法隆寺の仏像 上御堂の仏像

法隆寺の仏像

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上御堂の仏像

木造釈迦如来坐像(釈迦三尊のうち、上御堂安置)

上御堂(かみのみどう)は、西院伽藍の北方、大講堂北裏の小高いところに建つ仏堂。須弥壇上に釈迦三尊像と四天王像を安置する。堂内は通常は非公開で11月1日から3日のみ公開される。

木造釈迦如来及び両脇侍像
国宝。平安時代。像高は中尊230.0センチ、左脇侍154.2センチ、右脇侍150.2センチ。中尊、両脇侍(文殊菩薩、普賢菩薩)とも坐像に作る。サクラ材の一木像で、脇侍像の両腕と各像の台座は後補。本像を安置する上御堂(かみのみどう)は、延長年間(923年 - 931年)法隆寺別当観理が京都普明寺の堂を移して創始したものだが、現存する堂は鎌倉時代末期のものである。本三尊像は、醍醐寺の上醍醐薬師堂の薬師三尊像(延喜13年・913年)と様式的に共通点があり、上御堂が創始された10世紀前半頃の制作とみられる[82]
木造四天王立像
重要文化財。南北朝時代。像高は持国天167.2センチ、増長天173.5センチ、広目天168.9センチ、多聞天171.0センチ。上御堂須弥壇の四隅に立つ。寺の記録である『嘉元記』『別当記』の記載、及び各像の台座框裏の銘により造像事情が判明する。それらによると、本像は湛舜僧都の発願で、約10年をかけて文和4年(1355年)に完成したもので、担当仏師は持国天・増長天が寛慶、広目天が順慶、多聞天が幸禅である。ヒノキ材、寄木造で内刳を施し、玉眼を使用。表面は彩色と截金で仕上げている[83]

東院夢殿の仏像

木造観音菩薩立像(救世観音、夢殿安置)
夢殿

東院の所在地は聖徳太子の斑鳩宮の跡地である。皇極2年(643年)、蘇我入鹿の兵による襲撃で斑鳩宮は炎上し上宮王家(聖徳太子の家)は消滅した。その跡地に天平10年(738年)頃、行信によって建てられたのが東院で、夢殿はその中心になる八角円堂の通称である。

救世観音像

木造観音菩薩立像(救世観音)として国宝に指定。飛鳥時代。夢殿内部中央の厨子内に安置される。秘仏で、毎年春と秋に開扉される(開扉期間は2015年の例で4月11日 - 5月18日、10月22日 - 11月22日)。「救世観音」(くせかんのん)と通称される。「救世」は寺では「くせ」と読んでいるが、文献では「くぜ」「ぐぜ」と読む場合もある。作風から飛鳥時代前期の作とみられるが、夢殿の建立(738年頃)以前、本像がどこにあったのかは不明である。長年秘仏であったため保存状態はよい。像高は179.9センチ。本体、台座、光背ともにクスノキ材。上半身に僧祇支(そうぎし)、下半身に裳をまとい、二重反花(かえりばな)の台座上に直立する。着衣には文様を表さない。両手は胸前で組み合わせ、火焔宝珠を捧持する。頭部から台座蓮肉とその下の角枘、胸前で組んだ両手、持物の宝珠まで含めて一材から木取りし、垂髪、天衣遊離部などを別材矧ぎ付けとする。像表面は漆で目止めをし、白土下地を施した上で金箔押しとし、唇には朱を差す。宝冠は金銅製透彫に青色ガラス玉で装飾し、頂部にはペルシャ風の宝珠と三日月の意匠を表す。冠帯の左右に纓(えい)を張り出す。冠帯側面から下がる垂飾は右側の分を欠くが、左の垂飾は腰付近まで長く伸びる。なお、持物の宝珠の上の火焔にも青色ガラス玉の装飾がある。光背は宝珠形の頭光(ずこう)で、中央に蓮華文、その周囲には内側から順にC字形を連ねた雲気唐草文帯、連珠文帯、忍冬唐草文帯があり、最外部には火焔を表し、頂部には宝塔を表す。この光背は支柱を用いず、L字形の金具で像本体の後頭部に直接取り付けている。肩に掛かる蕨手状の垂髪、膝前で交差し体側に鰭状に広がる天衣の扱いなど、全体に左右相称性が強い。杏仁形の眼、古拙の微笑を浮かべる唇などとともに、いわゆる止利式仏像の様式を示すが、面相は目尻がやや吊り上がり、鼻が大きく、人中線を明確に刻む点に特色がある。本像のように、両手を胸前で組み合わせ宝珠を捧持する形の像は朝鮮半島の百済系の像に多く、中国南朝の梁の様式が百済を経て日本へもたらされたものと考えられている[84]。久野健によって紹介された関山神社(新潟県妙高市)の銅造菩薩立像は両手先を欠失するものの、造形的に救世観音像に近い。関山神社像は百済製とみられ、日本にこの種の像が将来されていたことの傍証となる[85][86]

この像は平安時代末期にはすでに秘仏化していたとみられ、鎌倉時代の『聖徳太子伝私記』には「今世ならびに昔日にも其体(そのすがた)を知らず」とある。かつて像には白布が巻かれ、寺僧もその姿を見たことがなかったが、1884年(明治17年)、古社寺調査のため訪れたアーネスト・フェノロサが数世紀ぶりに厨子を開扉し、白布を解き、像の姿を明らかにしたとされている。なお、フェノロサによる開扉が行われたのは1884年とするのが通説だが、法隆寺僧で歴史学者である高田良信は、寺側の記録に同年開扉のことが見えないことから、実際に開扉が行われたのは1886年または1888年のことではないかとしている[87]。現在、本像を安置する八角形の厨子は1940年(昭和15年)に製作されたもので、それ以前の厨子は元禄9年(1696年)製作のものであった。高田良信によれば、本像は元禄の時点で修理が行われており(像内には江戸時代の釘が残る)、像に白布が巻かれたのはその時ではないかという[88]。「救世観音」という名称は経典に典拠がなく、名称の由来については諸説ある。天平19年(747年)の年記を有する『東院縁起』には本像は聖徳太子在世時に造られた「御影救世観音」であるとする。ただし、『東院縁起』は平安時代末期に古記録を集成して編集したもので、内容に矛盾が多く全面的には信頼できない史料とされている。より信頼のおける史料である天平宝字5年(761年)の『法隆寺縁起幷資財帳』(東院資財帳)には「上宮王等身観世音菩薩木像 一躯 金薄押」とあり、「救世観音」の名称は見えない。大江親通が嘉承元年(1106年)に南都の諸寺を巡拝した際の記録である『七大寺日記』に「救世観音」とあるところから、平安時代末期にはこの名称があったことがわかる。大村西崖(1926年の論文)は、中国南北朝時代以来の造像に「救苦観音」の名が多く見えることから、「救世観音」は「救苦」を「救世」と読み誤ったものとした。内藤藤一郎(1930年の論文)は、法華経観世音菩薩普門品の「観音妙智力 能救世間苦」という句が「救世観音」の典拠であるとした。この説については、「救世間苦」は「世間の苦を救う」という意味であり、「救」は「苦」には掛かっても「世」には掛からないという反論がある。藤井由紀子(1995年の論文)は、梁の武帝が「国主救世菩薩」と称された例を挙げ、「救世」とは護国仏教の理念を表す言葉であるとした[89]

その他の像

乾漆行信僧都坐像(夢殿安置)
塑造道詮律師坐像(夢殿安置)
乾漆行信僧都坐像
国宝。奈良時代。像高88.5センチ。夢殿堂内、壇上の北東(向かって右奥)に安置される。麻布を漆で張り重ねた脱活乾漆像。もとは彩色されていたが、ほとんど剥落している。法隆寺東院伽藍の創立者である行信の肖像で、頭頂がやや尖り、両目は吊り上がり、鼻翼が大きい、個性的な面貌に表される。両手は膝に置き、持物(じもつ)の如意を執る。この如意は角製で、造像当初のものである。礼盤形の台座は鎌倉時代の作。『法隆寺別当次第』には、永保3年(1083年)、夢殿の行信像と道詮像(後出)を仏壇下から仏壇上へ移動したとの記録がある。大江親通が嘉承元年(1106年)に南都の諸寺を巡拝した際の記録である『七大寺日記』には、行信像は「丑寅角」にあったと記されており、本像はその当時から現状とほぼ同じ位置に安置されていたことがわかる。行信については生没年を含め、生涯のくわしいことはよくわかっていない。平安時代末期の『七大寺年表』は行信の没年を天平勝宝2年(750年)とするが、実際はそれより長生きしたとする説もある。仮に行信の没年を750年とし、没後まもなく本像が作られたとすると、本像は唐招提寺鑑真像(天平宝字7年・763年頃)より十年以上古い、日本最古の肖像彫刻ということになるが、後述のように、実際の制作年代はもう少し下るとみられている。『続日本紀』天平勝宝6年(754年)11月24日条に、「薬師寺行信」なる僧が厭魅(えんみ、呪詛によって人を殺すこと)を行ったかどで下野薬師寺に流罪になったとの記事があり、これが東院伽藍創立者の行信と同一人物か否か、同一人物である場合、流罪になった人物の肖像を作ったのはなぜかという点が疑問である。浅井和春は、天平神護2年(766年)、「薬師寺行信」と同じ時に流罪になった大神多麻呂という人物が復位したとの記事が『続紀』にあることを指摘し、この時行信の名誉も回復されたのではないかと推定した。また、その翌年にあたる神護景雲元年(767年)には行信発願の大乗経2,700巻(通称行信経)が完成している。このため浅井は、行信の復権と大乗経の完成を機として本像が作られたのではないかと想定している[90]
塑造道詮律師坐像
国宝。平安時代。像高87.3センチ。夢殿堂内、壇上の北西(向かって左奥)に安置される。道詮は、貞観元年(859年)頃、当時荒廃していた東院を再興したとされる僧で、『僧綱補任』によれば貞観15年(873年)に没したとされる。本像もその頃の作と思われる。本像のような塑像は奈良時代に多く作られたが、平安時代にはまれである。[91]
木造聖観音立像
重要文化財。平安時代。像高146.3センチ。夢殿堂内、壇上の北に、救世観音像と背中合わせに立つ。ヒノキ材の一木造で、内刳はない。曲げた左腕の前膊部、右手先、両脚先などは別材を矧ぐ。当初の彩色と截金文様が残り、左右二材からなる板光背も当初のものである。[92]
木造聖徳太子立像
重要文化財。鎌倉時代。像高91.1センチ。夢殿堂内、壇上の東面に安置される。聖徳太子像にはいくつかの種類があるが、本像は十六歳孝養像と呼ばれるタイプで、柄香炉を捧げ持ち、父用明天皇の病気平癒を祈る姿である。ヒノキ材の寄木造で玉眼を嵌入し、彩色仕上げとする。鎌倉時代末期の作。[93]

伝法堂の仏像

伝法堂は東院伽藍内、絵殿舎利殿の北に建つ。750年頃に聖武天皇夫人の橘古那可智宅を施入したものと推定される。堂内には多くの仏像を安置する。間仕切りはないが、天井から下がる天蓋によって「東の間」「中の間」「西の間」に分かれる。東・中・西の間の本尊はいずれも阿弥陀三尊像である。これら3組の三尊像のほか、須弥壇四隅に四天王像が立ち、須弥壇前方には向かって右から薬師如来坐像、釈迦如来坐像、梵天立像、帝釈天立像、弥勒仏坐像、阿弥陀如来坐像を安置する。堂内は原則非公開。

乾漆阿弥陀如来及び両脇侍像
重要文化財。奈良時代。像高は中尊120.2センチ、左脇侍157.3センチ、右脇侍160.0センチ。伝法堂「中の間」に安置。麻布を漆で張り重ねた脱活乾漆像である。台座は木造に乾漆を併用したもので、当初のもの。作風はやや生硬であるが、脇侍像の胸飾の造形などには華麗な天平風がうかがえる。中尊は右手を上げ、左手を下げ、各手の第一・三指を曲げる。この印相の如来像が奈良時代に阿弥陀如来と呼ばれていたかどうかは不明で、本像の名称も当初からのものか不明である[94]
乾漆阿弥陀如来及び両脇侍像
重要文化財。奈良時代。像高は中尊119.0センチ、左脇侍159.0センチ、右脇侍157.1センチ。伝法堂「西の間」に安置。「中の間」三尊像と同じく脱活乾漆像である。中尊の印相が、胸前に両手を構える転法輪印である点は「中の間」三尊像と異なるが、作風は全体的に「中の間」像と似ており、同一工房の作である可能性もある。脇侍像の胸飾や各像の台座の宝相華文などに繊細な造形が見られる[95]
乾漆阿弥陀如来及び両脇侍像
重要文化財。奈良時代。像高は中尊87.7センチ、左脇侍126.5センチ、右脇侍126.5センチ。伝法堂「東の間」に安置。「中の間」「西の間」の三尊像と異なり、木心乾漆像である。伝法堂にある3組の三尊像のなかでは、もっとも優れた出来の像である。中尊は胸前に両手を構える転法輪印を結び、「中の間」「西の間」の三尊像とは逆に右脚を上にして坐す。中尊、脇侍とも前後二材矧ぎの木心に木屎漆を盛り上げて整形する。両脇侍像は、真正面向きでなく、斜め45度向きに安置するように意図して作られていることが指摘されている。すなわち、両脇侍像を顔が正面向きになるように安置すると、台座の文様が正面向きにならないが、中尊側に45度回転させて安置すると、台座の格狭間が正面に向くように収まる[96]
木造梵天帝釈天立像
重要文化財。平安時代。像高は梵天161.4センチ、帝釈天161.5センチ。江戸時代には伝法堂にあったことが記録からわかるが、本来どこに安置されていたものかは不明。サクラの一木造で、高い宝冠をいただく。両像は服装やポーズがほぼ等しく、一具と考えられるが、細部に作風の差があり、作者が異なることも考えられる。両像の名称(どちらが梵天でどちらが帝釈天であるか)には混乱がある。『奈良六大寺大観』では左手の掌を上に向けている像を梵天、左手の掌を横へ向けている像を帝釈天としているが、『国宝・重要文化財大全』(毎日新聞社)では前者を帝釈天、後者を梵天としている[97][98]
木造四天王立像
重要文化財。平安時代。像高は持国天91.9センチ、増長天102.8センチ、広目天106.4センチ、多聞天98.3センチ。4躯とも後頭部に「常楽寺四天王四躯之内」の墨書があり、元来法隆寺の像でなかったことがわかる。常楽寺という名の寺は複数あるが、この常楽寺は法隆寺の南方にかつて存在した末寺を指すとみられる。須弥壇前方を守る2躯(持国天・増長天)と後方に立つ2躯(広目天・多聞天)とでは用材や作風が異なる。持国天と増長天はサクラ材の一木造で、首が太く、天冠台正面に花文の飾りがある。一方、広目天と多聞天はヒノキ材の前後矧ぎで、全体に細作りであり、天冠台正面の飾りはない。以上により、これら4躯は本来の一具ではなく、広目天・多聞天像は他の2像にやや遅れての制作とみられる[99]
木造薬師如来坐像
重要文化財。平安時代。像高80.4センチ。サクラ材の一木造で、内刳はなく、表面は漆箔仕上げとする。両脚、右前膊、両手先などは後補。台座は蓮肉部のみが当初のもの。11世紀前半頃の制作[100]
木造釈迦如来坐像
重要文化財。平安時代。像高71.8センチ。ヒノキ材の一木造で、内刳を行い、表面は彩色仕上げとする。両手先などは後補。台座は蓮肉部のみが当初のもの。11世紀前半頃の制作[101]
木造弥勒仏坐像
重要文化財。平安時代。像高71.5センチ。サクラ材の一木造で、表面は彩色仕上げとする。右前膊、両手先などは後補。11世紀前半頃の制作。同じ堂内の釈迦如来像と同じ作者による作品と推定される[102]
木造阿弥陀如来坐像
重要文化財。平安時代。像高79.9センチ。ヒノキ材の一木造で内刳を行い、表面は漆箔仕上げとする。右前膊、左袖先などは後補。11世紀前半頃の制作。台座は蓮肉と框の一部は古いものだが、本来本像に属したものかどうかは不明。同じ堂内の薬師如来像と同じ作者による作品と推定される[103]

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  120. ^ (浅湫、1998)、p.172
  121. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』1、p.16
  122. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、p.64
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  127. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺三』、pp.52–53
  128. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、p.67
  129. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、pp. 68–69
  130. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺四』、pp. 52–53
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  134. ^ (大西、1987)、pp.75–77
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  140. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺二』、pp. 54–55
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  142. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺二』、pp. 65–66
  143. ^ 『奈良県文化財図録』8(奈良県教育委員会事務局文化財保存課、1975)、p.46
  144. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺四』、p.18
  145. ^ (大西、1987)、p.105
  146. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺三』、pp.18–20
  147. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺三』、p.73
  148. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、p.50
  149. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺三』、pp. 56–57
  150. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺三』、pp.57–58
  151. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、p.59
  152. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺二』、pp.72–73
  153. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺二』、p.71
  154. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、p.39
  155. ^ (大西、1987)、pp.143–146
  156. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、p.40
  157. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、p.92
  158. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、p.61
  159. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺四』、pp.32–33, 同書補訂p.4
  160. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺四』、pp. 41–42
  161. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺四』、pp. 34 - 35
  162. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺四』、pp. 31–32
  163. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺四』、pp. 48–49
  164. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺四』、p.49
  165. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺四』、pp.47–48
  166. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺四』、p.50
  167. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺四』、pp.46–47
  168. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺四』、pp.33–34
  169. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、p.62
  170. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺四』、p.29
  171. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺四』、pp. 50–51
  172. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺四』、p.41
  173. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、p.80
  174. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、p.105
  175. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、pp. 107–109
  176. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、pp. 110–111
  177. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、p.112
  178. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、p.113
  179. ^ 昭和27年1月22日文化財保護委員会告示第1号及び第2号(指定は昭和26年6月9日付け)
  180. ^ a b 平成21年7月10日文部科学省告示第102号
  181. ^ 昭和31年6月28日文化財保護委員会告示第34号及び第40号
  182. ^ 昭和28年7月16日文化財保護委員会告示第64号及び第66号(指定は昭和28年3月31日付け)
  183. ^ 平成51年6月5日文部省告示第110号





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