「板垣死すとも自由は死せず」の真相
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「岐阜事件」の記事における「「板垣死すとも自由は死せず」の真相」の解説
「板垣死すとも自由は死せず」という有名な言葉は、板垣が襲撃を受けた際に叫んだと言われている。 かつて『報知新聞』の記者であった某氏は、この「『板垣死すとも自由は死せず』の言葉は、内藤魯一が事件時に叫んだ言葉であり、内藤が板垣が叫んだ事にした」という事を聞き取材を重ねたが、それを裏付ける証拠が無く記事にする事を断念した。板垣自身は、当時の様子を下記のように記している。 「予(板垣)は人々に黙礼して二、三歩を出づるや、忽ち一壮漢あり『国賊』と呼びつつ右方の横合より踊り来つて、短刀を閃かして予の胸を刺す。(中略)内藤魯一、驀奔し来り兇漢の頸(くび)を攫(つか)んで仰向に之(これ)を倒す。白刃闇を剪いて数歩の外に墜つ。予(板垣)、刺客を睥睨して曰く『板垣死すとも自由は死せず』と。刺客は相原尚褧といふ者…(以下略)」(『我國憲政の由來』板垣退助著) 4月6日の事件後すぐに出された4月11日付の『大阪朝日新聞』においても、「板垣は『板垣は死すとも自由は亡びませぬぞ』と叫んだ」と記されており、当時に於いてこれを否定する報道は一つも無いばかりか、事件現場の目撃者らを初め兇漢の相原尚褧自身もこれを否定していない。 さらに、近年、政府側の密偵で自由民権運動を監視していた立場の目撃者・岡本都嶼吉(岐阜県御嵩警察署御用掛)の報告書においても、板垣自身が同様の言葉を襲撃された際に叫んだという記録が発見され今日に至っている。 「板垣ハ死スルトモ自由ハ亡ヒス」(自由党の臨時報より) 「吾死スルトモ自由ハ死セン」(岐阜県御嵩警察署員(政府密偵)・岡本都嶼吉の上申書より) 「我今汝カ手ニ死スルコトアラントモ自由ハ永世不滅ナルヘキゾ」(岐阜県警部長・川俣正名の報告書より) 他にも、実際には土佐弁で叫んだとも言われている[要出典]。 咄嗟にあの発言が出来たのか 令和2年(2020年)に出された、中元崇智の研究によると、岐阜遭難事件の約1年半前の明治13年(1880年)11月、板垣退助は甲府瑞泉寺で政党演説を行い、主催者の峡中新報社の好意に対し、 唯、余(板垣)は死を以て自由を得るの一事を諸君に誓うべき也。板垣退助(『朝野新聞』明治13年12月2日号) と礼を述べ、さらに事件より半年前の明治14年(1881年)9月11日には、大阪中之島「自由亭」の懇親会で、 而(しこう)して苟(いやしく)も事の権利自由の伸縮に関することあるに遇(あ)う毎(ごと)には、亦(ま)た死を以て之(これ)を守り、之を張ることを勉めんのみ。板垣退助『東北周遊の趣意及び将来の目的』明治14年9月11日) と発言しており、平素から自由主義に命をかける決意があったから、咄嗟の場であの発言が出来たというのが真相であろう。
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