「板垣死すとも自由は死せず」の真相とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 「板垣死すとも自由は死せず」の真相の意味・解説 

「板垣死すとも自由は死せず」の真相

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/11 07:01 UTC 版)

岐阜事件」の記事における「「板垣死すとも自由は死せず」の真相」の解説

板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉は、板垣襲撃受けた際に叫んだと言われている。 かつて『報知新聞』の記者であった某氏は、この「『板垣死すとも自由は死せず』の言葉は、内藤魯一事件時に叫んだ言葉であり、内藤板垣叫んだ事にした」という事聞き取材重ねたが、それを裏付ける証拠無く記事にする事を断念した板垣自身は、当時の様子下記のように記している。 「予(板垣)は人々黙礼して二、三歩を出づるや、忽ち壮漢あり『国賊』と呼びつつ右方横合より踊り来つて、短刀を閃かして予の胸を刺す。(中略)内藤魯一、驀奔し来り兇漢の頸(くび)を攫(つか)んで仰向に之(これ)を倒す。白刃闇を剪いて数歩の外に墜つ。予(板垣)、刺客睥睨して曰く板垣死すとも自由は死せず』と。刺客相原尚褧といふ者…(以下略)」(『我國憲政の由來板垣退助著) 4月6日事件後すぐに出され4月11日付の『大阪朝日新聞』においても、「板垣は『板垣死すとも自由は亡びませぬぞ』と叫んだ」と記されており、当時に於いてこれを否定する報道一つも無いばかりか事件現場目撃者らを初め兇漢相原尚褧自身もこれを否定していない。 さらに、近年政府側の密偵自由民権運動監視していた立場目撃者岡本都嶼吉(岐阜県御嵩警察署御用掛)の報告書においても、板垣自身同様の言葉襲撃された際に叫んだという記録発見され今日至っている。 「板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス」(自由党臨時報より) 「吾死スルトモ自由ハ死セン」(岐阜県御嵩警察署員(政府密偵)・岡本都嶼吉の上申書より) 「我今汝カ手ニ死スルコトアラントモ自由ハ永世不滅ナルヘキゾ」(岐阜県警部長川俣正名の報告書より) 他にも、実際に土佐弁叫んだとも言われている[要出典]。 咄嗟にあの発言出来たのか 令和2年(2020年)に出された、中元崇智の研究によると、岐阜遭難事件の約1年半前の明治13年(1880年)11月板垣退助甲府瑞泉寺政党演説行い主催者峡中新報社の好意対し、 唯、余(板垣)は死を以て自由を得るの一事諸君に誓うべき也。板垣退助(『朝野新聞明治13年12月2日号) と礼を述べ、さらに事件より半年前の明治14年(1881年)9月11日には、大阪中之島「自由亭」の懇親会で、 而(しこう)して苟(いやしく)も事の権利自由の伸縮に関することあるに遇(あ)う毎(ごと)には、亦(ま)た死を以て之(これ)を守り、之を張ることを勉めんのみ。板垣退助東北周遊趣意及び将来目的明治14年9月11日) と発言しており、平素から自由主義命をかける決意あったから、咄嗟の場であの発言出来たというのが真相であろう

※この「「板垣死すとも自由は死せず」の真相」の解説は、「岐阜事件」の解説の一部です。
「「板垣死すとも自由は死せず」の真相」を含む「岐阜事件」の記事については、「岐阜事件」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「「板垣死すとも自由は死せず」の真相」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「「板垣死すとも自由は死せず」の真相」の関連用語

1
12% |||||

「板垣死すとも自由は死せず」の真相のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



「板垣死すとも自由は死せず」の真相のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの岐阜事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS