黒須隆 黒須隆の概要

黒須隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/03 00:14 UTC 版)

黒須 隆
基本情報
国籍 日本
出身地 埼玉県
生年月日 (1968-09-18) 1968年9月18日(54歳)
身長
体重
177 cm
79 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本
五輪 1996年
オリンピック
男子 野球
1996 野球

人物・来歴

埼玉県出身。浦和学院では3年の夏に1年後輩の鈴木健西武ヤクルト)、バッテリーを組んだ谷口英功(大学でも同僚)らとともに夏の甲子園ベスト4入り。その後東洋大へ進学、3年春は二部リーグであった。一部リーグ通算76試合出場、224打数58安打、打率.259、1本塁打、26打点。1年後輩に桧山進次郎徳田吉成は黒須の存在もあって3年までは野手。1991年日産自動車に入社。

強打の捕手として社会人野球界でも注目を集め、1993年1994年社会人野球日本選手権大会2年連続準優勝に貢献。1994年の日本・キューバ選手権で初めて日本代表入りを果たす。チームでは川尻哲郎北川哲也をリードした。

1996年にはアトランタ五輪代表入りし、銀メダル獲得。捕手で代表入りしたのは大久保秀昭(当時日本石油。その後近鉄を経て慶大、JX-ENEOS監督)と黒須のみであった。1997年にはIBAFインターコンチネンタルカップの日本代表に選出され、キューバを破って世界一に輝く。翌1998年には川越英隆とのバッテリーでチーム2度目の都市対抗野球大会優勝を経験し、社会人ベストナイン捕手部門に選出される。

2000年に都市対抗野球大会10年連続出場表彰を受け、2001年にはIBAFワールドカップの日本代表入り。これが最後の日本代表入りとなった(日本代表キャリアは12)。しかし後進に道を譲りたいとしてこの年限りでユニフォームを脱いだ。その後は社業に就いている[1]

主な日本代表キャリア

主な表彰、タイトル


  1. ^ 埼玉)頂点極め心に糧 86年浦和学院の選手たちはいま”. 朝日新聞デジタル (2018年5月17日). 2021年2月27日閲覧。


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