神宮寺山古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 23:51 UTC 版)
概要
岡山県南部、岡山市街地中心部からやや北方の、旭川西岸の沖積平野に築造された大型前方後円墳である[1]。古くは江戸時代の文献にも記事が散見される[1]。現在は後円部墳頂に式内社の天計神社(あまはかりじんじゃ、旧村社)が鎮座するが、これは岡山城主の小早川秀秋により北方村から移されたものといい、かつては別当坊の妙法山神宮寺も存在した(寛文年間(1661-1672年)に廃寺)[1]。これらの造営に加えて、前方部は墓地化し、周囲も開発が進んでおり、現在までに墳丘は大きく改変されている[1]。
墳形は前方後円形で、前方部を西方向に向ける。墳丘は後円部で3段築成、前方部で2段築成で、大部分が盛土による[2][3]。墳丘表面では葺石・円筒埴輪が検出されているほか、墳丘北側では造出の存在可能性がある[1]。周溝の有無は定かでない[1]。埋葬施設は、後円部墳頂に位置する竪穴式石室で、そばには副葬品埋葬用の小竪穴式石室(副室)も存在するほか、前方部にも別の埋葬施設の存在も推測される[1]。
この神宮寺山古墳は、出土埴輪から古墳時代前期後半-中期初頭の4世紀後半-5世紀初頭頃の築造と推定される[1][3]。吉備地方の古墳の多くは丘陵地に築造されるが、大型前方後円墳としては珍しく沖積地(古墳築造の不適地)に築造された点で注目される古墳になる[1]。被葬者としては、『日本書紀』応神天皇22年条に見える「三野県」を当地(御野)と見て、その三野県に封じられたという弟彦(吉備弟彦、三野臣祖)に比定する説がある[1]。なお旭川流域では、古墳時代前期には大型古墳として神宮寺山古墳のほか金蔵山古墳(岡山市中区沢田、165メートル)・湊茶臼山古墳(岡山市中区湊、125メートル)が築造されたが、中期には大型古墳の築造はなくなり、代わって中期の営造地は足守川流域(造山古墳など)に集約される[2]。
古墳域は、1959年(昭和34年)に国の史跡に指定されている[4]。
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