肥薩の泡盛(ひさつのあわもり)
江戸前期、肥後国とこれに隣接する薩摩国のコメ焼酎は、肥薩の泡盛と呼ばれた。当時泡盛といえば濁醪(にごりもろみ)を蒸留した醪取焼酎を意味し、焼酒あるいは焼酎といえば清酒粕(かす)を蒸留した粕取焼酎のことであった。元禄期には粕取焼酎が庶民の酒として普及するが、泡盛酒は飲用よりも医薬品として江戸や大坂で高価に取り引きされ、珍重されていた。当時の文献にみる薬用効果には、暑気払い、胃けいれん、食欲不振、腰痛、小水つまり、うっ血、赤眼、刀傷、虫さされや寒を去り、積もる悩みを消し、痰(たん)のつまりを散ずなどとある。琉球泡盛が琉球産として知られるようになるのは江戸中期以降のことで、それまでは薩摩泡盛と混同されていた。肥前の焼酎は「火の酒」と呼ばれ強いものであったようであるが、薩摩泡盛は琉球泡盛よりもアルコール分が低く、薬用としては一段おとっていた。薩摩の泡盛(焼酎)は『西遊記(せいゆうき)』に「薩州には焼酒(しょうちゅう)とて琉球の泡盛ようの酒あり。京都の焼酒(粕取焼酎のこと)のように強からず」ともあるように、強くないところにその特徴があったようである。
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