プトレマイオス朝
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プトレマイオス朝(プトレマイオスちょう、古代ギリシア語: Πτολεμαῖοι、Ptolemaioi、紀元前305年 - 紀元前30年)は、グレコ・マケドニア人を中核とした古代エジプトの王朝。アレクサンドロス3世(大王)の死後、その後継者(ディアドコイ)となったラゴスの子プトレマイオス(1世)によって打ち立てられた。建国者の父親の名前からラゴス朝とも呼ばれ、セレウコス朝やアンティゴノス朝とともに、いわゆるヘレニズム国家の一つに数えられる。首都アレクサンドリアは古代地中海世界の経済、社会、文化の中心地として大きく発展し、そこに設けられたムセイオンと付属の図書館(アレクサンドリア図書館)を中心に優れた学者を多数輩出した。対外的にはシリアを巡ってセレウコス朝と、エーゲ海の島々やキュプロス島を巡ってアンティゴノス朝と長期にわたって戦いを繰り返したが、その終焉までエジプトを支配する王朝という大枠から外れることはなかった。この王朝が残したロゼッタ・ストーンは近代のエジプト語解読のきっかけを作った。
注釈
- ^ ウォールバンクの和訳書では前320年となっているが[14]、他の全ての出典が321年とするため、それに従う。
- ^ プトレマイオス・ケラウノスはプトレマイオス1世の息子であり、プトレマイオス2世の異母兄弟にあたる。父王との対立からエジプトを離れ、リュシマコスの庇護下にあった。リュシマコスがセレウコス1世に敗れた後、プトレマイオス・ケラウノスはセレウコス1世を暗殺した。
- ^ 離反したマガスはエジプトの支配権の奪取をも試みたが失敗した[33]。エジプトとキュレネが砂漠で隔てられていて双方とも有効な攻撃が困難であったことも手伝い、結局両者は妥協して相互の干渉を控えることになった[33]。
- ^ ターン 1987の記述ではクレモニデス戦争の期間は前266年-前262年。
- ^ アルシノエ2世はプトレマイオス1世と妻ベレニケ1世の娘でありプトレマイオス2世にとって同母姉にあたる。彼女は当初リュシマコスと結婚したが、リュシマコスの死後エジプトに戻っており、姉弟であるプトレマイオス2世と結婚した。従ってリュシマコスとアルシノエ2世の息子プトレマイオスはプトレマイオス2世の義理の息子にあたる。プトレマイオス3世はプトレマイオス2世の実子であり、アルシノエ2世の子プトレマイオスとは別人である[41][42]。
- ^ アレクサンドリア図書館の建設を行った王についてはプトレマイオス1世とプトレマイオス2世のいずれであるか確実にはっきりとはしない。モスタファ・エル=アバディは現存史料からいずれの建設ともみなしうるが、従来プトレマイオス2世に帰されていたその業績は近年ではプトレマイオス1世のものとする方向に傾いていると述べる[44]。しかし、フランソワ・シャムー[41]や本村凌二[45]など、多くの書籍でプトレマイオス2世の創建という前提で叙述が行われていることから、本文ではプトレマイオス2世の建設とする見解に依った。
- ^ プトレマイオス3世自身は本国での反乱のために帰国しており、バビロンを攻撃したのは代理の将軍である[55]。
- ^ 波部雄一郎は著作において、反乱や内紛は最盛期とされる最初の3代の時代にも見られることや、近親婚や暗君の統治による内政の混乱という見解が古典古代の著作家による視点を受け継いだものであることに触れ、このような一面的な解釈には再考の余地があると指摘している[63]。ただし、波部自身も「プトレマイオス五世以降の王朝が、シリア、小アジア沿岸部、エーゲ海の領土の相次ぐ喪失により、ギリシア世界に進出し、政治的影響力を行使する地理的条件を失ったことは事実である」と述べており、またプトレマイオス朝史を前期と後期に分ける区分を用いてもいる[63]。従って本文では伝統的な見解に従った。
- ^ a b プトレマイオス4世の在位年は参考文献によって表記が一定しない。本文は波部2014に依った。具体的には次の通りである。前222/221年-前204[64]、前221-前204[65][66]、前221-前203[42]、前222-前206[67]、前222-前205[68]。
- ^ 実際にはプトレマイオス4世は王朝の影響力を強化すべく活動しており、また彼がその顕示欲から遂行したとされる大型軍船の建造などの事業も、国威発揚のための努力ともとることができる。また彼の時代には特に大きな領土の喪失もなく、彼の治世以降をプトレマイオス朝衰退の時代とする観点は見直すべきとする見解もある[63]
- ^ このポリュビオスの見解は近現代の学者に大きな影響を与えている。しかし、現在ではエジプト人の反乱をラフィアの戦いでの貢献による自己意識の向上と言った要素に求める見解や、エジプト人を単なる被支配者層とみなす見解は見直しを迫られている。詳細は#グレコ・マケドニア人とエジプト人を参照。
- ^ この反乱の発生年次についても、参考文献の間で一致しないため次にまとめる。各出典でこの反乱の発生日時には次の年が割り当てられている。前207年[76]、前206年[79]、前205年[74]。
- ^ 王が自力で統治可能な年齢に達した事を公布する儀式[87]。
- ^ 山花はプトレマイオス8世と結婚したクレオパトラはクレオパトラ・テアであるとし、プトレマイオス7世はクレオパトラ・テアの息子であるとしているが、他の全ての参考文献と矛盾するため本文では採用していない[96]。
- ^ 松原『西洋古典学事典』[110]はベレニケ4世とアルケラオスの統治は6ヶ月間であり、プトレマイオス12世の帰還に伴って殺害されたとしているが、他の出典がプトレマイオス12世の帰還を共通して前55年としているため本文はそれに従った。
- ^ 例えば、メンフィスのプタハ大神官の家系にはプトレマイオス王家の王女が輿入れした例がある[145]。
- ^ aroura/arourae、古代エジプトの面積単位。1アローラ当たり2,756m2
- ^ 七十人訳という名称は、72人の翻訳者によって72日間で完成したとする伝説による[233]。
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