M3軽戦車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/31 00:59 UTC 版)
配備と運用
大量生産されたM3軽戦車は他の多くのアメリカ製兵器と同じく、同盟国イギリスを始めとしてソ連、フランス、オーストラリア、中国などに供与された。イギリス軍は本車を北アフリカでの戦いに投入し、その信頼性の高さから親しみを込めて「ハニー」という愛称で呼ばれた。
本車が北アフリカに到着した直後にはクルセーダー作戦が発動され、本車も1ヶ連隊(約150輌)が参加した。ここではM3軽戦車は巡航戦車代わりとして活用されたが、火力・装甲ともに不足しており多くの損害を出した。M3軽戦車は信頼性が高く、機動力に優れた軽戦車ではあったが、車体が小さくより大きな砲が搭載できなかったこと、および履帯幅が狭く接地圧が高いこと、航続距離が短いこと等の欠点があった。このため北アフリカでの戦闘任務は、新たに供給されたM4シャーマン中戦車により取って代わられ、M3軽戦車は偵察任務にまわされるようになった。
この後、チュニジアで戦ったアメリカ軍のM3A1もドイツ戦車に挑んで大損害を出し、このクラスの軽戦車がドイツ軍相手に戦車戦や歩兵支援を行うことの限界を露呈してしまった。更に1942年中期以降は、新型のM5軽戦車が配備され始め、次第に押し出される形で1943年にはアメリカ軍の第一線装備から外された。自由フランス軍や自由ポーランド軍、ビルマ方面のイギリス軍などではM3A3が使われ続けていたが、ヨーロッパのイギリス連邦軍ではM3A3の砲塔を撤去し、弾薬運搬車や砲牽引車に改造されたものも多い。またイタリア戦線のイギリス軍ではやはりM3A3の砲塔を撤去、武装を機銃のみとして軽量化し機動力を増加させた、スチュアート・レッキ偵察車に改造されている。
一方の太平洋戦争では開戦時にフィリピンに第192戦車大隊(M3軽戦車54輌)、第194戦車大隊(同53輌)が配備されていた。この中において1941年12月22日に日本軍がルソン島に上陸した際、これを迎撃に出たM3軽戦車15輌は戦車第4連隊第2中隊第1小隊所属の九五式軽戦車と戦闘を行っている。M3の正面装甲は九五式軽戦車の37 mm 砲を全て跳ね返したが、被弾炎上、履帯切断、敵小隊長車による体当たり等により5輌が行動不能となり撃退された。なおこれが日米初の戦車戦であるとされる。[2] その後空襲などにより損害が増えつつあった両戦車大隊はバターンに後退して再び戦車部隊として再編成、1942年4月8日まで歩兵部隊と共にバターン半島の死守し、第一次バターン半島攻略戦では日本軍の攻略を食い止めた。続いて第二次バターン半島攻略戦において、戦車第7連隊 臨時松岡中隊所属の一式四十七粍戦車砲を搭載した九七式中戦車改と交戦しており、松岡中隊側の戦闘詳報によれば航空支援との共同で3輌のM3軽戦車を撃破、臨時松岡中隊側には損害無しと表記されてある。結果としてはフィリピン方面では制空権、制海権を奪われ、第二線、第三線の防衛ラインが突破されたこともあり両大隊は残存車輛を全て破壊した上で降伏した。[3]
また、1942年2月にビルマ(当時)のラングーンをめぐる戦いではイギリス第7機甲旅団隷下王立第2戦車連隊所属のM3軽戦車(総数約115輌、又は150輌)が歩兵の火力支援などで活躍した。その中で華々しい活躍はラングーンの北東80 km に位置するペグー付近では十数輌のM3が戦車第2連隊軽戦車中隊所属の九五式軽戦車4輌を1,500 mの距離から撃破している。一方、同じくビルマの戦いの1942年4月27~28日の戦闘では戦車第1連隊の九七式中戦車と交戦するが、榴弾による遠距離からの集中攻撃を受けて5輌のM3軽戦車が撃破されている。なお日本軍側の損害は九七式中戦車1輌が被弾貫通により走行装置が破損、乗員死傷無しと戦闘詳報に記載されている[4][5]。
ただし第7機甲旅団の活躍をもってしても日本軍の進撃を食い止めることはできず、1942年5月には第7機甲旅団は戦車を破壊し、チドウィン川を越えてラングーンから脱出し同市は日本軍の手に落ちている。
M3はその後もガダルカナル島の戦いやニューギニアの戦いなどで活躍したが、ここでも新型のM5軽戦車やより強力なM4シャーマン中戦車が配備されるようになると次第に前線から引き上げられ、予備兵器となった。なお予備となったM3の有効活用策として火炎放射器を搭載した火炎放射戦車「サタン」が作られ、マリアナ諸島をめぐる戦いで実戦に投入された。
1942年1月から翌年3月までの間、M3およびM3A1スチュアルト(スチュアートのロシア語読み)がソ連に対するレンドリース用として供与された。これらは米英戦車が多用された北カフカス方面での戦闘で活躍している。しかしディーゼルエンジン型ではなく、他のソ連戦車より使用する燃料のオクタン価の高いガソリンエンジン型が供与され、運用に問題があったという。
1944年11月、イギリス軍の支援によりダルマチア海岸にM3A1(1輌)、M3A3(56輌)からなるユーゴスラビア第1戦車旅団が上陸し、チトーのパルチザン部隊を支援した。これらの一部は砲塔を撤去し、ドイツ軍から鹵獲した7.5 cm PaK 40や2cm Flakvierling38を搭載した対戦車自走砲や対空自走砲に改造された。
2015年末の時点ではパラグアイ陸軍が少数をM4中戦車とともに訓練用戦車として使用している[6]。
- ^ a b http://www.tanks-encyclopedia.com/coldwar/Brazil/Bernardini-X1A.php
- ^ Hunnicutt, R. P. Stuart, A History of the American Light Tank; Volume 1. 1992; Presidio Press. ISBN 0-89141-462-2.
- ^ Hunnicutt (Stuart) p. 396
- ^ 「激闘戦車戦」 p.212~215
- ^ 「戦車隊よもやま物語」 p.244
- ^ Paraguay keeping M3 Stuart, M4 Sherman tanks in service by Erwan de Cherisey, Paris - IHS Jane's Defence Weekly, 29 December 2015
- ^ UTP実行委員会著『帝国陸軍陸戦兵器ガイド 1972-1945』 新紀元社刊[要ページ番号]
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