益田元祥
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脚注
参考文献
- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。
- 『新編 物語藩史』 第9巻、児玉幸多・北島正元監修、新人物往来社、1976年。
- 益田市 編『益田市誌』 上巻、益田市、1975年。
- 脇正典「萩藩成立期における両川体制について」 藤野保先生還暦記念会編『近世日本の政治と外交』雄山閣、1993年。
- 『近世防長諸家系図綜覧』マツノ書店
関連項目
注釈
- ^ 家康は長門に次男の景祥を留め、元祥に石見に残り仕官するよう説得した。しかし、元祥は輝元に尽くすことを明言、勧誘を拒絶した。
- ^ 正則の他にも旧毛利氏領国に入部した出雲・伯耆・石見・備中の堀尾忠氏・中村一忠や家康の代官から租米返済要求が出され、総額15万石に上ったといわれる。輝元はあまりの事態に元祥を通して黒田孝高と相談、領国返上も考えたが、返済責任が付いて回るだけと孝高に説得されて撤回、慶長7年に全て返済した[6]。
- ^ 改替は家臣団のうち、特に重用された一族および重臣八家の一門衆が対象となり、主に毛利一族が山口に近い場所に移され、反対に福原元俊・宍戸元続が地方に移住させられたことは秀元の意向があったとされる。また、慶長12年と寛永2年の検地には収入に差があり、家臣団に配分される知行高は変更されていないため、差額分は直轄領として組み込まれた[7]。
出典
- ^ 益田元祥. コトバンクより2023年2月5日閲覧。
- ^ a b c d e f 今井尭ほか編 1984, p. 346.
- ^ 益田氏城館跡「三宅御土居」 - 益田市
- ^ 益田市 1975, p. 684-692.
- ^ 宮本義己「武家女性の資産相続―毛利氏領国の場合―」『國學院雑誌』76巻7号、1975年。
- ^ 児玉 & 北島 1976, pp. 349–350.
- ^ 児玉 & 北島 1976, pp. 355–358.
- ^ 児玉 & 北島 1976, pp. 359–360.
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』近藤出版社、1975年、特旨贈位年表 p.41。
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