聖エウフェミア 聖エウフェミアの概要

聖エウフェミア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/10 01:27 UTC 版)

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聖エウフェミア
(聖大致命女エウフィミヤ)
聖エウフェミア - Santa Eufemia
フランシスコ・デ・スルバラン
生誕 カルケドン
死没 303年
カルケドン
崇敬する教派 カトリック教会
非カルケドン派
正教会
聖公会
ルーテル教会
主要聖地 聖ゲオルギオス大聖堂
ロヴィニ、聖エウフェミア聖堂
記念日 9月16日
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歴史的背景

エウフェミアの名前と没年は5世紀にヒエローニュムス殉教録[注 3]において言及されている。 303年はディオクレティアヌス統治下のローマ帝国による最後の大迫害の最初の年であった。

Fasti vindobonenses[注 4]においては10月16日に殉教したとされている。 この他にエウフェミアについて検証可能な歴史的文書は存在していない[4]

エウフェミアの名と聖人伝はヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説[注 5]に記されることにより有名となった[4]

聖人伝

聖エウフェミアの殉教
聖エウフェミア, (アンドレア・マンテーニャ, テンペラ画, 1454年)

エウフェミアはカルケドンで、元老院議員であったフィロフロノスとその妻であるテオドージアの間に生まれたとされる。 伝承によると、カルケドンの知事であったプリスコスは市民全員に非キリスト教の祭りに参加しアレースに供物を捧げるよう命令を出した。 エウフェミアは知事の命令を無視し、隠れてキリスト教の神に祈りを捧げているところを、49人のキリスト教徒と共に発見されて捕まった。 彼らは19日間に渡り拷問されたが、誰も信仰を捨てなかった。 プリスコスは彼らの中で一番若かったエウフェミアを仲間から引き離し、拷問により信仰を放棄させようとした。 エウフェミアは鋭いナイフと共に車輪に縛り付けられたが、彼女が主に祈ると車輪は止まり、天使が現れ傷を癒した。 火の中に放り込まれても、ナイフでいっぱいの穴の上を歩いても彼女に傷はつかなかった。 エウフェミアは猛獣により殺される刑を宣告され、彼女を殺すための猛獣[注 6]が待つ闘技場へ入れられた。 処刑の前にエウフェミアは自らの苦難と殉教を神に祈った。ライオンは彼女を殺すことはなく、ただ彼女の傷を舐めるだけであった。 最後に野生の熊から足に小さな傷を与えられ[3]、彼女は死んだとされている[注 7]。 4世紀末にカルケドンのエウフェミアの墓の上にバシリカが建設された。451年のカルケドン公会議はこの聖堂で開催された[1]

カルケドン公会議でおきた奇跡

コンスタンティノープルのシナクサリオン(Synaxarion)[注 8]によると次のように伝えられている。

451年にカルケドン公会議が開催された際、合性論派(のちの非カルケドン派正教会)と両性論派(カルケドン派・のちのギリシャ正教正教会などの母体)が議論したが決定的な合意には至らなかった。合性論派と両性論派がそれぞれの信仰告白を書いた巻物を、棺の中に眠る聖エウフェミアの胸の上に置いて蓋を閉めた。3日後に再び蓋を開けたところ、両性論派の巻物が右手にあり、合性論派の巻物は足元にあった[4]


注釈

  1. ^ 聖伝中では280年頃ともあるが、303年に死刑宣告された記録が残っている[2]
  2. ^ ライオンがエウフェミアを殺さなかった為に刑吏に剣で刺され殉教したとも。刺した刑吏はライオンによって喰い殺された[3]
  3. ^ 現存している最古のキリスト教殉教者のリストとされる。
  4. ^ 4世紀から6世紀にかけての典礼文書集。
  5. ^ 日本語訳版では『黄金伝説3』などに収録されている。
  6. ^ 3頭の野獣とも[5]
  7. ^ 聖人伝はAntiochian Orthodox Christian Archdioceseを底本とした。
  8. ^ 東方教会や正教会による聖人録。
  9. ^ 原文は次の通り。"The old marble sarcophagus contains the body of the martyred Saint. At first it was kept safe in Calcedonia, then in Constantinople, until the year 800. But then the governing power became the iconoclasts, and there was danger that the mortal remains of the Saint could be dishonoured. The pious legend says that the sarcophagus disappeared from Constantinople and reached the shore of Rovinj 13.7.800. From that time it has been safeguarded in this place."(抜粋)[6]

出典

  1. ^ a b 『黄金伝説』, p 470-475, 「一三二 聖女エウペミア」
  2. ^ 『黄金伝説』, p 474
  3. ^ a b 『黄金伝説』, p 473-474
  4. ^ a b c Religions of Late Antiquity, p 464
  5. ^ 『黄金伝説』, p 473
  6. ^ Plaque, Church of St.Euphemia, Rovinj


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