1977年日本グランプリ (4輪)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/04 23:59 UTC 版)
エピソード
- 南アフリカ共和国のアパルトヘイト政策に反対する民間団体「アフリカ行動委員会」は、南アフリカとの文化交流を禁じた国連決議に反するとして、南アフリカ出身ドライバーにビザを発行しないよう外務省に抗議した。国会では日本社会党の土井たか子議員がこの件について質疑した。同国出身のジョディ・シェクターは入国できたが、兄のイアン・シェクター(マーチ)には就労ビザが発行されず、観光ビザでの入国を拒否され帰国する羽目になった。
- ロータス・78のボディカラーはJPSタバコの黒であるが、グンナー・ニルソンのマシンは日本GP限定で姉妹ブランドのインペリアル・タバコの赤いカラーリングで登場した。塗り替え作業は来日後、富士スピードウェイ近くのレース村のガレージで行われた。ニルソンは精巣癌のため翌年10月に病死し、このレースが最後のF1出場となった。
- 当時はまだ無名のリカルド・パトレーゼの初入賞はこのレースだった。
- ハントとロイテマンがレース後の表彰式に出なかったことが問題になり、スポーティング・レギュレーション(競技規定)に「3位以内入賞者と優勝チームの代表者は、必ず表彰式に出席しなければならない」という項目が追加された。
データ
- 大会
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- 大会名 - '77日本グランプリ
- 開催日 - 1977年10月21日 - 10月23日
- 開催地 - 富士スピードウェイ
- 主催 - 日本モータースポーツ協会
- レース距離 - 318.207km(4.359km×73LAP)
- 決勝日観客 - 74,000人
- 決勝日天候 - 晴れ
- 日程
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- 10月22日(金曜日)
- 公式予選1回目 午前10時 - 午前11時30分(キャンセル)
- 公式予選2回目 午後1時 - 午後2時(午前12時 - 午後2時に変更)
- 10月23日(土曜日)
- フリープラクティス 午前10時 - 午前11時30分
- 公式予選3回目 午後1時 - 午後2時
- 10月24日(日曜日)
- 決勝スタート 午後1時
- 10月22日(金曜日)
- 記録
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- ポールポジション - マリオ・アンドレッティ(ロータス・フォード) 1分12秒23
- 優勝 - ジェームズ・ハント(マクラーレン・フォード) 1時間31分51秒68(平均速度183.615km/h)
- ファステストラップ - ジョディ・シェクター(ウルフ・フォード) 1分14秒30(LAP 71)
- ラップリーダー - ジェームス・ハント(LAP1 - 73)
- ^ a b c GP企画センター編 『サーキットの夢と栄光 日本の自動車レース史』グランプリ出版、1989年、182-183頁頁。ISBN 4-906189-80-6。
- ^ 事務局長付として全権委任された森脇基恭がF1CA会長バーニー・エクレストンと契約交渉を行った。
- ^ デビュー戦は1977年イギリスGP、マクラーレンの第3ドライバーとしてスポット参戦。
- ^ 「1977日本グランプリ RACE REPORT」『F1速報PLUS』第9号、イデア、2007年、45頁。
- ^ a b “「F1」観戦ついに死傷者 車体飛散、頭上から直撃”. 毎日新聞. (1977年10月24日付朝刊14版21面)
- ^ a b “飛び散る車体観客直撃 時速300キロ逃げられず”. 朝日新聞. (1977年10月24日付朝刊13版23面)
- ^ 「1977日本グランプリ RACE REPORT」『F1速報PLUS』第9号、イデア、2007年、47頁。
- ^ Gerald Donaldson 著、豊岡真美・坂野なるたか・森岡成憲 訳 『ジル・ヴィルヌーヴ 流れ星の伝説』ソニー・マガジンズ、1991年、130頁頁。ISBN 4-7897-0678-8。
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