法隆寺の仏像
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中門仁王像
- 塑造金剛力士立像(吽形体部木造)2躯
- 重要文化財。奈良時代(711年)。中門安置。像高は阿形(あぎょう)379.9センチ、吽形(うんぎょう)378.5センチ。『資財帳』の記載から、五重塔の塑像群と同じ和銅4年(711年)の完成とわかる。日本の金剛力士(仁王)像としては、長谷寺の銅板法華説相図(686年または698年)に表されているものに次いで古い。門内の向かって右に朱色の阿形像、左に黒色の吽形像が立つ。安置場所が長年外気にさらされる環境にあったため、各像とも補修が多い。本来は塑造だが、重要文化財指定名称に「吽形体部木造」とあるとおり、吽形像は16世紀の修理で大部分が木造に替わってしまっている。阿形像は比較的当初の部分を残していると思われていたが、修理時の調査の結果、奈良時代末期頃に大幅に造り替えられていることが判明。むしろ、吽形像の木造に替わっていない部分(頭部、右手、背部、腰)の方に当初の形が残っていることがわかった。吽形像には足枘があるが、阿形像の方にはない。このため、足枘ではなく吊金具を用いて像を支えていたものと推定される[70][71]。
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木造金剛力士立像(吽形、中門安置)
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木造金剛力士立像(阿形、中門安置)
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中門
大講堂の仏像
西院伽藍内、金堂・五重塔の北に位置する。須弥壇上に薬師三尊像と四天王像を安置する(拝観可)。
- 木造薬師如来及び両脇侍像
- 国宝。平安時代。像高は中尊247.2センチ、左脇侍172.1センチ、右脇侍172.1センチ。中尊は左手に薬壺(やくこ)を持つ、通形の薬師如来像である。台座から光背先端まで含めた高さは4メートルに達する。両脇侍像(日光菩薩、月光菩薩)は坐像で、宝冠をいただき、両腕を前方に差し出し、両像とも中尊に近い方の手を下げる。中尊は平安初期風の量感豊かな像であるが、伏目がちの表情、平行して流れる穏やかな衣文などから、制作は堂が再建された正暦元年(990年)頃とみられる。中尊と脇侍は作風が異なり、作者が異なるとも考えられる。各像の光背は周縁部を除き当初のものであり、台座も当初の形式を伝える[72]。
- 木造四天王立像
- 重要文化財。平安時代。像高は持国天201.3センチ、増長天194.8センチ、広目天197.0センチ、多聞天204.0センチ。大講堂須弥壇の四隅に立つ。ヒノキ材、寄木造。頭体部を通じ、正中と両側とに矧ぎ目があるが、うち正中の矧ぎ目は別材を寄せたものでなく、割矧とみられる。全体に太作りで体躯の抑揚が少なく、制作は10世紀末から11世紀前半とみられる。ただし、4躯のうち広目天像のみ作風が異なり、別に制作されたものと考えられている。各像の天衣、持物、光背、邪鬼とその下の方座は後補である[73]。
聖霊院の仏像
聖霊院(しょうりょういん)は、西院伽藍の回廊の東方に建つ、南北棟の建物。もとは僧房である東室(ひがしむろ)の一部であったが、鎌倉時代に聖徳太子を祀る仏堂に改築された。内陣には三間の大型厨子があり、聖徳太子及び眷属像(5躯)、如意輪観音像、地蔵菩薩立像を安置する。これらの諸仏は秘仏で、毎年3月21日から24日のお逮夜法要、お会式法要のときのみ開扉される。ただし、一般拝観者が内陣に入って拝観できるのは3月21日のお逮夜法要の終了後のみ。
- 木造聖徳太子及び眷属像
- 国宝。平安時代。像高は聖徳太子84.2センチ、山背王64.0センチ、殖栗王(えぐりおう)53.9センチ、卒末呂王(そまろおう)52.4センチ、恵慈法師63.9センチ。国宝指定名称は以下のとおり。
- 木造聖徳太子 山背大兄王 殖栗王 卒末呂王 恵慈法師坐像 5躯
- 附 銅造観音菩薩立像 木造蓬莱山及亀座付
- 附 紙本墨書妙法蓮華経二 維摩経並勝鬘経一 3巻(木製経筒入) 奥に筆師法隆寺僧隆暹敬白とある
- 聖霊院内陣には間口三間の厨子があり、中央間に聖徳太子像を、左右の間には3躯ずつ計6躯の像を安置する。すなわち、厨子の西の間は、奥に如意輪観音像、手前向かって左に山背王像、右に殖栗王像を安置、東の間は、奥に地蔵菩薩像、手前向かって左に卒末呂王像、右に恵慈法師像を安置する。『法隆寺別当次第』という記録に、保安2年(1121年)、東室の南端を改造して聖霊院を設けたことが記され、聖徳太子と眷属像もこの時に造られたものとみられる。礼拝対象としての聖徳太子像には二歳像(南無仏太子像)、七歳像、十六歳像(孝養像)、勝鬘経講讃像などがあり、鎌倉時代の顕信著『聖徳太子伝私記』は本像を34歳の勝鬘経講讃像としている。しかし、絵画作品に表された聖徳太子勝鬘経講讃像との比較から、聖霊院像は勝鬘経講讃像ではなく摂政像であるとする説もある。像は冕冠(べんかん)を被り、朱色の袍(ほう)を着し、両手に笏(しゃく)を持って坐す。冠の正面には毘沙門天像を表す。この毘沙門天像は後補で、他に冠上の冕板、持物の笏、左袖口の一部、裳先の一部を後補とする。4躯の眷属像のうち、山背王(山背大兄王)は聖徳太子(厩戸王)の子、殖栗王と卒末呂王は異母兄弟、恵慈法師は法の師にあたる高句麗僧である。山背王、殖栗王、卒末呂王、恵慈法師はそれぞれ如意、筥(はこ)、大刀、柄香炉を持つ。これらのうち恵慈法師の持つ柄香炉以外は当初のものである。如意、筥、大刀は勝鬘経講讃の聴聞者の持物としては不審で、この点も本像を勝鬘経講讃像ではないとする説の根拠になっている。太子像の謹厳な面持ちに対し、眷属4躯の面相は対照的に親しみやすくユーモラスな表現になっており、そのことによって太子像の聖性をより強調する効果を上げている。太子像の像内には法華経、維摩経、勝鬘経の三経と銅造の観音菩薩像とが納入されている。これらの納入品は1905年(明治38年)に一度確認され、1985年(昭和60年)の調査でもあらためて確認と撮影が行われているが、その概要は以下のとおりである。一番下には巻物3巻を並べた形を模した、木製の容器がある。この容器は蓋と身に分かれ、中に3巻の経巻(法華経2巻と維摩経・勝鬘経合わせて1巻)を納める。その上には木彫りの亀が乗り、その背には自然木を組み合わせて制作した蓬莱山を乗せ、その上に銅造観音菩薩像が立つ。観音菩薩像については聖徳太子像の像内にあるものなので詳細は不明だが、像高は約24センチ、胸前に両手で宝珠を捧持する形の像で、奈良時代の作品とみられる[74]。
- 木造如意輪観音半跏像
- 重要文化財。平安時代。像高126.3センチ。聖霊院の厨子の西の間に安置される。如意輪観音は六臂の坐像に表すものが多いが、本像は二臂の半跏像で、左脚を踏み下げ、右手を頬に近付けて思惟のポーズを示す。通常の菩薩像と異なり、衣は胸の部分も覆っている。図像集『別尊雑記』に四天王寺の救世観音像として収録される像と図像的に近い。穏やかな像容から平安後期、11・12世紀の作とみられる[75]。
- 木造地蔵菩薩立像
- 重要文化財。平安時代。像高76.7センチ。聖霊院の厨子の東の間、前出の如意輪観音像と対になる位置に安置されるが、制作年代は異なる。カヤ材の一木から本体及び蓮肉までを彫出する一木造である。両手先は別材を矧ぐが、後補のものに替わっている。作風から平安時代初期、9世紀の作とみられる。もと金堂安置(現・大宝蔵院)の地蔵菩薩立像と服制や印相が共通し、制作年代も同じ頃であるが、本像の方がなで肩である点が異なる[76]。
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