イスラーム共和国期
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イラン革命後の1979年、ルーホッラー・ホメイニーはメフディー・バーザルガーンをイラン暫定政権の首相とし、バーザルガーン暫定内閣は1979年11月までその任にあった。アメリカ大使館人質事件中に内閣は辞任した。しかしながら、アメリカ大使館人質事件のみが辞職の理由ではなく、総辞職の決定はアメリカ大使館への学生突入の前日にはなされていたと言及される[誰?]。 その後、首相職は空席であった。1980年1月、アボルハサン・バニーサドルが大統領に選出され、モハンマド・アリー・ラジャーイーを首相に任命。これはマジュレス(議会)、特にイスラーム共和党に近い議員たちの圧力によるものである。ラジャーイーは1981年6月のバニーサドルの弾劾まで在職し、1981年7月24日の選挙で大統領に選出された。大統領となったラジャーイーはモハンマド・ジャヴァード・バーホナルを首相とするが、両名ともわずか数週間後の8月30日に首相府で暗殺された。 1981年10月の選挙でアリー・ハーメネイーが大統領となると、議会に対し右派のアリー・アクバル・ヴェラーヤティーを首相候補として指名するが、左派が多数を占める議会はこれを不信任とし、左派に望ましい候補、特にミール・ホセイン・ムーサヴィーの指名を強いた。この争いは最高指導者ルーホッラー・ホメイニーが仲介し、ハーメネイーにムーサヴィーを受け入れるよう助言して終結した。 ムーサヴィーは1989年に憲法が改正されるまで在職した。同改正で、首相職は廃止され、職務は大統領と新たに設置された第一副大統領に分割された。
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