赤川克紀 赤川克紀の概要

赤川克紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/23 01:02 UTC 版)

赤川 克紀
東京ヴェルディ・バンバータ #47
2010年11月14日(松山中央公園野球場
基本情報
国籍 日本
出身地 宮崎県宮崎市
生年月日 (1990-07-31) 1990年7月31日(33歳)
身長
体重
184 cm
99 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 投手
プロ入り 2008年 ドラフト1位
初出場 2009年9月9日
最終出場 2014年8月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴

プロ入り前

小学2年生の時にソフトボールを始め、中学時代は軟式野球部に所属[1]宮崎県立宮崎商業高等学校入学後、1年秋からエースとなり、秋季県大会では30イニング連続無失点、46奪三振と驚異的な記録を残し、九州大会に駒を進めた。3年の宮崎大会準決勝では延長15回193球を投げ、チームの39年ぶり4回目の甲子園出場に貢献。甲子園初戦の城北高校戦において8回1失点と好投し、チームに44年ぶりの勝利に貢献。2回戦の鹿児島実業高校戦で敗退したが、延長12回を一人で投げ抜き、全日本高校選抜に選出された。

2008年度のドラフト会議東京ヤクルトスワローズから1位指名を受け入団。

ヤクルト時代

2009年9月9日広島東洋カープ戦で、6点差を追う9回に3番手としてプロ入り初登板。打者4人に対して本塁打を含む3安打1四球2暴投3失点と1死も取れずに降板した。

2010年、台湾で開催された第17回IBAFインターコンチネンタルカップの日本代表に選ばれた。

2011年8月18日横浜ベイスターズ戦では5回無失点でプロ初勝利を挙げた[2]。9月時点でチームが首位に立ち中日ドラゴンズとの優勝争いを繰り広げるなか、9月26日の中日戦では9回二死から1失点したものの堂々のプロ初の完投勝利を飾るなど[1]、8月からの先発起用ながら6勝3敗という成績を残した。クライマックスシリーズにも登板し、ファーストステージの第3戦、11月1日の対読売ジャイアンツ戦では6回2/3を無失点でチームを勝利に導いた[3]

2012年は、監督推薦により自身初のオールスターゲーム選出を決め、第3戦の6回から登板。3イニングを無安打に抑え、SKYACTIV TECHNOLOGY賞(3試合を通じて最もファンの印象に残った選手)を受賞した。シーズンでは先発ローテーション投手として8勝9敗の成績を残し、プロ入り初の規定投球回到達を果たした。

2013年は、開幕ローテーションに抜擢されたが、成績不振で5月に二軍落ち。7月に一軍へ再昇格を果たしたものの、7月28日の広島戦では5回までに4点リードしながら初勝利を逃し、この試合を最後に再び二軍へ落ちた。その後は一軍へ再昇格することなくシーズンを終え、最後まで勝利を挙げられず防御率も6.98に終わった。

2014年は、先発での登板は1試合しかなく、中継ぎで起用されたが全体では14試合の登板に終わり、防御率も7点台の成績で終わった。

2015年はイースタンで25試合で1勝3敗、防御率7.16という成績に終わり、プロ入り後初めて一軍公式戦への登板機会がなかった。10月2日に球団から戦力外通告を受け、10月14日に現役を引退することが報じられた[4]

引退後

引退表明の際に、「野球にはもう携わらない」と明言したが、地元の先輩であるamadanaの社長で東京バンバータの監督でもある熊本浩志の紹介で、2015年11月から東京都内の建築資材関係企業・株式会社ナスタ[5][6]に勤務しながら[7]軟式野球のクラブチーム「東京バンバータ」(現:東京ヴェルディ・バンバータ)に加わった[8]

人物・選手としての特徴

肘の使い方が上手く、球持ちのよさに非凡さがあると2012年のプロ野球名鑑では評されている[9]。2011年時点で平均球速は、約137km/h[10]。動くボールを武器に打たせて取るピッチングを持ち味とした[1][11]

のんびりした気質でマウンド上でも臆する事なく、走者を背負ったピンチの場面でも粘り強さを発揮した[1][12]

ヤクルトでは、同じく高卒でドラフト1位指名で入団した由規村中恭兵増渕竜義らとともにドラ一四兄弟と呼ばれた(赤川が末っ子)[13]


  1. ^ a b c d e 主ヤクはジャイアン!赤川、危機救ったプロ初完投勝利”. スポニチアネックス (2011年9月27日). 2022年1月4日閲覧。
  2. ^ 「ジャイアン」赤川初勝利!バカボンの仇討った スポーツニッポン 2011年8月19日付記事
  3. ^ ヤクルト赤川無失点 鈍感力発揮/CS1”. 日刊スポーツ (2011年11月1日). 2022年1月4日閲覧。
  4. ^ 燕ドラ1たちが決断…日本ハム・増渕、ヤクルト赤川が引退へ SANSPO.COM 2015年10月14日付記事
  5. ^ 47赤川”. tokyoverdy bambaataa. 2020年9月3日閲覧。
  6. ^ 勝負するからには手加減しない、今年は結果を出しにいきます!”. ザ・コーポレートゲームズ東京 2018 アジアパシフィック. 2020年9月3日閲覧。
  7. ^ 『スポーツ報知』2015年12月31日付特集記事「プロ野球選手第2の人生 その後」
  8. ^ ★【SWBCJAPAN】2015年度最終戦を勝利で飾る 4.23トライアウト開催へ”. 全国軟式野球ストロングリーグ (2016年3月27日). 2017年1月4日閲覧。
  9. ^ 『プロ野球カラー名鑑2009』ベースボール・マガジン社、2009年、246頁。ISBN 978-4-583-61591-2 
  10. ^ 『2012プロ野球オール写真選手名鑑』日本スポーツ企画出版社、2012年、98頁頁。ISBN 978-4-905411-04-8 
  11. ^ 【ヤクルト】荒木C「ボールよく動く」”. 日刊スポーツ (2012年9月19日). 2022年1月4日閲覧。
  12. ^ プロで惜しくも輝けなかった「たられば選手」赤川克紀”. BASEBALL KING (2015年11月17日). 2022年1月4日閲覧。
  13. ^ ヤクルトの四兄弟が7年ぶりに集結”. サンスポ (2021-02-03). 2022年1月4日閲覧。


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