法隆寺の仏像 大宝蔵院ほか所在の仏像

法隆寺の仏像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/03 14:09 UTC 版)

大宝蔵院ほか所在の仏像

大宝蔵院は1998年に完成した、法隆寺の寺宝収蔵展示施設で、中央の百済観音堂と東西の宝蔵からなる。百済観音像のほか、すでに上で解説済みの橘夫人念持仏、九面観音像、夢違観音像も大宝蔵院に収蔵されている。このほか、境内にはよく似た名称の大宝蔵殿がある。大宝蔵殿は1941年に開設された寺宝収蔵展示施設で、大宝蔵院開設後は春秋に期日を区切って開館しており、平素非公開の寺宝等を公開している。

銅造釈迦如来及び脇侍像
重要文化財。飛鳥時代(628年)。像高は釈迦像16.7センチ、脇侍像13.6センチ。三尊形式で、三尊全体を包み込むように蓮弁形の光背を配する、いわゆる一光三尊像の作例。ただし、右脇侍像(向かって左)は失われている。小像ながら、作風や全体の構成、服制などは止利仏師作の金堂釈迦三尊像と似ている。小像のため、中尊の螺髪は植付けではなく、タガネで格子状の線を刻んで表す。左脇侍像は頭部と両肩部を除いて、背面の造形を省略している。失われた右脇侍像のあったところには、光背に像を取り付けるための枘穴が左右に2つ並んでいる。一方、現存する左脇侍像の背面の枘は、左右に並ぶのではなく、後頭部と体部に1つずつ設けられており、型式が異なっている。このことから、左脇侍像は本来の一具ではないとする説もあるが、一方で釈迦像と左脇侍像の作風が似通っていることから、やはり本来の一具だとする説もある。光背には以下の4行48字の銘文がある[133][134]
戊子年十二月十五日朝風文 
将其零濟師慧燈為嗽加大臣 
誓願敬造釈迦佛像以此願力 
七世四恩六道四生倶成正覺 
(読み)
戊子年十二月十五日、朝風文将〔「文将其」とも〕、其れ濟師慧燈をして〔「零濟師慧燈」とも〕、嗽加大臣の為に誓願して、釈迦仏像を敬造せしめたまふ。此の願力を以て、七世の四恩、六道の四生、倶(とも)に正覚を成さむことを[135]
この銘文は固有名詞の部分が難読であるが、西暦628年に嗽加大臣(蘇我大臣)のために作られた釈迦像であることがわかる。蘇我馬子の三回忌に際して作られた像と推定されている[133][136]
銅造薬師如来坐像
重要文化財。奈良時代。像高15.4センチ。もと西円堂本尊薬師如来像の胎内仏であったと伝えるが、確証はない。台座は蓮華座の上に裳裾を広げた裳懸座で、光背は後補である。面相は童子を思わせるもので、飛鳥時代後期(白鳳期)の仏像につながるものがある。しかし、台座の裳裾の布が、その下の蓮弁の凹凸にしたがって上下する表現は盛唐風であり、本像が盛唐の影響を受けた奈良時代の作であることを示している。光背とそれを支える支柱は、本来この像に属したものではなく、他像分の転用と思われる。光背は本像のものとしては大きすぎ、様式的にも釣り合わない[137]
銅造観音菩薩立像(旧金堂阿弥陀如来像脇侍)
重要文化財。奈良時代。像高61.5センチ。もと金堂「西の間」阿弥陀如来像(鎌倉時代作)の右脇侍像として安置されていた像だが、阿弥陀像および左脇侍像とは全く別の、奈良時代の像である(金堂「西の間」の本来の右脇侍像は、明治期に海外に流出し、パリのギメ美術館所蔵となっている)。右腕は軽く曲げて水瓶を執り、左腕は前方に突き出して第一指と第三指で玉を持つ。宝冠、天衣などのデザインは装飾的ななかにも自然さを失わないものとなっている。衣端が台座上に垂れかかる様も自然に表されている[138]
銅造観音菩薩立像 2躯(旧金堂薬師如来像脇侍)
重要文化財。像高54.1センチ(伝・日光菩薩)及び54.5センチ(伝・月光菩薩)。もと金堂「東の間」薬師如来像の両脇侍として安置され、「日光菩薩月光菩薩」と呼ばれていた像だが、薬師像とは作風が異なり、本来の一具ではない。また、両像とも頭上の正面に阿弥陀如来の化仏(観音の標識)があることから、本来の像名は観音菩薩である(観音菩薩は、如来の脇侍として安置される場合は薬師如来ではなく阿弥陀如来に随侍する)。両像とも三面頭飾を付け、瓔珞をにぎやかに身にまとう。伝・日光菩薩と伝・月光菩薩とは、右手を下げ左手を上げるポーズも含め、一見するとまったく2体同形に見えるが、台座蓮弁の形状をはじめ、各所に相違点がある。頭上の阿弥陀化仏は、伝・日光では坐像に、伝・月光では立像に表す。伝・月光は、瞼を二重に表す。瓔珞などにタガネで連珠文や複連点文を表すのは両像共通だが、裳の折返しなどに表される、九曜文を半截にしたような文様と、腹部に表された蛇行曲線は伝・月光のみに見られる。なお、金堂西の間の阿弥陀三尊の脇侍像は、本像を模して鎌倉時代に作られたものである[139]
銅造観音菩薩立像
重要文化財。像高56.7センチ。いわゆる「止利式」仏像の典型的な作品。大ぶりの宝冠をいただき、両手を胸前で合わせ、宝珠を捧持する。宝冠には日輪と三日月を組み合わせた、サーサーン朝風の意匠を表す。左右対称形に図式的に表現された垂髪や天衣などは止利式の特色で、金堂釈迦三尊の脇侍像と類似する点が多い。ただし、金堂脇侍像が背面が空洞であるのに対し、本像は背面も省略せずに造形している。内部は頭部内面まで空洞とする(製作時には頭部内面まで中型土が詰まっていた)が、これも止利派の金銅仏の特色である[140]
銅造観音菩薩立像
重要文化財。奈良時代。像高25.4センチ。右手は垂下して水瓶を執り、左腕は前方に突き出して第4・5指を曲げる。半円状に突き出した両眼のつくり、下半身の図式的な衣文など、独特の表現がみられる。胸の部分に乳房の隆起を意味するとみられる表現のあるのも珍しい[141]
銅造観音菩薩立像
重要文化財。奈良時代。像高21.5センチ。右手は前方に突きだし、掌を正面に向ける。左腕は肘を軽く曲げて垂下し、拳を握る。天衣や裳の縁、台座の蓮肉や反花の縁などにタガネで複連点文を刻む[142]

以上の観音像3躯は、1902年(明治35年)に「金銅誕生釈迦仏立像一、金銅観世音菩薩立像五」の6躯一括で重要文化財(当時の旧国宝)に指定されたものである。誕生釈迦仏と観音像のうち2躯は指定の翌年に盗難に遭い所在不明で、寺に残るのは観音像3躯のみ[143]。所在不明の3躯の写真は『国宝・重要文化財大全』(毎日新聞社)に収録されている。

木造観音勢至菩薩立像(伝・六観音のうち)
重要文化財。飛鳥時代後期(白鳳期)。像高は観音86.9センチ、勢至86.0センチ。
木造文殊普賢菩薩立像(伝・六観音のうち)
重要文化財。飛鳥時代後期(白鳳期)。像高は文殊85.7センチ、普賢83.9センチ。
木造日光月光菩薩立像(伝・六観音のうち)
重要文化財。飛鳥時代後期(白鳳期)。像高は日光80.3センチ、月光77.9センチ。
以上の3組6躯の菩薩像は、かつては金堂釈迦三尊像の下に2躯、金堂阿弥陀三尊像の下に2躯、食堂薬師如来像の下に2躯がそれぞれ安置されていた。これら6躯は作風、技法、像高などに共通点が多く、あわせて「六観音」と称されている。ただし、「六観音」はあくまでも通称で、実際には観音以外の像も含まれており、真言宗、天台宗などで信仰される本来の「六観音」とは関係がない。本来、観音・勢至菩薩は阿弥陀如来に随侍する菩薩であり、同様に文殊・普賢菩薩は釈迦如来に、日光・月光(がっこう)菩薩は薬師如来に随侍する菩薩である。6躯のうち、図像的特色から像名を確定できるのは観音菩薩像と勢至菩薩像のみである(観音は頭上に阿弥陀の小像を表し、勢至は頭上に水瓶を表すのがその特色)。他の4躯については本来の像名は不明であり、釈迦如来像の下にあったものを文殊・普賢菩薩、薬師如来像の下にあったものを日光・月光菩薩と仮に呼んでいるにすぎない[144][145]
いずれの像もクスノキ材で、両手先などに別材を矧ぐほかは一木から彫成し、内刳は行わない。像表面は漆箔仕上げで、木彫像であるが金銅仏のような作風を示す。各像は作風から天武・持統朝頃(680年頃)の制作とみられる。眉から眼までの間が広く、童子のような表情と体形に表すのは飛鳥時代後期(白鳳期)の仏像の特色である。上半身には条帛を着けない。天衣の扱いは像によって異なる。観音像、普賢像の天衣は両肩から両腕の内側へまっすぐに垂下するが、勢至像、文殊像の天衣は両肩から垂下したものが下半身正面でX字状に交差したあと、両腕に掛かり、そこから体の外側へ垂れている。日光像、月光像の天衣は勢至像、文殊像のそれに似る。ただし、像の背面を見ると、勢至像、文殊像の天衣は両肩から背中に長く垂れ下がってU字状を呈するのに対し、日光像、月光像のそれは両肩にとどまっている。6躯のうち、日光・月光の一対は他の4躯に比して保存状態が悪い。他の4躯は頭髪部に木屎漆を盛り上げて毛筋を刻んでいるが、日光・月光像では盛上げた木屎漆が剥落してしまっている。日光・月光像ともに両手先は後補、足元から台座にかけて大幅な補修がされており、体側に垂れる天衣も日光像の右腕から垂れる分を除いて後補である。観音、勢至、文殊、普賢の4像が裳裾を短く表し、足首を露出させているのに対し、日光・月光像の裳裾は台座上面に達し、足首は見えていない。ただし、前述のように日光・月光像の足元の部分には大幅な補修が入っており、現状が当初からの形式であるかどうか不明である。『金堂日記』という記録の建久7年(1196年)条に、「橘寺本仏八躰」(「木仏八躰」の誤記か)とあるのが、この六観音像に当たり、もとは橘寺にあったもので、本来は8躯存在したとする説もある。なお、東京の根津美術館には、法隆寺六観音のうちの月光菩薩像とよく似た菩薩像が収蔵されており、上記の「木仏八躰」の1躯だった可能性が指摘されている。ただし、根津美術館像は補修が多く、伝来も不明である。アメリカのフリア美術館にも類似の菩薩像があるが、大幅に改修されており、古像に似せて作った擬古作とする説もある[146]
乾漆弥勒菩薩坐像
重要文化財。奈良時代。像高62.4センチ。一木造で内刳をほどこした木心に木屎漆を盛り上げて成形した木心乾漆像。毛筋、瓔珞、腕釧などは盛上げで表す。両腕を前方に突出し、右手の掌を上に、左手の掌を正面に向けている。ただし、両手先は後補で、当初からこの形であったかどうかは不明であり、弥勒という像名も本来のものかどうかわからない。シカゴ美術館に類似の像がある[147]
塑造梵天・帝釈天立像
重要文化財。奈良時代。像高は梵天110.2センチ、帝釈天109.5センチ。もとは食堂(じきどう)の本尊薬師如来像の左右に安置されていた。頭体通じて一木のクスノキ材を芯として塑土で成形する。白土地に彩色を施すが、大部分は剥落している。両像とも甲(よろい)の上に法衣を着、裳を着け、沓をはく。帝釈天像の沓の部分では、塑土が剥落して中の木心が露出しており、その木心に足の指が刻まれているのが見える。このことから、本像の木心が、完成後には見えなくなる部分まで入念に作られていることがわかる。プロポーションは頭部が小さく、腰を軽くひねり、大腿部の量感を強調した造形は盛唐の影響をうかがわせる[148]
塑造四天王立像
重要文化財。奈良時代。像高は持国天91.4センチ、増長天92.7センチ、広目天95.1センチ、多聞天91.8センチ。前出の梵天・帝釈天像とともに、もとは食堂の本尊薬師如来像の周囲を守っていた四天王像。心木は頭体通じて一木のクスノキ材で、塑土の層は薄い。白土地に彩色を施すが、大部分は剥落している。保存状態は同じ食堂の梵天・帝釈天像よりは悪く、塑土の欠失が目立つ。須弥壇前方を守る2躯(持国天・増長天)のみが冑(かぶと)をかぶるなど、群像としての変化を付けているが、後世の四天王像に比して動きは少ない[149]
塑造吉祥天立像
重要文化財。奈良時代。像高168.3センチ。もと食堂(じきどう)にあった像で、破損がひどく、本来の像名が不明で、「菩薩像」と呼ばれていた。1935年に修理が行われ、吉祥天像として重要文化財に指定されている。奈良時代、天平期の作であるが、像表面はほとんど補修されている。両手は後補である。昭和期には金堂の北面に安置されていたが、大宝蔵院が開館してからはそちらに移されている[150]
木造光背
重要文化財。奈良時代。高さ110.0センチ。法隆寺には奈良時代作の光背の残欠が3点伝わるが、そのうちもっとも保存状態のよいもの。光背のみで重要文化財に指定されているが、枘穴の状況からみて、もとは伝法堂東の間の阿弥陀如来像の光背であったものと推定される。頭光部と身光部からなり、いずれも中心の円形の周囲に二重の圏帯をめぐらし、宝相華文を透彫で表す[151]
金銅僧徳聡等造像記
重要文化財。飛鳥時代。長さ23.1センチ(枘を含み35.5センチ)。甲午年(694年)に作られた観音像の造像記である。像本体は失われている。縦長の銅板の上下に枘が作られているが、仏像のどの部分に取り付けられていたものかは不明である(光背の一部であったともいう)。銅板の表には造像の由来が3行に書かれ、それによれば、甲午年に鵤大寺の徳聡法師、片岡王寺の令弁法師、飛鳥寺の弁聡法師が父母のために観世音菩薩像を作ったという。銅板の裏面には法師らの出自が記されており、それによると、彼らは百済の王族で、日本では「王」姓を名乗ったという。銘文中の「鵤(いかるが)大寺」は法隆寺を指す。この造像記が作られた694年は、持統天皇が法隆寺の仁王会のために仏具類を施入した持統7年(693年)の翌年にあたり、670年に焼失した法隆寺が、20数年後には「大寺」と呼ばれるほどに復興していたことを示唆する。また、造像記中には飛鳥寺の名も見え、当時、法隆寺と飛鳥寺の僧の間に交流があったこともわかる[152]
厨子入銅板押出阿弥陀三尊及僧形像・銅板押出如来及両脇侍立像(板扉貼付)・銅板舟形後屏(銅板押出天蓋付)
重要文化財。奈良時代。飛鳥・奈良時代に盛んに制作された、いわゆる「押出仏」の遺品である。押出仏とは、浮彫の原型の上に薄い銅板を当て、鎚やノミで叩いて像の形を浮き出させるもので、同じ原型から複数の像を作ることができる。鎚鍱像(ついちょうぞう)ともいう。「厨子入銅板押出阿弥陀三尊及僧形像」は、厨子の高さ64.8センチ、押出仏の高さ39.0センチ。この種の押出仏が厨子に収められて礼拝像として用いられたことを示す実例である。説法印を結んで坐す阿弥陀如来像の左右に観音・勢至両菩薩像が立ち、如来と脇侍の間には各1体の僧形像が立つ。もとは鍍金されていた。これらの像の上部にある天蓋は、一時期寺外に流出して民間の所蔵となっていたものが寺に返還されたものである。東京国立博物館の法隆寺献納宝物には、本作と同じ原型から制作された押出仏が3点ある。黒漆塗の厨子は押出仏用に作られた奥行の浅いもので、上部を屋根形に作り、垂木の形を表す。観音開きの扉を付け、扉内面には金剛力士のような像を描く。「銅板押出如来及両脇侍立像(板扉貼付)」は高さ24.0センチ。3体とも立像に表された三尊像の上部に天蓋を表す。その上部にはそれぞれ小天蓋を有する3体の化仏を表す。「銅板舟形後屏(銅板押出天蓋付)」は、高さ57.4センチ。もと押出仏を貼り付けていた銅板で、現状では押出仏本体は失われて、天蓋のみが残っている。左右2枚の銅板を鋲留めとし、全体を蓮弁形に作る。東京国立博物館保管の法隆寺献納宝物198号の押出仏は、釘穴の跡が一致することから、もとはこの銅板と一具であったことがわかる。銅板の裏面には線刻で竹林と比丘、獅子、力士を表す[153][154][155]
塼製阿弥陀如来及脇侍像
重要文化財。奈良時代。高さ44.5センチ。塼仏(せんぶつ)は、粘土を凹型に詰めて型取りし焼いたもので、奈良時代に盛んに制作された。本作は説法印を結ぶ倚像(腰かけた像)の阿弥陀如来像の左右に観音・勢至両菩薩像が立ち、如来と脇侍の間には各1体の僧形像が立つ[156]
厨子入木造聖徳太子坐像
重要文化財。平安時代。像高57.9センチ。礼拝対象としての聖徳太子像には二歳像、十六歳像などがあるが、本像は童子形に表された七歳像である。治暦5年(1069年)、仏師円快の作で、彩色は秦致貞(はたのちてい / はたのむねさだ)が担当している。秦致貞はもと東院絵殿にあった「聖徳太子絵伝」(国宝、東京国立博物館蔵)として知られる。像は頭体主要部をヒノキの一材から木取りし、前後割矧ぎとする。頭髪は左右に分けて角髪(みずら)を結い、袍と裳を着用して坐す。左手には団扇を持ち、右手は掌を伏せて膝上に置く。像を納める厨子は高さ119.0センチ。礼盤状の台座に4本の柱を立てて屋根を架け、四方を吹き放しにした輦(れん)状のものである。かつては聖霊会(しょうりょうえ、聖徳太子の忌日法要)の際に、本像と太子感得の舎利とが東院から西院大講堂へ渡御した。[157]
木造如意輪観音坐像
重要文化財。時代。像高17.9センチ。六臂の如意輪観音像で、赤みがかった広葉樹材の一材から本体と蓮肉を木取りする。彩色は施さず、素地仕上げに截金で文様を表す。本像は、高雄曼荼羅(京都・神護寺蔵の、空海将来本の系統を引く両界曼荼羅)中の如意輪観音と図像的に共通することが指摘され、その作風から見ても日本製ではなく、8世紀か9世紀頃の中国製とみられる。台座の銘文によれば、本像は聖徳太子の家臣の調子丸の子孫に伝わったものである。正嘉2年(1258年)叡尊が願主となり、截金、持物、光背、台座、天蓋を整備した[158]
木造聖観音立像
重要文化財。奈良時代。像高181.5センチ。もとは金堂に安置されていた。台座蓮肉を含めヒノキ材の一木造で内刳はない。彩色は大部分剥落している。右腕は垂下し、左腕は肘を曲げ、水瓶を持つ。ただし、左手先と水瓶は後補。光背は板3枚を継いだもので、本像用のものとしてはやや大きく、他像分の転用の可能性もある。『奈良六大寺大観 法隆寺四』(1971年)は本像を平安時代、10世紀頃の作としていたが、2001年刊行の補訂版ではその後の調査結果をふまえて奈良時代後期の作としている。後世の菩薩像では頭髪の一部が耳の中ほどに掛かる表現が多くみられるが、本像にはそれがなく、古風な表現になっている。また、平安時代の彩色の下に銀泥による文様が部分的に残存しており、これは奈良時代のものとみられる[159]
木造聖観音立像
重要文化財。平安時代。像高165.2センチ。もとは金堂に安置されていた。ヒノキ材の一木造で内刳はない。両肩から先に別材を矧ぎ、右腕全体と左手先を後補とする。表面は漆箔仕上げとするが、ほぼ剥落している。11世紀初頭から半ば頃の制作[160]
木造普賢延命菩薩坐像
重要文化財。平安時代。像高91.8センチ。もとは金堂に安置されていた。20臂を有する密教系の菩薩像である。クスノキ材の一木造で内刳をほどこす。両脚部、両肩から先などに別材を矧ぐ。彩色は大部分剥落している。脇手は手首ないし前膊部を後補とするものが多い。持物のすべてと方形の台座も後補。杉材の光背は当初のもので、剥落が多いが当初の彩色を残している。[161]
木造千手観音立像
重要文化財。平安時代。像高97.5センチ。サクラの一材から頭体主要部を木取りし、内刳を行う。千手観音像は42臂で千手を代表させるものが多く、本像も42臂像であったが、脇手のほとんどが失われている。両足先や表面の漆箔は後補である。作風に天平時代風がうかがえるが、全体に彫りが荒く、10から11世紀の作とみられる[162]
木造薬師如来坐像
重要文化財。平安時代。像高86.5センチ。ヒノキ材の一木造で内刳を行い、表面は漆箔仕上げとする。頭体は一材から木取りするが、頭部は割首(いったん割り放してから再接合)とする。両脚部は別材を矧ぎ、左腕は肘、手首で、右腕は肩、肘、手首で、それぞれ矧ぐ。両手先は後補。台座は蓮肉部のみは当初のものだが、それ以外は後補か他像分の転用とみられる。平安時代後期の作[163]
木造釈迦如来坐像
重要文化財。平安時代。像高85.8センチ。ヒノキ材で、内刳を行い、表面は漆箔仕上げとする。頭体は一材から木取りするが、前後に割矧ぎ、頭部も割首とする。両脚部は別材を矧ぎ、左腕は肘で、右腕は肩、肘、手首で、それぞれ矧ぐ。腹前で法界定印(ほっかいじょういん、左手を下、右手を上にして組み、両手親指を接する)を結ぶが、両手先は後補である。像内に阿弥陀如来の種子(梵字)があり、本来は阿弥陀如来像として造立されたとみられる。台座は細かい花文があり、ほぼ当初のものとみられる。平安時代後期、11世紀末頃の作[164]
木造阿閦如来坐像
重要文化財。平安時代。像高87.0センチ。ヒノキ材で、内刳を行い、表面は漆箔仕上げとする。頭体主要部を一材から木取りするが、前後に割矧ぎ、頭部は割首とする。表面は漆箔仕上げ。両脚部は別材を矧ぎ、両腕はそれぞれ肘、手首で矧ぐ。左手で衣の端をにぎる。像内に「キリーク」(阿弥陀如来の種子)の墨書があり、本来は阿弥陀如来像として造立されたとみられる。台座は蓮肉部のみが当初のもので、他は後補および他像分の転用とみられる。平安時代後期、12世紀半ば頃の作[165]
木造阿弥陀如来坐像
重要文化財。鎌倉時代。像高91.8センチ。ヒノキ材の寄木造(前後二材矧ぎ)、頭部は割首とする。表面は漆箔仕上げ。両脚部は別材を矧ぎ、右腕は肩、肘、手首で、左腕は肩で、それぞれ矧ぐ。左手先と右手3・4・5指は後補。台座は大部分が大正2年(1913年)の補作で、それ以外の部分も他像分の転用とみられる。上述の薬師如来像、釈迦如来像、阿閦如来像とともにもと伝法堂にあった像。面相、体部の肉付けなどの特色から、制作時期は他像よりやや遅れて鎌倉時代初期とみられる[166]
木造阿弥陀如来坐像
重要文化財。平安時代。像高107.8センチ。転法輪印(両手を胸前に構える)を結ぶ阿弥陀如来像。東京国立博物館に寄託。『奈良六大寺大観 法隆寺四』によれば、同書の発刊時点(1971年)では東院絵殿北裏の小室に安置されていた。ヒノキ材の寄木造で、前後および正中でそれぞれ材を矧ぐ。両脚部は別材を矧ぎ、左腕は肘で、右腕は肩、肘、手首で、それぞれ矧ぐ。表面の漆箔は後補だが、像自体の保存はよい。光背は周縁部を欠くが二重円相と光脚は当初のもの。十重の蓮華座も大部分当初のものである。平安時代末期の作とみられる。像内には阿弥陀の種子(梵字)や真言などの当初の墨書があるが、作者や造立年代の記載はない[167]
木造弥勒菩薩半跏像
重要文化財。像高97.0センチ。ヒノキ材の一木造で内刳は行わない。彩色はほとんど剥落している。左手に宝塔を乗せた蓮華を持ち(ただし持物は後補)、左脚を踏み下げて坐す。両前膊の半ばから先、大腿部の半ばから先、踏み下げた左脚は江戸時代の後補。光背と台座は明治38年(1905年)の補作である(台座裏修理銘による)。もと金堂に安置され、さらに以前には三経院にあって唯識講の本尊とされていた像である[168][169]
木造天鼓音如来坐像
重要文化財。像高80.0センチ。ヒノキ材の一木造で、内刳はない。表面は彩色仕上げとする。両脚部は別材を矧ぎ、左腕は肘、手首で、右腕は肘でそれぞれ矧ぐ。左手先と右前膊は後補。右手は五指を伸ばして膝上に置き、左手は握って膝上に置く。天鼓音如来と呼ばれているが、前述のように両手先が後補であるため当初の印相は不明であり、本来の像名も不明である。平安時代中期、10世紀半ば頃の作[170]
木造阿弥陀如来坐像
重要文化財。平安時代。像高34.2センチ。転法輪印(両手を胸前に構える)を結ぶ阿弥陀如来像。もとは夢殿の東面に安置されていた。一木造(樹種不明)で漆箔仕上げとする。台座は蓮弁を後補するが当初のもの。光背は近世の補作である。平安時代末期の作とみられる[171]
木造弥勒菩薩坐像
重要文化財。平安時代。像高94.0センチ。ケヤキ材の一木造で、内刳を行う。表面は彩色仕上げとするがほとんど剥落する。両脚部は別材を矧ぎ、両腕はそれぞれ肩、肘、手首で、右腕は肘でそれぞれ矧ぐ。左手の第2・3指は後補。平安時代後期、11世紀半ば頃の作。台座はほぼ同時代の他像(2像分)からの転用とみられる[172]
木造善女竜王立像
重要文化財。鎌倉時代。像高20.0センチ。もと夢殿の救世観音像を安置する厨子内にあったもの。高野山金剛峯寺にある善女竜王の画像は、中国の官人風に表されているが、本像は図像的にまったく異なるもので、老相の神将形の像である。亀の背に乗り、体には竜が巻き付いている。像は黒漆塗の春日厨子に収められており、厨子扉内面には八大竜王を描く[173]
金銅釈迦如来立像
重要文化財。所在不明。

以下に、「彫刻」として重要文化財に指定されている仮面類について略説する。

木造伎楽面1面
重要文化財。奈良時代。法隆寺伝来の伎楽面のうち31面は1878年に当時の皇室に献納され、現在は東京国立博物館の法隆寺宝物館に保管されている。法隆寺側に残ったのは1面だけで、桐材製。老相で三角帽子をかぶるところから面種は「大孤父」とみられる。法隆寺宝物館の伎楽面はクスノキ材製19面、桐材製9面、乾漆製3面があり、クスノキ材製は飛鳥時代、他は奈良時代の作とされる。[174]
木造舞楽面35面(附2面)
重要文化財。平安及び鎌倉時代。内訳は胡徳楽(ことくらく)7、地久(ちきゅう)7、退宿徳(たいしょうとく)2、石川(せっせん)1、抜頭(ばとう)1、還城楽(げんじょうらく)1、二ノ舞2、新鳥蘇(しんとりそ)5、皇仁庭(おうにんてい)2、崑崙八仙(ころばせ)4、陵王1、納曽利(なそり)2。附(つけたり)の2面は散手と崑崙八仙である。胡徳楽面のうち古いものは9 - 10世紀にさかのぼる。石川(せっせん)は鎌倉時代には絶えた演目で、法隆寺の作品は石川面の現存唯一の遺品である。抜頭と還城楽は一対の作品でともに天養元年(1144年)の年記がある。附指定の2面は室町時代の作[175]
木造行道面10面(附1片)
重要文化財。平安時代。聖徳太子の忌日法要である聖霊会(しょうりょうえ)で用いられた仮面。保延4年(1138年)の聖霊会で使用されたもので、各面に同年の銘がある。内訳は獅子頭2、綱引1、蝿払1、八部衆6で、八部衆残欠1片が附(つけたり)指定となっている。行道の先頭を行く獅子、その綱を引く綱引と随侍する蝿払、聖徳太子像を乗せた輦(れん)をかつぐ八部衆からなる[176]
木造菩薩面3面(附5面)
重要文化財。平安時代。来迎会(らいごうえ)所用の面で、3面とも平安時代末期の作であり、うち1面に康和4年(1102年)仏師善祐の銘がある。[177]
木造追儺面3面
重要文化財。鎌倉時代。西円堂の追儺会(ついなえ)で用いられた面で、父鬼、母鬼、子鬼の3面。西円堂の追儺会は弘長元年(1261年)に始められたもので、これらの面はその当時(13世紀)にさかのぼる面とみられる[178]

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  168. ^ 『奈良六大寺大観 法隆寺四』、pp.33–34
  169. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、p.62
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  173. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、p.80
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  175. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、pp. 107–109
  176. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、pp. 110–111
  177. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、p.112
  178. ^ 『国宝法隆寺展』(展覧会図録)、p.113
  179. ^ 昭和27年1月22日文化財保護委員会告示第1号及び第2号(指定は昭和26年6月9日付け)
  180. ^ a b 平成21年7月10日文部科学省告示第102号
  181. ^ 昭和31年6月28日文化財保護委員会告示第34号及び第40号
  182. ^ 昭和28年7月16日文化財保護委員会告示第64号及び第66号(指定は昭和28年3月31日付け)
  183. ^ 平成51年6月5日文部省告示第110号





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