首都の市民からもすぐに半蛮族のように嫌われ、教会が世俗世界に権力を伸ばそうとしている姿を不快に思って聖職者たちに清貧を訴えたため、敬虔な信仰心を持っていたにもかかわらず総主教たちからも嫌われた。さらに連年の戦争で必要な軍費を調達するために、国民はもちろんのこと、貴族や軍人にまで重税を課し、さらには財源を確保するために貨幣の悪鋳を行った。965年にニケフォロスがシチリア遠征に失敗すると、民衆の不満は増大した。またフォカス家の親族や関係者を優遇したため、貴族層や軍人までニケフォロス2世に怨嗟の声を上げるようになった。ニケフォロスは強力な親衛隊を組織し、教会人からの抗議に対しても動じなかった。彼が危険視したのは、軍人層のみであり、不穏な動きをみせた甥のヨハネス・ツィミスケスに対しては、皇宮への出入りを差し止めた。
※この「イスラーム勢力との戦い」の解説は、「ニケフォロス2世フォカス」の解説の一部です。
「イスラーム勢力との戦い」を含む「ニケフォロス2世フォカス」の記事については、「ニケフォロス2世フォカス」の概要を参照ください。
- イスラーム勢力との戦いのページへのリンク