1959年のロードレース世界選手権 1959年のロードレース世界選手権の概要

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1959年のロードレース世界選手権

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/25 02:50 UTC 版)

1959年の
FIMロードレース世界選手権
前年: 1958 翌年: 1960

シーズン概要

1955年以来途絶えていたフランスGPが新たに造られたクレルモン=フェラン・サーキットに舞台を移して復活し、この年の世界選手権は全8戦となった。ただし、8戦全ての大会で開催されたクラスは無い。

4クラスのタイトルをMVアグスタに乗る2人のライダーだけで独占した。350ccと500ccクラスに至っては、シーズンを通してレースに優勝したのはジョン・サーティースただ一人だった。ノートンワークス活動を撤退した後もプライベーター用の市販マシンの開発を続けていたが、単気筒のマンクスではMVアグスタの4気筒には太刀打ちできなかった[1]。MVアグスタ以外で唯一500ccクラスへのワークス参戦を続けていたBMWは、結局1度も勝利することなくこの年を最後にグランプリを去った。一方、125ccと250ccクラスではカルロ・ウビアリタルクィニオ・プロヴィーニというMVアグスタの2人がしのぎを削り、結果は両クラスともウビアリが制したが個性の強い2人の衝突は避けられず、シーズン終了後にはプロヴィーニがMVアグスタを離れてモト・モリーニに移籍することになった[2]

前年、印象的な走りを見せたMZ2ストロークには東ドイツ以外のライダーたちも大きな関心を示し、前年からのレギュラーであるホルスト・フュグナーとエルンスト・デグナーに加えてゲイリー・ホッキングルイジ・タベリといった実力のあるライダーがシーズン中にMZに乗り換え、度々上位に食い込んだ。中でもホッキングはMZを得ると同時に連勝し、それを見たMVアグスタはホッキングと翌年からの契約を結んでいる[3][2]

ホンダRC142(マン島の谷口尚己のマシンを復元した物)

後のグランプリの歴史にとって重要なこの年の出来事が、日本のホンダマン島初挑戦(125ccクラス)である。日本国内では浅間火山レースや富士登山レースのようなダートコースでのレースしかなく舗装路でのレース経験がほとんどないホンダだったが、ヨーロッパでも類を見ない125cc2気筒DOHC4バルブのエンジンを積んだマシン(船便で運んだマシンの2バルブエンジンのヘッドを、レース直前に手荷物で持ち込んだ4バルブヘッドに急遽交換したものだった)で社内ライダーの谷口尚己が6位入賞し、初グランプリで1ポイントを獲得した。レースの1ヵ月前から現地に乗り込んで練習を重ねた谷口を含む4人の日本人ライダーは全員完走してホンダはチーム賞を獲得し、ヨーロッパのメディアはそのエンジンを「まるで腕時計のように精巧で、ヨーロッパのメーカーのコピーではない独創的な設計だ」と賞賛した[4][5]。この年ホンダが走ったのはマン島の1戦のみだったが、ホンダのマシンに可能性を感じた一部のプライベーターは早くも翌シーズンのホンダの動向を気にし始めていた[6]

500ccクラス

MVアグスタのワン・ツーフィニッシュで開幕すると、ジョン・サーティースは第4戦オランダまで4連勝を飾って最短でチャンピオンを決め、タイトル決定後もそのまま1度も負けることなくシーズンを終えた。500ccクラスでの完全勝利は、この年のサーティースが初めてである。ランキング2位にはサーティースをサポートしたレモ・ベンチューリが入った[7]

元チャンピオンのジェフ・デュークジレラの撤退以後プライベーターとしてノートンの市販マシンで参戦を続けてきたが、この年の最終戦イタリアGPでの3位表彰台を最後にオートバイレースから引退した[2]

350ccクラス

ジョン・サーティースが350ccクラスでは1949年フレディー・フリース以来となる全戦全勝で500ccクラスとのダブルタイトルを獲得した。ボブ・ブラウンやゲイリー・ホッキングはスペシャル・チューンのノートンで度々表彰台に登る活躍を見せたが、MVアグスタのセカンドライダーでランキング2位となったジョン・ハートルにわずかに届かなかった[8]

250ccクラス

MVアグスタカルロ・ウビアリタルクィニオ・プロヴィーニは共に2勝ずつ挙げたが、プロヴィーニは優勝したレース以外ではポイントを挙げることができず、3度の2位入賞を果たしたウビアリがシーズンを制した[9]。前年ランキング2位のMZのホルスト・フュグナーは、第2戦ドイツGPで優勝したウビアリから0.8秒遅れの3位になるなど今シーズンも速さを発揮していたが、ベルギーの125ccでの事故によって選手生命を絶たれてしまう。代わってMZのファクトリーチームに加わったゲイリー・ホッキングスウェーデンGPでグランプリ初優勝を飾ると続くアルスターGPでも連勝し、プロヴィーニと同ポイントのランキング2位を獲得した[2]

125ccクラス

この年、唯一チャンピオン決定が最終戦までもつれ込んだのが125ccクラスである。ホンダのグランプリデビュー戦となったマン島ではタルクィニオ・プロヴィーニが勝ったが、続くドイツGPではカルロ・ウビアリが勝利し、ウビアリはベルギーGPまで3連勝を飾った。その間、プロヴィーニも2位入賞を重ねて追いすがり、スウェーデンGPでの勝利によって最終戦に勝てば逆転チャンピオンというところまで追い上げたが最終戦のイタリアでは5位に沈み、このレースで2位となったウビアリがこのクラスの2年連続タイトルを決めた[10]

ウビアリとプロヴィーニが出場しなかったアルスターGPでは、ドゥカティマイク・ヘイルウッドがグランプリ初勝利を飾った。この時19歳だったヘイルウッドの優勝は、グランプリでの最年少優勝記録だった。また最終戦のイタリアGPでは、MZ2ストロークを駆るエルンスト・デグナーが初優勝している。しかし冷戦のただ中にあったこの時、イタリア当局は表彰台でデグナーの母国である東ドイツ国歌の演奏を許可しなかった[2]

グランプリ

Rd. 決勝日 GP サーキット 125ccクラス優勝 250ccクラス優勝 350ccクラス優勝 500ccクラス優勝 レポート
1 5月17日 フランスGP クレルモン=フェラン No Race No Race J.サーティース J.サーティース 詳細
2 6月6日 マン島TT マン島 T.プロヴィーニ T.プロヴィーニ J.サーティース J.サーティース 詳細
3 6月14日 ドイツGP ホッケンハイム C.ウビアリ C.ウビアリ J.サーティース J.サーティース 詳細
4 6月27日 ダッチTT アッセン C.ウビアリ T.プロヴィーニ No Race J.サーティース 詳細
5 7月5日 ベルギーGP スパ C.ウビアリ No Race No Race J.サーティース 詳細
6 7月26日 スウェーデンGP クリスチャンスタード T.プロヴィーニ G.ホッキング J.サーティース No Race 詳細
7 8月8日 アルスターGP ダンドロッド M.ヘイルウッド G.ホッキング J.サーティース J.サーティース 詳細
8 9月6日 イタリアGP モンツァ E.デグナー C.ウビアリ J.サーティース J.サーティース 詳細

  1. ^ 『THE GRAND PRIX MOTORCYCLE』(p.48)
  2. ^ a b c d e 『二輪グランプリ60年史』(p.50 - p.51)
  3. ^ 『The 500cc World Champion』(p.45)
  4. ^ 『Honda Motorcycle Racing Legend vol.3』(2009年、八重洲出版)ISBN 978-4-86144-143-1(p.24 - p.27)
  5. ^ 大久保力『百年のマン島 - TTレースと日本人』(2008年、三栄書房)ISBN 978-4-7796-0407-2(p.1 - p.10)
  6. ^ 『二輪グランプリ60年史』(p.53)
  7. ^ 500cc World Standing 1959 - The Official MotoGP Website
  8. ^ 350cc World Standing 1959 - The Official MotoGP Website
  9. ^ 250cc World Standing 1959 - The Official MotoGP Website
  10. ^ 125cc World Standing 1959 - The Official MotoGP Website


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