白バス
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この計画で総計1万5,345名の収容者が収容所の致命的な危機から助け出されたと言われ、そのうち7,795名がスカンディナヴィア諸国民で7,550名が非スカンディナヴィア人(ポーランド、フランス等々)であった[1]。
元々「白バス」という用語は、軍用車輌と見誤られないように白く塗装され赤十字をつけたバスから由来している。
この計画に喚起されノルウェー白バス財団(the Norwegian White Buses Foundation)では、実際の目撃者や生存者たちと共にザクセンハウゼンやその他の強制収容所を見学する学生の修学旅行を運営している。
ドイツ国内のスカンジナビア人収容者
デンマークとノルウェーは1940年4月9日にナチス・ドイツにより侵略された。すぐさま多数のノルウェー人が逮捕され、2カ月後には占領軍が最初の収容所をベルゲン郊外のウルヴェン(Ulven)に設立した。
ナチス当局とノルウェーのレジスタンス(resistance)との間の緊張が高まると次第により多くのノルウェー人が逮捕され、最初はノルウェー国内の刑務所や収容所に拘留されたが逮捕者が増えるに連れドイツの収容所に移送された。1940年8月29日に最初のノルウェー人がザクセンハウゼン強制収容所に到着したが、釈放され1940年12月には家に送還された。1941年春にノルウェーからの定期移送が開始された[2]。
デンマークでの逮捕は、1943年8月29日に連立政府が辞職すると共に始まった。
ドイツ国内のスカンジナビア人収容者は、個人としての生活とある程度の自由が認められた所謂抑留民間人から死ぬまで労働を強いられる運命にある「夜と霧」の囚人まで様々に分類されていた。スカンジナビア人収容者の数が増えると、彼らを援助する様々なグループが組織された。在ハンブルクのノルウェー船員の司祭のアルネ・ベルゲ(Arne Berge)とコンラート・フォクト=スヴェンソン(Conrad Vogt-Svendsen)は、収容者を見舞い食べ物を差し入れ、ノルウェーやデンマークに居る彼らの家族へ手紙を届けた。フォクト=スヴェンソンは「グロス・クロイツ」("Gross Kreutz")の抑留民間人のノルウェー人一家のヨルト(Hjort)やサイプ(Seip)とも連絡を取った。他のスカンジナビア人達と共にグロス・クロイツのグループは、収容者とその所在地の膨大なリストを作成し、その後そのリストはベルリンのスウェーデン大使館経由でロンドンのノルウェー亡命政府へ届けられた。ストックホルムではノルウェーの外交官ニールス・クリスティアン・ディトレフ(Niels Christian Ditleff)がスカンジナビア人の運命に濃密に関わっていた。1944年末の時点でドイツ国内には約8,000名のノルウェー人収容者とそれに加えて1,125名のノルウェー兵戦争捕虜がいた。
デンマーク側ではカール・ハンメリク(Carl Hammerich)提督がドイツの収容所からデンマーク人とノルウェー人を救い出す「ユランズ軍団」(Jyllandskorps)というコードネームを与えられた秘密の遠征計画に長い期間携わっていた。ハンメリクはノルウェー船員の司祭、グロス・クロイツのグループとストックホルムのニールス・クリスティアン・ディトレフの何れとも良好な関係を築いていた。1945年初めの時点でドイツには約6,000名のデンマーク人収容者がいた。1944年中にデンマーク人達は収容者達がデンマークに無事たどり着いた場合に備えて、収容者の登録、輸送手段の手配、食料品や避難所の用意、収容者のための検疫といった広範囲な計画を練っていた。ハンメリクは、1944年2月、4月と7月にストックホルムを訪問しディトレフと計画について討議した。
避難か「残置」か?
1944年終わりに連合国軍がドイツ本土に接近すると、連合国遠征軍総司令部(SHAEF)は連合国側の収容者に関する措置を決めた。ノルウェー亡命政府のヨハン・コレン・クリスティ(Johan Koren Christie)少佐の9月23日付のメモでは、ノルウェー人収容者は「残置」し、進軍してくる連合国軍による開放を待つべきと記されていた。グロス・クロイツのグループは1カ月後にこの方針を知るとヨハン・ベルンハルト・ヨルト(Johan Bernhard Hjort)がこの提案とは相反する内容の報告書を書いた。ヨルトの異議というのは、収容者は殺される危機にありドイツが占領される前に救出されなければならないというものであった。
- '"それ故にスウェーデン政府を説得して少なくとも刑務所に収容されている者も含めたドイツ国内にいるノルウェー人とデンマーク人収容者をスウェーデンに移送するための仲介をして、できれば戦争が終わるまで収容者をスウェーデンに逗留させることの可能性をノルウェー政府が考慮することを強く提案する。"
1944年10月のヨルトから提出された報告書がスウェーデンによるスカンディナヴィア人収容者の救出活動について初めて言及したものであったが、当初は好意的には受け取られなかった。収容者の救出活動はノルウェーの担当事項として認識されており、ノルウェー亡命政府は戦争末期になりスウェーデンが成果を出すと渋々その機会を与えた。
ストックホルム駐在の精力的な外交官ニールス・クリスティアン・ディトレフは、ロンドンのノルウェー亡命政府から出された実施要綱の受け取りを拒否してスウェーデンの有力者個人とスウェーデン外務省の双方にスウェーデンがスカンディナヴィア人収容者の救出を実施するように働きかけた。1944年9月にディトレフがフォルケ・ベルナドッテ伯に打診すると、ベルナドッテは計画について即座に了承した。11月30日にディトレフは「収容者救出のためのスウェーデンによる活動の必要性」と題したメモランダムをスウェーデン外務省に手交したが、これはまだディトレフの独断によるものであった。12月29日にノルウェー亡命政府はそれまでの立場を変え、ストックホルムの大使館にスカンディナヴィア人収容者を対象としたスウェーデンによる救出活動の可能性を協議するように指示を出した。
ディトレフがノルウェー亡命政府を説得する一方でデンマーク側は収容者を取り戻すためのドイツ側の許可を取り付けた。デンマークへ戻ってきた第1陣はブーヘンヴァルト強制収容所からのデンマーク人警察官で、輸送は12月5日に開始された。1945年2月末までに341名の収容者が輸送され、そのほとんどは疾病していた。この輸送によりデンマークは、後に「白バス」で活かされる有益な経験を得ることができた。
- ^ “Specifikation över antal räddade/transporterade med de Vita bussarna ("Specification of the number of rescued/transported by the White Buses” (Swedish). Swedish Red Cross. 2008年7月15日閲覧。
- ^ Ottosen, Kristin (1995) [1990] (Norwegian). Liv og død - Historien om Sachsenhausen-fangene (2nd ed.). Oslo: Aschehoug. ISBN 82-03-16484-6
- ^ Report from the Swedish Red Cross of number of prisoners rescued by the "white buses" (PDF)
- ^ Readers letter in the Norwegian newspaper Aftenposten by Bjørn Egge, Wanda Heger (civil interned), Odd Kjus, Kristian Ottosen and Stig Vanberg (Norwegian)
- ^ Article in the Norwegian newspaper Aftenposten by Bernt H. Bull (Norwegian)
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