響きと怒り あらすじ

響きと怒り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/26 04:08 UTC 版)

あらすじ

この小説の4つの部は、多くの同じエピソードに関わっており、それぞれが異なる視点から語られるので、異なる主題と出来事に強調が置かれている。脈絡が無く錯綜しているように見える小説の構造は、真の大意を分かりにくくさせている。特に語り手が全て独自の見方であって(信頼するに足りず)、その証言が必ずしも信用できるとは限らない。フォークナーは、この小説でも、語り手の意識が過去の重要な瞬間に戻るときに斜字体を使って示している。しかし、時点の移動が常に斜字体で表されているとは限らず、フラッシュバックの間も異なる時間の経過が必ずしも斜字体のまま表現されてはいないので、斜字体を使うことがさらに混乱を呼んでいる。時点の移動は煩わしく混乱させられるので、特別に注意して読む必要がある。

話の大筋は、かつて南部の貴族的家系であり、南北戦争の英雄コンプソン将軍の子孫である一家の没落である。フォークナーが戦災を受けた南部の再建時における問題の原因と考えた人種差別、貪欲さ、身勝手さ、および個人が決断する者となるための心理的無能さといった悪徳の餌食になる。小説に語られる30年ほどの間に、一家は財政的に破綻し、信仰心を失い、ジェファーソンの町の尊敬も失い、多くの者が悲劇的な死を迎える。

フォークナーは、後に4ページのコンプソン家の歴史「ポータブル・フォークナー」を著した。これはフォークナーが『響きと怒り』を書いたのと同時期にその歴史を書きたいと思ったと自ら語っていたものである。

第1部「1928年4月7日」

第1部は、ベンジャミン・"ベンジー"・コンプソンの語りである。ベンジーは、その白痴故に一家の恥の源となっている。ベンジーの世話を心から行おうという数少ない人物は、ベンジーの姉のキャディと黒人女召使のディルシーである。その語りは、全体に脈絡のなさで特徴付けられており、継ぎ目のない意識の流れの中で、出来事が寄せ集められている。また、その期間は、ベンジーが3歳の1898年から現時点の1928年までである。この部における斜字体の存在は、話の重要な転換を示すように意図されている。これは、フォークナーが、執筆当初に時間の移動を表すために異なる色のインクを使おうとしたことに由来する。この部は、時間軸の錯綜により、特別に難しくなっているが、この文体のおかげで全体のリズムが形成され、時間軸が整ってはいなくとも、多くの人物の真の心の動きに対する先入観念のない見方を提供している。さらに、ベンジーの世話をする人物が時代を追って変わって行くことで、時の移りが分かる。現時点のラスター、ベンジーが10代のときのT・P、乳幼児のときのヴァーシュがその例である。

この部では、ベンジーの3つの愛情を見ることができる。すなわち、炉火の光、かつてコンプソン家のものだった土地に造られたゴルフ場、および姉のキャディである。しかし、キャディは、生んだ子供が夫との間の子ではなかったために夫から離婚され、現時点ではコンプソン家から消えてしまっている。一家は、長男のクウェンティンのハーバード大学での学費を調達するため、地元のゴルフクラブにお気に入りの牧場を売ってしまっていた。小説の冒頭で、ベンジーは、召使の少年ラスターと同行しており、ゴルフ場のゴルファー達を見ながらお気に入りの姉の名前「キャディ」をゴルファー達が呼ぶのを聞こうと待っている。ゴルファーの一人がゴルフ・キャディを呼んでいるとき、ベンジーの心の中では姉に関わる記憶がめまぐるしく入れ替わり、一つの重要な出来事に行き着く。それは、コンプソン家の子供達4人の祖母が死んだ1898年であり、その葬儀の間、子供達は外で遊ぶよう命令されていたことである。キャディは、家の中で進行していることを見るために、庭の木に登り家の中を覗いている。彼女の3人の兄弟であるクウェンティン、ジェイソン、ベンジーは、上を見上げていると、キャディの下着が泥で汚れていることに気付く。この出来事は、ベンジーの最初の記憶であり、残りの物語を通して、彼はキャディと樹木を結びつけて考えるようになる。現にベンジーは、しばしばキャディは樹木の匂いがすると発言する。この部の中でもう一つ重要な出来事は、ベンジーの障害が明らかになった1900年に、それまでのモーリーからベンジーに名前が変えられたことである。モリーという名前は、伯父(母の兄)の名前を貰ったものだった。1910年のキャディの結婚と離婚、および門の鍵が外れていてベンジーが監視されていなかった時に少女を襲ったことからベンジーが去勢されたことは、この部のなかで簡潔に語られている。

第2部「1910年6月2日」

コンプソン家の子供達の中でもっとも知的で自責の念に苦しめられているクウェンティンは、フォークナーの叙述法の好例を与えている。クウェンティンは、ハーバード大学の一年生であり、ケンブリッジの通りをうろつきながら、死を考え、妹のキャディと家族が離反したことを回想している。第1部と同様にその叙述は厳密に時系列ではないが、ハーバードにいるクウェンティンと記憶の中にいるクウェンティンとのあざなえる2つの糸は、はっきりと区別できる。

クウェンティンの主要な妄想の対象は、キャディの処女性と純潔である。南部の騎士道精神に取り付かれ、特に妹を初めとする女性の保護を必要と考えている。キャディが性的な放縦さに陥ったとき、クウェンティンは、驚愕し、父親に援助と相談を持ちかける。しかし、実用主義のコンプソン氏は処女性は男が創作したものであり、深刻に考えるべきではないと告げ、さらに時が全てを解決するとも言う。クウェンティンは、父が間違っていることを証明しようと時間を費やすが、できないでいる。1909年秋にクウェンティンがハーバードに向けて旅立つ直前に、キャディはドールトン・エームズの子供を妊娠し、クウェンティンはエームズと対決する。二人は戦い、クウェンティンが惨めに敗北する。キャディは、クウェンティンのために、二度とエームズとは話をしないことを誓う。クウェンティンは、父に近親相姦を犯したと告げるが、父は彼が嘘をついていることが分かる。「すると彼、おまえはあの娘(こ)にそれをさせようとしたのかね。そこでぼく ぼくはこわかったんです妹がそうするんじゃないかと思ってこわかったんですそれにそんなことをしたってなんにもならなかったでしょう[3]」クウェンティンの近親相姦という観念は、もし彼らが「何かひどくおそろしいことをしてしまって、ぼくたち二人のほかはみんな地獄から逃げだしてしまいさえするものなら[4]」、彼女がどのような罪に耐えるとしても、彼女と結合することで妹を守ることができるという観念から形作られている。クウェンティンの心の中では、キャディの罪に対して責任を取る必要があると感じている。妊娠し孤独を感じたキャディは、ハーバート・ヘッドと結婚する。クウェンティンはヘッドとの結婚に反発するが、キャディはすでに心に決めている。彼女は出産する前に結婚しなければならない。ハーバートはその子供が自分の子ではないと分かり、母(キャディ)とその娘を恥辱の中に追いやる。クウェンティンは、授業をサボってハーバードをうろついているが、キャディを失ったことに対する悲痛の過程を辿っている。例えば、英語を話せないイタリア人移民の少女と出遭う。ここで重要なことは、クウェンティンが少女を「おねえちゃん」("sister")と呼ぶことであり、その日の大半を通して少女との対話を試み、少女の家を見つけてあげようとするが、徒労に終わる。クウェンティンは、南北戦争後の南部の凋落と浅ましさを悲観する。彼の周りの世界における超道徳性に対処できずに自殺する。

この小説を初めて読む者は、ベンジーの部が難しく、クウェンティンの部は近づきやすいと言うことが多い。しかし、時点の転換が頻繁に行われるだけでなく、(特に終わりの方で)フォークナーは完全に文法、綴り、あるいは句読点を無視していることが多く、区切りのない言葉、句、文を長ったらしく書き続け、ある思考が終われば、次の思考が始まっている。この混乱は、クウェンティンが重い抑鬱状態にあり、精神に異常を来たしかかっているためである。それゆえにこの部は、弟のベンジー以上にクウェンティンを信頼できない話者に仕立て上げており、複雑さの故に、文学者が最も広範に研究する対象になっている。

第3部「1928年4月6日」

第3部は、コンプソン家の母キャロラインのお気に入りで3番目の子供のジェイソンによって語られている。時は第1部(ベンジーの部)の前の日で、聖金曜日(復活祭前の金曜日)である。3人の兄弟が登場する3つの部の中で、ジェイソンの部は最も単刀直入であり、物質的豊かさに対するその独りよがりの欲望を反映している。1928年では、父の死後にジェイソンが一家の経済を支える者になっている。母、ベンジーおよびミス・クウェンティン(キャディの娘)を養い、さらに召使の家族も居る。ジェイソンの役割は、彼を辛らつで皮肉屋にしており、兄や姉にあったような感受性はほとんど見当たらない。彼は、ミス・クウェンティンの唯一の保護者とキャディに認めさせ、キャディが娘のために送ってくる養育費を着服している。

この部は、この小説で時間を追って語られる最初の部分である。聖金曜日の時間の進行を追いながら、ジェイソンは、再び逃げ出したミス・クウェンティンを探すために仕事を放り出しており、いたずらを求めているようにも見える。ここでコンプソン家の2つの支配的な流れの間にある諍いを見ることができる。ジェイソンの母キャロラインは、それを自分と夫の血筋の間の違いのせいにしている。ミス・クウェンティンの向こう見ずで感情的なところは、祖父から受け継いだものであり、究極的にコンプソン家のものである。一方、ジェイソンの無慈悲な皮肉屋という性格は、母方から受け継いだものである。この部は、コンプソン家の家庭内生活について、はっきりとしたイメージを与えてくれており、ジェイソンや召使にとっては、心気症のキャロラインとベンジーの面倒を見ることを意味している。

第4部「1928年4月8日」

第4部は、復活祭の日である。この部は、単一の話者の視点からは語られていないが、黒人召使一家の強力な女家長であるディルシーに焦点が当てられている。ディルシーは、没落するコンプソン家とは対照的に、その信仰から大きな強さを得ており、死に体の家族の中で誇り高き人物として君臨している。ディルシーが外を見ることでその強さを得ているのに対し、コンプソン家は内面を見ることで弱くなっているということもできる。

この復活祭の日に、ディルシーはその家族とベンジーを黒人教会に連れて行く。彼女を通じて、コンプソン家が長年暮らしてきた退廃と堕落の結果を感じ取ることができる。ディルシーは、不当な待遇を受け虐待されているが、それでも一家に忠誠なままである。ディルシーは、孫息子のラスターの助けでベンジーの面倒を見ており、彼を教会に連れて行って救済をもたらそうとする。説教師の教えによって、コンプソン家のために泣き始め、現在目撃しているコンプソン家の崩壊を通じて見て来たものを思い出させられる。

一方、ジェイソンとミス・クウェンティンの間の対立は、避けられない結果に達する。一家は、ミス・クウェンティンが夜の間に見世物小屋の雇い人と共に逃げ出したことを発見する。ミス・クウェンティンは、ジェイソンが箪笥の中に隠していた現金を発見し、自分の金(キャディからの養育費をジェイソンが着服していた)と金の亡者になっていた叔父が生涯貯めてきた金を取っていく。ジェイソンは、警察に行って自分の金が盗まれたと告げるが、ミス・クウェンティンの金を着服していたことを認めることになるので、それ以上追求できない。それ故に、自分で彼女を見つけようと出発するが、近くのモットソンの町で彼女の足跡を見失い、去るままに任せてしまう。

この小説は、大変強く、不安なイメージで終わる。ディルシーは、教会の後で孫のラスターに、家族の老朽化した馬と馬車(もう一つの崩壊の印)でベンジーを墓地まで連れて行くことを認める。ベンジーは、決まりきった生活に嵌まり込んでいたので、その経路のちょっとした変化でも怒らせることになるはずだったが、ラスターはお構いなしに広場の記念碑の周りをいつもと違う方向に曲がろうとする。ベンジーのヒステリックな泣き声と衝撃的な喚きは、誰でもないジェイソンだけが黙らせることができた。ジェイソンは、ベンジーを宥める最善の方法を知っていた。ジェイソンは、ラスターを突き飛し、馬車を回したので、ベンジーは急におとなしくなる。ラスターがベンジーを振り返るとベンジーが花を落としているのが分かり、ベンジーの目は「再びうつろで、青々と澄みわたっていた[5]。」

付録: 1699年-1945年、コンプソン家の人たち

1945年、フォークナーはこの小説に関する付録を書いて、出版予定だった選集『ポータブル・フォークナー』の中に掲載した。フォークナーの依頼で、その後の『響きと怒り』の再版にはその最後にこの付録が付けられることが多い。「第5部」といわれることもある。『響きと怒り』出版から16年後に書かれたこの付録は小説本文と多少の異同を含んでいるが、小説の筋で不透明だったところを明らかにしている。

この付録はコンプソン家の歴史を編年体で完成させたものである。先祖のクウェンティン・マクラカンが1779年にアメリカに渡って来たときに始まり、小説の時点(1928年)以降に起こった出来事も含んでいる。特にキャロライン・コンプソンが1933年に死に、ジェイソンはベンジーを州立精神病院に送りつけたこと、黒人召使を解雇したこと、コンプソン家の最後の土地を売却したこと、その農業用品店の上にあるアパートの一室に転居したことが語られている。またジェイソン自身がベンジーの法的な庇護者であることをずっと昔に宣言しており、母には知らせずにこの位置づけを利用してベンジーを去勢させたことも明かされている。

この付録ではキャディのその後も分かる。小説の中では娘のクウェンティンがまだ赤ん坊のときに現れたのが最後だった。キャディは二度目の結婚と離婚を経験した後、パリに行ってドイツ占領下の時を過ごす。1943年、ヨクナパトーファ郡司書が雑誌の写真の中に、ドイツ軍参謀の将軍と共に居るキャディを発見し、ジェイソンとディルシーそれぞれに彼女を救おうと呼びかける。ジェイソンは一瞥して写真の女性がキャディだと認めるが、司書が助けを求めていることが分かると否定しに掛かる。ディルシーは全く写真を見ることができない振りをする。その司書は後に、ジェイソンがキャディに対して冷たく同情的ではないこと、ディルシーはキャディが他に救うだけの値打ちのあるものが残されていないので、救われたいという思いもその必要もないことを単に理解したということを悟った。

この付録はコンプソン家の召使を務めた黒人一家を列挙することで終わっている。コンプソン家の家族については長く詳細に語り、全知の観点から書かれているのに対し、召使達についてはシンプルで簡潔である。最後に登場するディルシーの場合は、「彼らは耐え忍んだ」という英語では2語だけで終わっている。


  1. ^ シエークスピヤ第五幕 第五場」『沙翁傑作集(マクベス)』 10巻、坪内逍遙 訳、早稲田大学出版部、172頁。doi:10.11501/979379https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979379/1092022年11月26日閲覧 
  2. ^ "マクベス:第五幕 第五場". 物語倶楽部. 2004年9月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2004年9月28日閲覧
  3. ^ フォークナー 1971, p. 421.
  4. ^ フォークナー 1971, p. 334.
  5. ^ フォークナー 1971, p. 551.





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