1977年日本グランプリ (4輪)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/04 23:59 UTC 版)
レース詳細 | |||
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日程 | 1977年シーズン第17戦 | ||
決勝開催日 | 10月23日 | ||
開催地 |
富士スピードウェイ 日本 静岡県 駿東郡 小山町 | ||
コース長 | 4.359km | ||
レース距離 | 73周(318.207km) | ||
決勝日天候 | 晴れ(ドライ) | ||
ポールポジション | |||
ドライバー | |||
タイム | 1'12.23 | ||
ファステストラップ | |||
ドライバー | ジョディ・シェクター | ||
タイム | 1'14.30(Lap 71) | ||
決勝順位 | |||
優勝 |
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2位 | |||
3位 |
概要
開催に至る経緯
F1日本開催は前年の「F1世界選手権イン・ジャパン」に続き2回目となる。今回は正式に「日本グランプリ」の名を冠し、シーズン第5戦として4月17日に行われる予定だったが[1]、2月1日にスポーツニッポン新聞社が日本自動車連盟(JAF)に対して主催を辞退する旨を伝えた。前年度に多額の赤字を計上し、今回も数千万円の赤字が予想されることから、継続を断念したといわれる[1]。
JAFは2月3日に日本グランプリの中止を発表したが、その後国際自動車連盟(FIA)やF1CAと交渉し、10月延期案を承認された。3月半ばにJAFを中心としてTBS、富士スピードウェイ、博報堂(のちに撤退)からなる「日本モータースポーツ協会」を設立。新主催者としてF1CAと3年契約を結び、10月23日の日本グランプリ開催が正式決定した[2]。騒動の余波で国内の年間レーススケジュールも再調整が必要となり、JAFスポーツ委員会はスポーツニッポン社に対して3年間の国内資格停止処分を下した(1978年3月に解除)[1]。
王者不在の最終戦
フェラーリのニキ・ラウダは2戦前のアメリカ東GPで自身2度目のドライバーズチャンピオンを決めた後、チームを離脱していた(チームの声明では「胃炎による欠場」)。ラウダの代役として、前戦カナダGPからジル・ヴィルヌーヴが起用された。ヴィルヌーヴはのちにフェラーリのエースドライバーとなるが、この時点ではF1デビュー3戦目[3]の無名の新人であり、日本モータースポーツ史に残る悲劇の当事者となる。また、シーズン途中にターボエンジンを引っさげてデビューしたルノーや、低迷の続くフィッティパルディもエントリーを取り止め来日しなかった。
日本勢の参戦
前年スポット参戦した日本勢は、体制を変更してこの1戦に臨んだ。コジマはエントリーを2台に増やし、星野一義(ヒーローズレーシング)と高原敬武(高原レーシング)という国内トップドライバーコンビが新車KE009に乗る。タイヤは前年ヒーローズが使用したブリヂストンタイヤ。また、前年ヒーローズが購入したティレル・007をメイリツレーシングが使用し、ベテラン高橋国光がF1デビューした。こちらは前年コジマが使用した日本ダンロップタイヤを履く。
予選
展開
金曜午前の予選第1セッションは医師団の到着が遅れたためキャンセルされ、午後の第2セッションの開始時刻を早めて120分に延長する措置がとられた。前年の勝者であるロータスのマリオ・アンドレッティが1分12秒23のトップタイムを記録し、マクラーレンのジェームス・ハントが僅差の2位。日本勢ではコジマの星野が6番手の好位置につけた。
土曜午前の第3セッションでは前日のトップタイムが更新されず、アンドレッティの2年連続ポールポジションが決定した。2位ハントに続き、ブラバムのジョン・ワトソン、ハンス=ヨアヒム・スタックがグリッド2列目を占めた。グッドイヤータイヤを履くチームは気温の上昇で左フロントタイヤが異常発熱するトラブルを抱え、決勝を見据えた対策に余念がなかった。星野は電気系統のトラブルで11位、高原は19位、高橋は22位だった。
結果
順位 | No | ドライバー | コンストラクター | 1回目 | 2回目 | 3回目 |
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1 | 5 | マリオ・アンドレッティ | ロータス・フォード | 中止 | 1'12.23 | 1'12.31 |
2 | 1 | ジェームス・ハント | マクラーレン・フォード | 中止 | 1'12.39 | 1'12.67 |
3 | 7 | ジョン・ワトソン | ブラバム・アルファロメオ | 中止 | 1'13.20 | 1'12.49 |
4 | 8 | ハンス=ヨアヒム・スタック | ブラバム・アルファロメオ | 中止 | 1'13.33 | 1'13.01 |
5 | 26 | ジャック・ラフィット | リジェ・マトラ | 中止 | 1'13.99 | 1'13.88 |
6 | 20 | ジョディ・シェクター | ウルフ・フォード | 中止 | 1'14.38 | 1'13.15 |
7 | 12 | カルロス・ロイテマン | フェラーリ | 中止 | 1'13.37 | 1'13.32 |
8 | 2 | ヨッヘン・マス | マクラーレン・フォード | 中止 | 1'13.71 | 1'13.37 |
9 | 19 | ヴィットリオ・ブランビラ | サーティース・フォード | 中止 | 1'14.23 | 1'13.37 |
10 | 22 | クレイ・レガッツォーニ | エンサイン・フォード | 中止 | 1'13.72 | 1'13.52 |
11 | 52 | 星野一義 | コジマ・フォード | 中止 | 1'13.55 | 1'14.02 |
12 | 17 | アラン・ジョーンズ | シャドウ・フォード | 中止 | 1'13.90 | 1'13.56 |
13 | 16 | リカルド・パトレーゼ | シャドウ・フォード | 中止 | 1'14.02 | 1'13.58 |
14 | 6 | グンナー・ニルソン | ロータス・フォード | 中止 | 1'13.66 | 1'13.76 |
15 | 4 | パトリック・ドゥパイエ | ティレル・フォード | 中止 | 1'14.94 | 1'14.16 |
16 | 23 | パトリック・タンベイ | エンサイン・フォード | 中止 | 1'14.22 | 1'14.30 |
17 | 27 | ジャン=ピエール・ジャリエ | リジェ・マトラ | 中止 | 1'14.25 | 1'14.45 |
18 | 3 | ロニー・ピーターソン | ティレル・フォード | 中止 | 1'14.49 | 1'14.26 |
19 | 51 | 高原敬武 | コジマ・フォード | 中止 | 1'14.36 | 1'14.44 |
20 | 11 | ジル・ヴィルヌーヴ | フェラーリ | 中止 | 1'14.84 | 1'14.51 |
21 | 18 | ハンス・ビンダー | サーティース・フォード | 中止 | 1'15.26 | 1'14.73 |
22 | 50 | 高橋国光 | ティレル・フォード | 中止 | 1'14.88 | 1'15.14 |
23 | 9 | アレックス・リベイロ | マーチ・フォード | 中止 | 1'15.21 | 1'15.01 |
- ^ a b c GP企画センター編 『サーキットの夢と栄光 日本の自動車レース史』グランプリ出版、1989年、182-183頁頁。ISBN 4-906189-80-6。
- ^ 事務局長付として全権委任された森脇基恭がF1CA会長バーニー・エクレストンと契約交渉を行った。
- ^ デビュー戦は1977年イギリスGP、マクラーレンの第3ドライバーとしてスポット参戦。
- ^ 「1977日本グランプリ RACE REPORT」『F1速報PLUS』第9号、イデア、2007年、45頁。
- ^ a b “「F1」観戦ついに死傷者 車体飛散、頭上から直撃”. 毎日新聞. (1977年10月24日付朝刊14版21面)
- ^ a b “飛び散る車体観客直撃 時速300キロ逃げられず”. 朝日新聞. (1977年10月24日付朝刊13版23面)
- ^ 「1977日本グランプリ RACE REPORT」『F1速報PLUS』第9号、イデア、2007年、47頁。
- ^ Gerald Donaldson 著、豊岡真美・坂野なるたか・森岡成憲 訳 『ジル・ヴィルヌーヴ 流れ星の伝説』ソニー・マガジンズ、1991年、130頁頁。ISBN 4-7897-0678-8。
- 1 1977年日本グランプリ (4輪)とは
- 2 1977年日本グランプリ (4輪)の概要
- 3 決勝
- 4 観客死傷事故の詳細
- 5 エピソード
- 6 参考文献
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