神宮寺山古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/12 23:51 UTC 版)
遺跡歴
- 近世、小早川秀秋が八幡宮(現在の天計神社)を当地に遷座[5]。
- 江戸時代、土肥経平の『寸簸之塵(きびのちり)』や松本亮の『東備郡村誌』に記述[1]。
- 1959年(昭和34年)5月13日、国の史跡に指定[4]。
- 1961年(昭和36年)、小竪穴式石室の乱掘[1]。
- 1983年(昭和58年)、小学校の汚水処理槽設置等に伴う試掘調査(岡山市教育委員会、2007年に報告書刊行)[1]。
墳丘
- 墳丘長:約150メートル(推定155メートル:1983年調査)
- 後円部 - 3段築成。
- 直径:約70メートル
- 高さ:約13メートル
- 前方部 - 2段築成。
- 長さ:約75メートル
- 高さ:約7メートル
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前方部から後円部を望む
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後円部から前方部を望む
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後円部の墳丘
手前に天計神社鳥居。
埋葬施設
埋葬施設は竪穴式石室で、後円部墳頂の天計神社の拝殿床下にその蓋石が露出する(石室の詳細は不明)[1][6][7]。後円部では、その石室の東側に副葬品埋葬用の小竪穴式石室(副室)も認められている。この副室は長軸を墳丘主軸と平行し、長さ1.50メートル・幅0.50-0.60メートル・高さ約0.90メートルを測り、石室床面は砂利敷とする[1]。副室の方は1961年(昭和36年)に乱掘されており、残存副葬品として鉄製武具類(剣・刀)、鉄製農工具類(鎌・斧・鑿・錐・鋸)など100点以上が出土している[1]。
また前方部においても、かつて刀・甲冑・槍・鉾の破片が出土したと伝えられることから、別の埋葬施設の存在が推測される[6]。
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竪穴式石室蓋石
文化財
国の史跡
- 神宮寺山古墳 - 1959年(昭和34年)5月13日指定[4]。
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