氷貿易 供給

氷貿易

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 20:40 UTC 版)

供給

天然氷は湖や川から収穫の後、輸送を経て各地で保存され、ようやく家庭や施設などで使用される。この過程における根本的な問題が、氷は溶けるものだという事である。業者にとって溶けた氷はごみに等しく、遺失利益にほかならない。1820年代から30年代には、収穫した氷の実に10パーセントしか消費者に販売できず、残りは販路の途中で目減りしてしまっていた[152]。19世紀の終わり頃には、氷貿易における消失量は大幅に減少したが、企業の効率によって20パーセントから50パーセントまでの幅があった[153]

収穫

ペンシルベニア州ポコノスで氷を収穫する様子(1919年)

氷貿易は冬の間に湖や川から氷を収穫して、夏にそなえて保存することから始まる。水は、温度が5 ℃まで下がり、周囲の空気が0℃以下になると凍りはじめる[12]。アメリカ北部では、人や馬が乗っても割れず、一定の大きさのブロックに切り出すことができる氷の厚さは少なくとも18インチ(50センチメートル弱)程度とされた[154]。ニューイングランドでは、1月から3月にかけて湖や川の氷が十分な厚さにまで育ち、ノルウェーでは12月から2月にかけて収穫を行った[155]。天然の氷は質も一定ではない。食卓で最も喜ばれるのは、硬く透明なクリスタル状の氷で、穴があいていたり白っぽい氷は価値が低く、産業用にまわされる[156]。十分な厚みをもった氷は、水の表面積1エーカーあたり1,000ショートトン前後が収穫可能である[157]

自然にできた氷だけでは不十分な場合、収穫量を増やすために様々な対策が施された。ニューイングランドでは、川や湖の氷の表面に穴を開け、厚みを増す方法がとられた[12]。あるいは人工的な湖をつくってしまう場合もあった。その場合に肝心であるダムによって水をせき止める方法について、手引きが出版されるほどであった[158]。19世紀末にかけた需要の拡大にあわせて、メイン州では低いところにある沼地で水をせきとめて、あふれさせ、いくつもの湖が生まれた。ウィスコンシン州における既存の水車用貯水池などは氷の収穫場所としては最良であった[159]。アラスカ州では、広さおよそ40エーカーにもおよぶ巨大で浅い湖がつくられ、氷の生産と収穫の量が引き上げられた。同じようなやり方はアリューシャン列島でも使われた。ノルウェーではさらに徹底していて、供給量を増やすために農地に幅800メートル(0.5マイル)にもなるような湖が大量につくられ、中には氷をつくるための新鮮な水を引きいれるために海に面してつくられた湖もあった[160]

19世紀末に使われていた氷収穫用の道具一そろい。左上から時計回りに、のみ・たがね、のこぎり、手斧、鉤・アンカー、かなてこ、はさみ道具

氷の切り出しにはさまざまな工程があったが、たいてい氷が最も厚くなる夜に行われた[154]。まず表面をこすって雪を落とす。それから氷の厚さが適切か確かめ、表面に刃物でブロックとして切り出す線を刻んでしるしをつける[161]。ブロックの大きさは氷の仕向け先によって異なり。遠いところに送るのであれば大きく、アメリカ東海岸の中で消費するのであればごく小さく、後者の場合であればたったの0.56メートル(22インチ)角のブロックで切り出された[154]。その後に氷は水面に浮かべて岸まで流された[154]。温度によっては氷が溶けてしまうため、作業スピードは天候次第であった[162]。ニューイングランドでもノルウェーでも、この時期は氷の収穫がなければ閑散期であり、地方には貴重な雇用を生み出した[163]

作業の過程ではさまざまな道具や装備が必要になる。氷上で作業する労働者や馬の安全を守るコルク製の靴やスパイクのついた馬蹄などはその例である[154]。19世紀のはじめ頃に作業で使われたその他の道具は、間に合わせの工夫が施されたつるはしやのみなどだけであったが、1820年代後半には、ナサニエル・ワイエスが大規模な商業的収穫に適したさまざまな道具を新たに考案した[164]。例えば刃を2枚平行に並べた、プラウのような馬に引かせる切氷機によって素早くかつ均一に切り出し線を引いたり、後になるとさらに省人化が進み、手びきのこに代わってプラウの刃で直接切り出しを行うようになった[165]。1850年代には専門的な道具のカタログまで生まれ、東海岸ではよく売れた[166]。19世紀の大部分を通して、いわゆる丸のこを導入する価値について議論が行われていたが、馬の力で動かすことは現実的ではないと分かり、ガソリン・エンジンが利用可能になる20世紀初頭まで氷の収穫に丸のこは導入されなかった[142]

暖冬は氷の収穫にとっては致命的で、氷がまったくできなかったり、小さなブロックだけがとれる量だったり安全に作業できないような薄い氷になってしまう[167]。こういう冬のことを北アメリカでは「凍らない冬」(オープン・ウィンター)と呼んだが、この冬が来るといわゆる氷飢饉ともいわれた氷の欠乏が起こった[167]。アメリカで氷飢饉が起こった年は1880年と1890年が有名で、ノルウェーでも1898年は温暖な冬だったために、イギリスは新たな氷の輸入元をフィンランドに求めなければならなかった[168]。時代を通じて、氷飢饉のたびに製氷機による氷の生産への投資が進み、究極には氷貿易そのものの土台を崩してしまった[137]

法制度

フレッシュ湖から氷を収穫する権利を確定させたサイモン・グリーンリーフによる地図(1841年、マサチューセッツ州毛ブリッジ)

アメリカにおける氷貿易の黎明期には、氷を収穫することに対してほとんど規制が存在しなかった。氷にはたいした価値がないと思われていた時代が長く、また自由財とみなされていたからである[169]。しかし貿易の規模が大きくなると、氷の価値は高まり、氷を切り出す権利もまた重要になった。法的には、船で航行が可能な水路とごく小さな川や湖のような「公共の」水辺に対しては規則が異なった。前者については、最初に権利を主張した者に氷を収穫する権利が与えられたが、後者では隣接する土地の所有者が氷についても所有権を持つものと考えられていた[170]

しかし湖には複数の所有権者がいることも多く、フレッシュ湖をめぐる争いが起こったときには、法律家であったサイモン・グリーンリーフが1841年にその法的知見による解決を命じられた。そこでグリーンリーフは、氷を収穫する権利は各人が所有する土地が湖に接する距離の比率によって分割されることとした。それ以降、氷を収穫する権利は売買が可能になり、フレッシュ湖などに隣接する土地の価値は急上昇した。1820年代に1エーカーの土地を130ドル(2010年の2,500ドル)で購入した地主が、1850年代には2,000ドル(44,000ドル)を積まれても断ったほどである[171]

この裁定は将来的な争いの芽を完全に摘むものではなかった。川にできた氷は下流に流されるものであり、結局は氷が移動した土地でその所有権が争われた[157]。州によっては他者が所有する原形のままの氷を傷つけるのを禁止する法律が定められたが、それでも所有権の争いが始末の負えない事態に至る場合もあった[172]。例えば1900年から1901年の冬には、パイク&ノースレイク・カンパニーとライバル会社であるウィスコンシンレイク・アイス&カーティジ・カンパニーの従業員が氷の収穫権をめぐって争い、しまいには前者が砕氷船を繰り出して後者の収穫地を破壊して荒らす騒動に発展した[173]

輸送

天然氷は、ふつう収穫してからエンドユーザーが消費するまでに何度も移動を繰り返した。その手段はさまざまで、帆船や平船、鉄道、ワゴンなどが使われた[174]。帆船は特に初期の氷貿易において重要な輸送手段であり、アメリカから世界中に輸出するときだけでなく、アメリカ国内にまだ鉄道網が存在しない時代には重宝された[175]

スロープを使ってスクーナーに氷を積み込む場面(ノルウェー、19世紀後半)

氷業者は氷を積荷として出荷するときには船を賃借りしたものだが、フレデリック・チューダーははじめ自前の船を1艘購入し、その後の1877年にチューダー・カンパニーは3艘の高速な貨物船を買いそろえた[176][注釈 5]。18世紀の終わりごろに氷は初めて船で出荷されたが、積荷というよりバラスト代わりであることもあった[17]。しかしバラストとして氷を運搬するためには、氷が溶けて位置が不安定にならないために正確に切り出す必要があり、1825年にワイエスが切氷器具を発明するまではなかなか容易なことではなかった[177]。ワイエスのやり方でできる均一な氷のブロックであれば、限られた船の容積に対して多くの量を積み込めるし、溶けにくくロスも減らすことができた。ふつう氷はおがくずと一緒に隙間なく積み込まれ、空気がはいって温度が上がらないように船倉は閉じきりにされた[178]。そのほかにも、氷を保護するためにわらやマツの木材が荷敷きに使われた[179]。おがくずは断熱材として大量に必要であり、ニューイングランドでは1830年代に製材業も同時に発展した。当時おがくずはほかに使い道がなく、むしろそれが問題になっていたが、氷貿易で使えることがわかり地元の製材業は大いに助けられた[180]

氷を運ぶバージ〔平船〕(ニューヨーク市、20世紀前半)

氷を運ぶ船はとりわけ頑丈でなければならず、氷が溶ける前に積荷を所定の位置に運べる優秀な人材を集めるため、作業員は厚遇された[181]。船体の素材には、溶けた氷で錆が発生しないよう木が好んで使用され、19世紀の終わりには船底に溜まった水をくみ出す風車式の動力を備えたビルジポンプが据え付けられた[84]。氷は常に溶け出すため、水と蒸気が発生して乾燥腐敗が起こり、氷を積荷とする船の寿命は短くなる傾向にあった[182]。積荷の量は一定でなく、港と航路によってさまざまだった。19世紀後半のアメリカでよく使われたのはスクーナーで、約600ショートトンの氷を運ぶことができた。ノルウェーからイギリスに渡る船には、大きいものでは900ショートトンもの氷を運べるものもあった[183]

船に積み込んだ氷の量を把握することは、商売のうえでも安全のために重要であったので、氷のブロックは船に載せられる前に一つ一つ目方が量られて、最終的な総重量が記録された[184]。ばらばらの氷を船に下ろして積むために、はじめは氷はさみや引き上げ滑車による原始的な方法がとられていたが、1870年代には梃子を利用したプラットフォームや、1890年代にはカウンターウエイトを利用したプラットフォームが台頭するなど技術革新が進んだ[184]。船への積み込みは氷が溶けるのをふせぐため手早く行われた。アメリカの港では、平均的な貨物量であればぴったり2日で積み込むことができた[184]。輸送費は積み込み時の積荷重量(出発重量)で決められ、航海中の氷の扱い方の条件が定められた[184]

ハドソン川流域が特にそうだが、運搬だけでなく保管もできる、平船もよく使われた[185]。こうした船は400トンから800トンの氷を運ぶことができ、帆船のように、ビルジポンプの動力として風車がついていた[186]。平船は、甲板の下に氷を貯蔵するため川が断熱材の効果を持ち、氷が溶けにくいと考えられていた[187]。チャーリー・モースは1890年代に氷をニューヨークに供給するためにより大型で、海も航行できる平船を導入した。牽引はスクーナーが行い、1艘あたり3,000トンの氷を運ぶことができた[188]

19世紀のほぼ全期間、ニューイングランドなどの主要な氷の生産地からは非常に安価に輸送が可能であり、それがこの産業の発達を促した[189]。これらの地域はアメリカ内陸部への貿易の玄関としての役割を担っており、すなわち、交易船が多くの貨物を輸送してくる一方で、帰路のために積み込む貨物は乏しかった。貨物が見つからなければ、船はバラスト代わりに岩塊を運ぶほかなかった[189]。氷は、岩を積まずに利益を生むただ一つの積荷だったため、ニューイングランドから出航する氷の積荷は、他のどの土地から出る場合よりも輸送費を安くするよう交渉できた[189]。19世紀の末には、メイン州とニューヨーク州間の氷貿易に都合の良いことに、メイン州でフィラデルフィアの石炭に対する需要が急増した。メイン州の氷を運ぶ船は、帰りには燃料を積んでくることができたため、「氷と石炭」産業とまで呼ばれる活況を呈した[190]

家庭や店舗に氷を配達するために設計されたアークティック社のアイス・ワゴン(1884年)

1841年以降は鉄道による輸送も行われた。氷輸送に使われた記録が残る初めての鉄道路線は、チャールズ・ブランチ鉄道によってフレッシュ湖とチャールストン間に敷かれた[191]。断熱性を高めるために特別な車両が製造され、氷を積み込みやすくするために専用の設備も設計された[192]。1842年にはフィッチバーグまで新しい鉄道が敷設され、ウォールデン池の氷を運ぶために利用された[57]。氷は溶けないように急いで移動させる必要があったので、鉄道会社の従業員にとっては人気のない積荷で、一般に輸送には注意を要した[193]。1880年代には鉄道を利用して北アメリカ大陸を縦横に氷が出荷された[194]

産地から一般家庭や小規模な事業者までのサプライチェーンのうち最後を担ったのが、いわゆるアイス・ワゴンを用いた氷の宅配である。アメリカでは、氷は25ポンド、50ポンド、100ポンド単位(それぞれ11、23、45キログラム)に切り分けられ、アイス・ワゴンが馬にひかれて各家庭に氷を配達した[195]。この荷馬車に乗っていたアイスマンは、キューブ状の氷をトングでつかんで扱った[196]。配達は1日に1回から2回行われた[197]。1870年代には、大きな町であれば様々な専門の配達業者が存在し、それより小規模な自治体であれば燃料店などの事業者が氷の販売と配達を担った[198]。イギリスでは、19世紀の間には氷が各家庭まで専門業者によって配達されることはまれであった。そのかわり魚屋、肉屋、薬種屋など、まず自分たちの商品を冷やす必要がある店を通じて氷が販売された[156]

貯蔵

氷は、収穫されてから最終的に消費されるまで、その過程のさまざまな段階で貯蔵が行われる。そのための1つの方法が、貯氷庫(アイスハウス)である。とくに、最初に収穫した直後や船から積み荷として降ろされた後の物流拠点には必ず倉庫があって氷が貯蔵された。初期の貯氷庫は比較的小さかったが、時代が下ると貯蔵施設として巨大化していき、はるかに多くの量の氷を置けるようになっていった[199]

事業用の巨大な貯氷施設(アメリカ、20世紀初頭)

19世紀初頭の時点では、熱力学への理解はとぼしく、氷を上手に貯蔵するためには貯氷庫を地下につくることが大切だと考えられていた。これは誤りなのだが、地下であれば常に涼しく、氷が溶けにくいと思われていた[200]。ヨーロッパの貯氷庫もこの理論を踏襲し、収穫した氷を貯蔵するために、時としてたいへんな費用をかけて地下に空洞をつくっていた[201]。一方で、ヴァージニア州の農民の間では、木と断熱材のわらだけを使い、地上より高いところに貯氷庫がつくられることもあった。これは工夫がこらされ、費用もかなり安かった[202]。氷の貯蔵には、氷そのものの温度に気をつかうだけでなく、溶けた水を効率よく排出することが必要である。氷から溶け出た水は、温かい空気以上にもとの氷を溶かしてしまうものだからである[203]

チューダーは1805年にさまざまな貯氷庫を調査し、地上に建てても構わないという結論に至った[200]。彼が最初のころにキューバにつくった貯氷庫は木製の二重壁を備え、ピートとおがくずで断熱しており、通気の仕組みも備えていた。19世紀末まで、これが基本的な貯氷庫の構造になった[12]。しかし1819年には200トン以上の氷を貯蔵できるように煉瓦づくりの貯氷庫も完成させている。このときは断熱材として壁の中に木炭が使われていた[199]。1840年代にはフレッシュ湖近辺の倉庫は〔総面積が〕3,300平方メートルになるほど大きくなっており、新たに敷かれた鉄道からの出火がもとで火災になるリスクをさけるため煉瓦でつくられていた[192]。しかし貯氷庫は極端なまでに燃えやすいことには変わらず、幾多の火事を起こしていた。シドニーで最初の貯氷庫も1862年の火事により完全な廃墟になってしまった[204]

ダリウス・エディーの冷蔵庫。天然氷を置く仕切りがついている(1881年)

貯氷庫が巨大化したことで、氷を運び込むことは逆に困難になった。1827年にワイエスはてこと滑車を用い、馬に引かせて倉庫の屋根から氷を運び込む仕組みを導入した[205]。後には技術が進み、リフトと馬の力で建物の一番上まで氷のブロックを持ち上げて運び込む仕組みが生まれた。その後、馬ではなく蒸気機関を動力とする仕組みも登場した。とくに大規模な倉庫であれば、氷を運び込むのにベルトコンベアシステムまで取り入れるところがあった[206]。そのための動力となる設備は貯氷庫のそばにつくられたため、機械から出火して倉庫が燃えないように気を遣う必要があった[207]。これらの倉庫は夏の日の光を反射するために白か黄色で塗られることが多かった[208]。ハドソン川の倉庫はたいてい三階建てで大きさは長さ120メートル、奥行30メートル程度にもなり、50,000ショートトンもの氷を貯蔵することができた[209]。後代の鉄道に直結した貯氷庫は単体で250,000ショートトンもの氷を備蓄できた[210]

それとは対照的に、ノルウェーにおける氷産業はもともと貯氷庫とは無縁であった。冬から春になるまで湖から収穫された氷はそのまま出荷された。しかし1850年代から1870年代には、無数の貯氷庫が建設され、通年氷を出荷することができるようになった[82]

貯氷庫は氷を消費する側の都市にもつくられた。最終的に小売りされたり消費されるまで輸入した氷を貯蔵するためで、デポ(貯蔵所)とも呼ばれた。ロンドンでは、初期の氷デポは円形であることが多く、「井戸」〔ウェール〕とか、「かさ」〔シェード〕と呼ばれていた。スミスフィールドのデポは1871年に建設されたもので、幅13メートル、奥行き22メートル、3,000ショートトン弱の氷を保管できた[81]。ロンドンのシャドウェルとキングズクロスにある後年の氷デポはさらに大きく、ロンドンに到着した平船とともに、ノルウェーの氷の保管に使われた[211]。ニューヨークという町はその意味で変わっていて、港の近くに倉庫はつくられなかった。代わりに平船が倉庫代わりにされ、時には帆船であっても氷が必要になるまでは水に浮かんだ倉庫のような扱われ方をしていた[212]

家庭や事業所において氷が消費されるためには、ふつうは貯氷庫から離れたところでしばらく保管しておくことが必要になる。そのため、貯蔵から消費までの間に、アイスボックス〔氷で冷やす冷蔵庫〕や家庭用の冷蔵庫という最後の大事なステップがある。それがなくては、氷を使うことも食用にすることもできない家庭がほとんどであった[213]。1816年にチューダーは「リトル・アイス・ハウス」という名前でボストン式の冷蔵庫をチャールストンの各家庭に発売している。この冷蔵庫は木でできていて、内側が鉄の箱になっており、3ポンド(1.4キログラム)の氷を入れられるような設計になっていた[214]。家庭用の冷蔵庫は東海岸では1840年代に製造がはじまった。最も有名なのはマサチューセッツのダリウス・エディー(D・エディー&サンズ)と、ボストンのウィンシップによるものだった。製品の多くは西部に出荷された[215]。天然氷が19世紀にどこまで地方の社会に浸透していたかは、このアイスボックスの利用度や認知度が大きく関係している[216]


注釈

  1. ^ 歴史上の値段や費用を比較することは簡単ではない。この記事では氷とおがくずの費用、収入に対する生活手段の歴史価格、資本や同様のプロジェクトに関する歴史的機会費用について、実質価格比較を使っている。数値は原典と同程度の精度に丸め、2010年現在の用語で表記している[1]
  2. ^ テューダーはコーヒーの先物取引に投資して巨大な損失を出して破産の危機に直面し、債務返済のために自身の取引を継続できるように彼の債権者を説得して、収入を生み出す新たな市場に取り組もうとし、インドとの氷貿易に向かうことになった[36]
  3. ^ 19世紀の小説家ウィリアム・サッカレーは、1856年の小説A Little Dinner at Timminsにおいて、ロンドンのディナーパーティーを独占するようになったつまらない一時的な流行であるとして、ウェナム・アイスを風刺的に用いている[51]
  4. ^ この契約は、クリミア戦争に際してアラスカがイギリスの手に落ちてしまうことを阻止しようとする試みに関連付けることもできる[65]
  5. ^ これら3隻は「アイス・キング」「アイスバーグ」「アイスランド」と名付けられた[176]

出典

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