褚遂良
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経歴
褚亮の子として生まれた。杭州銭唐県の出身。本貫は河南郡陽翟県。大業13年(617年)、薛挙が自立すると、その下で通事舎人をつとめた。武徳元年(618年)、父とともに唐に降り、秦王府(太宗即位前の幕府)の鎧曹参軍(武器の管理役)となった。貞観10年(636年)、秘書郎から起居郎となり、また虞世南が死去したことで魏徴の推薦により書道顧問となった。
貞観18年(644年)、諫議大夫から黄門侍郎へと進み、太宗に深く信頼された。太宗の後継問題に際しては李治(後の高宗)を推薦して、皇太子となった李治の傅役を任された。貞観23年(649年)、太宗が崩御するに際しては高宗を補弼するよう遺詔を賜り、どのような事があっても死刑は免ずると言う権利を得た。高宗即位後、高宗の信頼も受けて中書令から尚書右僕射へと累進し、長孫無忌・李勣・于志寧と共に重鎮となっていた。しかし、永徽6年(655年)に高宗が武照(武則天)を皇后に立てることを建議し、褚遂良は強硬に反対したが、武則天と高宗により押し切られた。このことにより武則天の恨みを買い、死刑に処されかけたが、遺詔により死刑は免ぜられた。その代わりとして潭州都督、桂州都督と左遷され、最終的に愛州(現在のベトナム中部、タインホア省)にまで流され、そこで死去した。
子に褚彦甫・褚彦沖がいたが、ともに愛州に流されて殺害された。神龍元年(705年)に褚遂良の一家は名誉回復されて、爵位を戻された。
書風(「褚法」)
六朝期から発展しつつあった楷書を高度に完成させた南派の虞世南・北派の欧陽詢の書風の特徴を吸収・融合しながら、それを乗り越えて独自の書風(「褚法」)を確立した。特に晩年の『雁塔聖教序』は楷書における最高傑作の一つとされ、後の痩金体につながるなど後世に多大な影響を与えた。一般に力強さが特徴的な北派に属するといわれるが、結体は扁平で安定感のある南派の性質を併せ持っており、従来からの帰属論争はあまり重要性を持たないように思われる。また王羲之の真書鑑定職務についており、その書をよく学んだと思われる。40代における『伊闕仏龕碑』や『孟法師碑』には隷書の運筆法が見られ、そして線は細いながらも勁嶮・剛強と評される一方で、50代における『房玄齢碑』や『雁塔聖教序』では躍動的で流麗な作風に一変した。
遂良の書は結体閑雅で悠揚迫らず、変化の多様と情趣の豊かな点では初唐の三大家の中でも最も優れている[1]。
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