アジア競技大会(仁川)銅メダル
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「川内優輝」の記事における「アジア競技大会(仁川)銅メダル」の解説
レース前「目標は2時間7分30秒以内」と宣言した2013年12月1日の福岡国際マラソンでは、ペースメーカーが外れた中間点で川内自ら先頭集団を抜け出しスパートを仕掛ける。しかし29km過ぎで後ろの集団に吸収され、34km過ぎ、優勝したマーティン・マサシについていけなかった。その後は3位の位置をキープし、タイムは2時間9分台ながら日本人ではトップの3位に食い込んだ(ライバル・藤原新は20km過ぎで途中棄権)。なお、福岡国際マラソンから2週間後(12月15日)には、前年優勝の防府読売マラソンに出場。結果は2位だったが、前年を上回る2時間9分15秒(大会史上3位)で完走したことによって、「月間2大会(および2大会連続)でゴールタイムが2時間10分を切る」という快挙を達成した。 2014年3月2日のびわ湖毎日マラソンでは、22km過ぎで先頭集団から脱落するもレース終盤に追い上げ、日本人では佐々木悟に次ぐ2番手の4位に入る。同年3月12日、東京マラソン2014で日本男子首位で8位の松村康平と共に仁川アジア競技大会男子マラソン代表に選出された。 同年4月1日、春日部高校より地元の埼玉県立久喜高等学校定時制・事務職員へ移動。12日後の4月13日、さが桜マラソンでは15kmから独走し12回目のマラソン優勝。それから僅か1週間後の4月20日、とくしまマラソンでは途中腹痛により20km過ぎでトイレに駆け込み、3分近くのロスタイムが発生しながらも同マラソンの大会新記録で13回目のマラソン優勝。5月4日のハンブルクマラソンは9位ながら日本男子首位、さらに日本人では、男子マラソン最高記録保持者の高岡寿成を超える、単独最多記録のマラソン7度目のサブテン(2時間10分未満)を達成した。6月15日の第9回隠岐の島ウルトラマラソン男子50kmの部は、招待選手として出走の為順位は付かずタイムは参考記録ながら、自らの大会記録・非公認の日本記録を更新、世界歴代6位相当の2時間47分27秒でフィニッシュ。7月6日のゴールドコーストマラソンでは20km手前、転がってきたカラーコーンを踏み外し転倒したが、後半追い上げて日本男子トップの3位に食い込んだ。川内は、ペースメーカーと選手が蹴ったコーンが自分の前に来たと語った。 2014年10月3日開催の仁川アジア競技大会男子マラソンでは、レース終盤まで優勝のハサン・マハブーブ、2位の松村康平と激しく競り合ったが、最後のトラック勝負で離されてしまい、マハブーブに4秒、松村にも3秒の僅差で惜しくも敗れ3位に留まった。レース後の川内は「(2015年開催の)世界陸上北京大会男子マラソンの国内選考会には一切出場しない」と公言、2016年開催のリオデジャネイロオリンピック男子マラソン日本代表は、世界陸上後の国内選考レースで出場選出を目指す予定。同年12月21日開催の防府読売マラソンでは、同大会2年ぶり2回目の優勝、同年5月のハンブルクマラソン以来8度目のサブテンを達成した。 2015年4月12日、本庄早稲田の杜クロスカントリー・ハーフマラソンのレース後、「2017年の世界陸上ロンドン大会でメダル獲得を目指し、同大会で第一線から区切りを付けたい」と、日本代表から引退する意向を示した。また同年6月、昨2014年度に日本陸連が設立したマラソンナショナルチーム(NT)の、今年度のメンバー入りを辞退した事を明らかにした(日本陸連は2015年5月、翌2016年のリオ五輪マラソン日本代表選考でNTメンバーから優先的に選出とした規則を撤廃)。それに関して川内は「(方針を)コロコロと変えるのはどうか。優遇が無ければ辞退する選手は沢山出ると思う」等、NTへの不満や疑問点についても追求している。 2015年5月24日、富山県黒部市のカーター記念 黒部名水マラソンでは、タイムは2時間17分台と平凡ながら自身20回目のフルマラソン優勝を達成。同年6月21日、第10回隠岐島ウルトラマラソン男子50kmに5年連続で出場。2時間48分台でゴールしたが、昨年同様順位はつかず参考記録扱いだった。同年8月30日、オーストラリアのシティ2サーフマラソンへ2年連続で出走、同大会2連覇を成し遂げた。
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