法隆寺の仏像
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その他諸堂の仏像
上に紹介済みのものを除く、法隆寺境内の諸堂に安置の仏像を紹介する。これらの諸堂は原則として一般には非公開である。
- 木造伝勧勒僧正坐像
- 重要文化財。平安時代。経蔵安置。像高90.6センチ。老齢の僧形の像で、上体を前傾させて坐す。ヒノキ材の左右矧ぎで内刳をほどこす。寺伝では聖徳太子の師であった百済の僧・勧勒(かんろく)の像とされ、新住職の晋山のときにのみ開扉された像であった。実際は、特定の人物の肖像ではなく「聖僧像」として作られたものと推定される[122]。
- 木造文殊菩薩騎獅像
- 重要文化財。室町時代。宝珠院本堂安置。像高43.2センチ。法隆寺の子院の一つである宝珠院の本堂に安置される。獅子上の蓮華座に坐す、通例の文殊像である。像表面は金泥と截金で仕上げる。銘文により、長禄3年(1459年)舜覚房春慶の作と判明する。本体のみならず、台座、光背も当初のものを存する点で貴重である[123]。
- 木造阿弥陀如来坐像
- 重要文化財。平安時代。三経院安置。像高88.4センチ。定印を結ぶ阿弥陀像。小ぶりな目鼻立ち、平行線状に整えられた衣文など、典型的な定朝様の作例であり、平安末期、12世紀頃の作とみられる。法隆寺文書に天承2年(1132年)阿弥陀像を施入したとの記載があり、本像がそれにあたる可能性もある[124]。
- 木造持国天・増長天立像
- 重要文化財。平安時代。三経院安置。像高は持国天が94.5センチ、増長天が93.4センチ。持国天は右脚を高く上げて左脚1本で立つ。増長天は右手を上げ宝塔を捧持する姿と思われるが、現状、宝塔は失われている。当初の彩色が残る。同じく三経院に安置する阿弥陀如来像と同じ頃の制作と思われ、阿弥陀像と一具であった可能性もある。重要文化財指定名称は持国天・増長天となっているが、本来の像名はそれぞれ広目天及び多聞天であるとする説もある。なお、『奈良六大寺大観』では左脚を上げる像を持国天、もう1躯を増長天としているが、『国宝・重要文化財大全』(毎日新聞社)では前者を増長天、後者を持国天としている[125]。
- 木造地蔵菩薩半跏像
- 重要文化財。鎌倉時代。地蔵堂安置。像高50.0センチ。錫杖と数珠を持つ、通形の地蔵菩薩像である。左脚を踏み下げて坐す。右足先を左大腿部に乗せていないので、厳密には「半跏像」ではなく「踏み下げ坐像」である。頭体主要部を前後2材から木取りし、頭部を割り放して玉眼を嵌入する。胸飾、腕釧、持物の錫杖の頭部などは銅製。肉身部は白に塗り、着衣は彩色と截金で仕上げる。13世紀頃の作品[126]。
- 塑造薬師如来坐像
- 重要文化財。食堂(じきどう)安置。奈良時代。像高60.9センチ。食堂須弥壇上の厨子内に安置される。食堂には同じく塑造の梵天・帝釈天像と四天王像も安置されていたが、これらは大宝蔵院に移された。天平19年(747年)の『資財帳』には本像と同定できる像の記載がない。本像が食堂に安置されていたことが確認できるのは、鎌倉時代の『聖徳太子伝私記』(顕真著)以降である。本像は服制が古様で、奈良時代、天平期の作とみられるが、像表面は厚い漆箔でおおわれており、どこまで当初の姿を伝えるものか定かでない。台座は金堂の諸仏と同様の「宣字形台座」と呼ばれる箱形のものだが、近世の補作とみられる[127]。
- 木造阿弥陀如来及び両脇侍像
- 重要文化財。平安時代。新堂安置。像高は中尊85.5センチ、左脇侍104.7センチ、右脇侍103.0センチ。サクラ材の一木造で、内刳はない。中尊は古風な八角形の裳懸座に坐す。両脇侍の反花座裏に弘安7年(1284年)、越前法橋定慶の修理銘がある。中尊の両脚部の衣文をまばらに彫るのは珍しい形である。平安時代後期、11世紀頃の作[128]。
- 木造四天王立像
- 重要文化財。平安時代。新堂安置。像高は持国天109.3センチ、増長天109.7センチ、広目天110.5センチ、多聞天109.2センチ。本体から足下の邪鬼の大半までをサクラ材の一木から木取りする。一部に塑土盛上げを併用している。忿怒の相を控えめに表した温雅な作風の像で、制作時期は同じ新堂の阿弥陀三尊と同様、11世紀頃とみられる[129]。
- 木造不動明王及び二童子立像
- 重要文化財。護摩堂安置。不動明王は平安時代、二童子は南北朝時代。像高は不動明王93.0センチ、矜羯羅童子44.0センチ、制多迦童子44.0センチ。護摩堂の本尊である。中尊の不動明王は立像で、ヒノキ材の一木造。眼は彫眼とする。右手に宝剣、左手に羂索を持ち、天地眼、牙上下出とする、一般的な形の不動明王像である(「天地眼」は右目を見開き、左目を半眼にする。「牙上下出」は右の牙を上方に、左の牙を下方に出す)。彩色、截金で仕上げるが、現状は古色を呈する。随侍する二童子像はヒノキ材、一木造で玉眼を用いる。制作は不動像より遅れて南北朝時代、康暦2年(1380年)の作である。左(向かって右)の矜羯羅童子は合掌し、右の制多迦童子は右手に宝棒を持ち、左手は肩布をつかむ。不動像の台座と火焔光背は明和2年(1765年)の補作。二童子像の台座は康暦2年、舜慶の補作である。舜慶は同じ堂内に安置する弘法大師像の作者。[130]。
- 木造弘法大師坐像
- 重要文化財。南北朝時代。護摩堂安置。像高77.3センチ。護摩堂の東壇に安置する。五鈷杵と数珠を執る、通形の弘法大師像である。銘文により、南都椿井仏師の慶秀が法隆寺仏師舜慶を率いて応安8年(1375年)に制作したことがわかる[131]。
- 木造阿弥陀如来及び両脇侍立像
- 重要文化財。子院の北室院本堂安置。像高は中尊97.9センチ、左脇侍63.6センチ、右脇侍63.0センチ。中尊、両脇侍とも立像。いわゆる来迎形の阿弥陀三尊で、観音菩薩は両手で蓮台(亡者を乗せるためのもの)を捧持し、勢至菩薩は合掌する姿に表す。寄木造だが、表面の仕上げの層が厚いため、構造の細部は不明である。粉溜(ふんだみ)仕上げで玉眼を使用する。中尊の光背は頭光・身光部を木造とし、周縁部は金銅製透彫である。両脇侍の光背は木造の頭光の周囲に金銅製の火焔宝珠を配する。両脇侍の宝冠、装身具、垂髪も銅製である[132]。
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