橋本龍太郎 人物・来歴

橋本龍太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/20 15:00 UTC 版)

人物・来歴

初当選以来自由民主党に所属し、衆議院議員を14期にわたって務める。また第1次大平内閣厚生大臣に就任し、昭和2ケタ生まれで初めて入閣を果たしたのを皮切りに運輸大臣大蔵大臣等を歴任し、いわゆるニューリーダーの後を担う総裁候補と目されるようになった。

竹下派七奉行の一人であり、1990年代の日本の政界を代表する政治家である。ポマード頭と呼ばれた独特の髪型がトレードマーク。剣道教士六段の称号・段位を持つ。

1994年に発足した自社さ連立政権村山内閣では通商産業大臣を務め、自由民主党総裁就任に伴って副総理を兼務し、1996年村山富市首相退陣に伴い、内閣総理大臣に就任する。

在任中は住宅金融専門会社問題(住専問題、第136回国会)や行財政改革に取り組み、外交面ではアメリカのクリントン大統領・ロシアのエリツィン大統領と親交を深める。第18回参議院議員通常選挙での自民党惨敗を受け引責辞任した後も、同期当選の小渕恵三首相の下で外交特別顧問に就任し、その後も第2次森改造内閣行政改革担当大臣沖縄開発庁長官を、また中央省庁再編後には規制改革担当大臣沖縄及び北方対策担当大臣を歴任。

2001年自由民主党総裁選挙に再起を期して出馬するが、小泉純一郎に敗れる。2005年に政界を引退し、地盤を次男の橋本岳に譲る。翌2006年に死去。68歳没。

生涯

生い立ち

東京市渋谷区(現在の東京都渋谷区)に大蔵官僚橋本龍伍、春の長男として生まれた。母・春は警視総監朝鮮総督府政務総監などを歴任した大野緑一郎の長女。母・春は中耳炎をこじらせ、龍太郎の生後5か月後に急死した。父・龍伍には転勤がつきものだったため、武家(旧熊本藩士)の出である祖母の真都に育てられた[2]

学生時代

田園調布小学校に入る前、7歳の時に、継母・正を迎えた[3]

麻布中学受験の際、橋本の受験番号は“1073番”だったが一番違いの“1074番”に作家の安部譲二がいた。それが縁で仲良しになり、2人は中学3年間を通じて同じクラスだった[4]

中学入学時から学校の勉強には全くついていけず、常に圧倒的最下位だったので、政治家の息子なので誰もが裏口入学だと暗黙の了解事項として理解していた。[5]

麻布中学時代のニックネームは「サル」。[5]

中学時代殆ど0点ばかりだったにも関わらず麻布高校に進むと山岳部に所属した。高校時代は登山に明け暮れてそれほど勉強をしなかったため成績は中位くらいだったと言う記述も有る[6]。また、大学入学後にはもう一つの趣味であった剣道にも力を入れた[7]

1956年慶應義塾大学法学部政治学科に入学。慶應は足に障害を負っていた父・龍伍に門戸を開いてくれた大学でもあり、父にとっても龍太郎の慶應義塾合格は大きな喜びだったようで、「龍伍が慶應義塾を語るとき、その目は輝いていた」という[8]。大学時代の思い出となった講義では中村菊男明治大正政治家の逸話をあげている[9]

大学でも剣道に力を入れた。とにかく前に出て攻めていたので“突貫剣士”というニックネームをつけられていた[10]。なお目の下には傷跡が残っていたが、大学時代軽井沢の別荘に行った時にチンピラと殴り合ってナイフで切られた名残であるという[11]

大学卒業後、呉羽紡績株式会社(のち東洋紡に吸収合併。クレハは分社した化学部門)に入社した。

制服を好み、学生時代は常に詰襟学生服か剣道着で生活していたという。また、日本国有鉄道の民営化の際に運輸大臣を務めていたので国鉄の制服を着て式典に臨み、その時に着用した制服は後々も大事に保管されていた。

政治家の道へ

社会人3年目の1962年、父・龍伍が急死した。会社に出勤してから2時間後に父の訃報を聞いたという[12]

父の意中の後継者は弟・大二郎であり、龍太郎本人も政界に進むつもりはなかった。後に橋本は「親父は僕を政治家にするつもりはなかったし、僕も全くやる気はなかった。腕白坊主だったから」と述べている[13]。しかし、当時未成年であった大二郎は被選挙権を得ておらず、橋本の継母・正に出馬を求める声も挙がったが、父と親交の深かった佐藤栄作による指名を受け、龍太郎が亡父の後継者として選挙に出馬することになった[14]。立候補が決まった龍太郎は、当時の西村英一厚生大臣にお願いして、父が大臣を務めた厚生省の会議をまんべんなく見学、実務を熟知しているノンキャリアの課長補佐に貼り付くように質問をしながらノートを取り続けて猛勉強しており、その姿は政治記者だけでなく厚生省を取材していた社会部記者も感心していたという[15][16]

1963年の総選挙で衆議院議員に初当選。開票結果は選挙戦前の予測を上回る7万4564票で、江田三郎に次いで2位の得票数だった。この選挙で小渕恵三(のち首相)も初当選を飾った[17]

初登院の時に継母・正が付き添ったことから、マスコミからは「大学入試ばかりではなく、国会議員も保護者が付き添う時代になった」と揶揄され[18]、「マザコン代議士」と冷やかす報道もあった[19]。本人は、秘書代わりに選挙で苦労した母に対する労いの気持ちから出た行動であると説明している。

議員当選後に遠縁に当たる久美子と結婚。久美子はカトリックだったため、六本木のチャペルセンターで結婚式を挙げた。媒酌人は佐藤栄作。佐藤家と橋本家は軽井沢の別荘も隣同士ということで毎夏顔を合わせる仲であり、父が亡くなった時、佐藤が葬儀委員長を務めた[20]。そういった関係でもあり派閥は佐藤派に所属した。

1969年第32回衆議院議員総選挙では選挙直前まで国会活動で多忙を極め、苦戦が予想されたが、自民党幹事長の田中角栄や佐藤派の中堅だった竹下登のてこ入れで3選を果たした。この事により、佐藤派内で田中、竹下に傾倒することになり、佐藤引退を受けての総裁選挙では、かねてより保利茂系であったことから、父代わりとも言うべき佐藤が福田赳夫を支持するように示唆するのを固辞、田中派に参加した。

枢要ポストを歴任

1978年12月7日、第1次大平内閣厚生大臣に任命され、当選5回で初入閣を果たした。昭和2ケタ生まれの閣僚は、橋本が初めてであった。厚相在任中はスモン訴訟の和解に尽力した[21]

水俣病の患者らが厚生省に押しかけ、死亡者補償が交通事故死の補償より安かったことについて抗議したことがあった。しかし応対した橋本は、患者らの「人命軽視だ」という批判に「政府が人命を大事にしなかったことがあるか! 取り消せ!」と激怒し、とりなした厚生省幹部を「黙ってろ!」と怒鳴りつけた[22]

竹下登を中心とする創政会の結成に参画し、その後の経世会においても中心人物の一人となり竹下派七奉行の一角を占めた。

1986年7月22日、第3次中曽根内閣運輸大臣に就任して国鉄分割民営化を担当した。大臣在任中、橋本の似顔絵が描かれたオレンジカードをつくり、希望者(友人らを中心に、一般国民も大臣に手紙を書けば貰えたという)に無料で配布した。イラン・イラク戦争の際、海上保安庁巡視船を派遣する案が事務レベルで調整された際には「一番船には僕が乗っていく」との決意とともに承諾したが、結局後藤田正晴内閣官房長官の反対により実現しなかった[23]

1987年には竹下内閣で幹事長代理に就任し、健康不安のある幹事長安倍晋太郎を支え続け、消費税導入や昭和天皇大喪の礼に対して党側の実務を担当した。

総裁候補へ浮上

1989年宇野内閣成立時には幹事長代理の経験が買われ、幹事長に昇格した。リクルート事件や消費税の影響に加え、宇野宗佑首相の女性スキャンダルが噴出し、同年7月の参院選では、かつてない逆風にさらされて、自民党が惨敗した際には「こんちくしょう…」とチェリー喫煙しながら悔しがるシーンが、テレビで放映され話題となったが、不人気の宇野首相に代わって各地を遊説したことで、国民的人気を得るに至った[24]

宇野首相が辞任すると、橋本は後継候補に浮上し本命視される。しかし、女性問題を理由に自派閥の支持が伸び悩み、盟友・安倍晋太郎への配慮から世代交代を嫌った竹下登、橋本の突出を嫌った金丸信小沢一郎らに動きを封じられ、結局、宇野の後継には海部俊樹が就任した。当時、竹下派の最有力の後継会長候補と見られていた橋本と小沢は、この頃からたびたび対立を繰り返して、一龍戦争と呼ばれた。

1989年8月第1次海部内閣大蔵大臣に就任し[25]第2次海部内閣でも留任するが、1991年10月、証券不祥事などで引責辞任した。

1992年10月、竹下派(経世会)会長の金丸信が東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれ、後継会長の座をめぐって小沢一郎派と反小沢一郎派が対立。小沢派が推す羽田孜と、反小沢派が推す小渕恵三との争いの末、小渕が派閥領袖と決まり経世会は小渕派となった。小沢・羽田派は経世会を離脱して改革フォーラム21(羽田派)を立ち上げた。経世会の副会長に就任していた橋本は、そのまま小渕派副会長として小渕と行動を共にした。

この間の1991年12月に弟の大二郎が高知県知事選挙に立候補し、当選した。この時、橋本が所属する自民党推薦の候補と対決。龍太郎は大二郎を擁護し「自慢の弟です」と述べた。

1993年の総選挙の時には、当時の自民党政治家で高い人気を誇った橋本、河野洋平石原慎太郎は「三本の矢」と呼ばれ全国遊説で奮闘した[26]。総選挙の後には細川内閣が成立し、自民党は下野した。宮澤喜一首相の後継総裁に後藤田正晴と並んで本命視されたが、自民党分裂の原因である竹下派の内部分裂に責任があるとして辞退し、河野洋平総裁のもとで政務調査会長に就任した。この野党時代に、小沢一郎の「日本改造計画」に触発されて「政権奪還論」を著している。

自民党が与党に復帰した際、自社さ連立政権村山内閣通商産業大臣に就任した。大臣在任中、日米自動車交渉をまとめ、交渉相手の米国からも高く評価されている。

第17代自民党総裁

1995年9月、橋本は国民的人気を背景に自民党総裁選に出馬する。当初は現職総裁の河野洋平と橋本の一騎討ちと目され、早稲田大学出身の河野と慶大出身の橋本の「早慶戦」、共に昭和12年生まれで50代の「ニューリーダー対決」などと評されたが、河野は自らが所属する宮澤派の支持を得られずに「大変厳しい多数派工作で、党内に亀裂を生じるのを恐れる」として出馬を辞退。河野に代わって三塚派小泉純一郎が出馬し、論客同士の「さわやかな政策論争」、「KK(慶慶)決戦」と評される総裁選が展開された[27]。橋本は304票を獲得し、87票を獲得した小泉に圧勝[28]。第17代自由民主党総裁に就任した。幹事長に宮澤派の加藤紘一総務会長に三塚派の塩川正十郎。政調会長に旧渡辺派山崎拓を選任した。橋本は総裁就任に伴って、村山改造内閣副総理を兼務し引き続き通産相を務めた。

1996年1月11日村山富市首相の辞任に伴い、第82代内閣総理大臣に指名され、自社さ連立による第1次橋本内閣が発足した。内閣官房長官には、橋本らと共に竹下派七奉行と呼ばれた実力者である梶山静六が選任された。その後の施政方針演説では改革の必要性を主張し、「強靭な日本経済の再建」「長寿社会の建設」「自立的外交」「行財政改革」の4つを最重要課題として挙げた。

就任当初は、村山政権下で決定された住宅金融専門公社(住専)の不良債権に対する6800億円を超える財政支出問題で、新進党が「ピケ」と呼ばれる座り込み運動を展開するなど激しく抵抗し、メディアも否定的な論調を展開したことから、政権への批判が強まった。ただし、海外市場では好感する動きが見られた[29][30]

同年2月23日にアメリカのクリントン大統領との首脳会談で、橋本は普天間飛行場の返還を要求し、4月に全面返還で日米政府が合意した。普天間の代替基地についても安全保障政策環境政策が絡む中で米国や沖縄の基地自治体関係者と対談を行い、代替施設について名護市の受け入れ表明を取り付けて、普天間基地返還に本格的道筋を付けた。この結果、住専問題で逓減していた支持率が60%に上昇した。

自身の59歳の誕生日である1996年7月29日に現職の内閣総理大臣としては11年ぶりに靖国神社を参拝した。

同年の臨時国会冒頭の9月27日、衆議院を解散。小選挙区比例代表並立制の下で初の衆議院総選挙が行われ、自民党は28議席増の239議席と復調した。選挙中は橋本に選挙応援の依頼が殺到し、全国で「橋龍人気」と言われる国民的人気を見せ付けている。

第2次橋本内閣

1996年11月7日社民党・新党さきがけが閣外協力に転じて、3年ぶりの自民党単独内閣となった(なったといっても閣外協力なので連立の枠組みはあった)第2次橋本内閣が発足。橋本は「行政改革」「財政構造改革」「経済構造改革」「金融システム改革」「社会保障構造改革」「教育改革」の六大改革を提唱した。特に行政改革は橋本が「火だるまになっても(行革を)やり切る」と述べたため『火だるま行革』とマスメディアに報道された。

橋本は、首相直属の「行政改革会議」を設置。メンバーには武藤嘉文総務庁長官中央省庁改革等担当大臣、水野清総理補佐官行政改革担当)のほか、経団連会長の豊田章一郎連合会長の芦田甚之助、東京大学名誉教授の有馬朗人、上智大学教授の猪口邦子ら、財界・学界などから有識者を迎え、官僚や官僚出身者を排除する体制とした。

同年12月17日、ペルーリマにある日本大使公邸を、トゥパク・アマル革命運動が占拠し、多数が人質となる在ペルー日本大使公邸占拠事件が発生した。直ちに池田行彦外相と医療チームを現地に派遣した。池田外相の帰国を受け、24日にペルーのフジモリ大統領と会談、ペルー政府を支援する方針を表明した。フジモリが武力突入を示唆し始めると、29日にフジモリに親書を送って平和解決を要請。さらに1997年1月31日、橋本はカナダのトロントでフジモリと会談し、平和解決に努力することで一致した。同年4月22日、ペルーの特殊部隊が公邸に突入。人質となっていた日本人に犠牲者を出すことなく解決した。橋本は後に、人質事件で死亡したペルー人犠牲者の家族を日本に招待した[31]。事件の際、外務省の対策本部に木村屋總本店あんパンを大量に差し入れ、「アンパン総理」といった声も聞かれた。

1997年通常国会で最大の焦点であった、沖縄のアメリカ軍軍用地収用への自治体介入を防ぐ駐留軍用地特措法問題で、同年4月、新進党党首の小沢一郎と党首会談を行った。橋本と小沢は特措法を成立させることで合意し、同法は新進党の協力を得て成立した。新進党との協力が成功したことで、自民党と新進党による「保保連立」が浮上。自民党内は、加藤や野中広務らの「自社さ派」と梶山や亀井静香らの「保保派」に二分された[32][33]。橋本は自社さ派と評されるようになる[34]

同年6月23日、コロンビア大学での講演において聴衆から「日本が米国債を蓄積し続けることが長期的な利益」に関して質問が出た際、橋本は「大量の米国債を売却しようとする誘惑にかられたことは、幾度かあります。」と返した。そして、アメリカ経済が与える世界経済への影響などを理由に挙げた上で「米国債を売却し、外貨準備を金に替えようとしたい誘惑に、屈服することはない」と続けた。しかし、大量の米国債を保有する日本の首相が「米国債を売却」への言及をしたことが大きく注目され、ニューヨーク証券取引所の株価が一時下落した。

同年9月、党総裁に再選され、内閣改造を行い第2次橋本改造内閣が発足。梶山に代わって村岡兼造を官房長官に指名したほか、ロッキード事件で有罪が確定している佐藤孝行を中央省庁改革等の担当である総務庁長官に起用した。これに非難が集中、佐藤は11日で辞任した。佐藤は歴代内閣に入閣を拒まれ、橋本も入閣させない意向だったが、中曽根康弘らの強硬な推薦に抗し切れず起用するに至ったという。この一件で、支持率は30%台に急落、橋本の責任を問う声が上がった[35]

同年11月のロシアのエリツィン大統領との首脳会談では、2000年までに平和条約を締結する事や両国の経済協力を促進する事で合意した[36]

同年11月に財政構造改革法を成立させ、2003年までの赤字国債発行を毎年度削減する等の財政再建路線をとった。しかし、景気減速が顕著となり北海道拓殖銀行山一證券などの破綻が起こると、党内やアメリカ政府から景気対策を求める声が上がるようになった。また、山一證券の破綻で、橋本の金融システム改革に伴う金融ビッグバンへの批判が相次いだ。これを受け同年12月、2兆円の特別減税を表明した。

同年12月24日から「龍ちゃんプリクラ」こと橋本首相といっしょに写真が取れるプリントクラブが、党本部1階ロビーに設置された。

1998年4月、4兆円減税と財政構造改革法の改正を表明し、財政再建路線を転換した[37]。また同年、金融監督庁を設置。大蔵省から金融業務を分離し、金融不安に対処する体制を整えた。同年5月、離党議員の復党などにより自民党が衆議院で半数を超えたことを受け、社民党・さきがけとの連立政権を完全に解消。

同年7月の参院選では、景気低迷や失業率の悪化、橋本や閣僚の恒久減税に関する発言の迷走などで、当初は70議席を獲得すると予想されていた自民党は44議席と惨敗。名言「すべてひっくるめて責任は私にある」と橋本は述べた後、橋本内閣は総辞職した[38][39]。 1997年には日本の総理大臣として初めて北朝鮮の拉致事件について国会答弁で触れている。

消費税増税とその後

1997年平成9年)4月1日村山内閣で内定していた消費税等の税率引き上げと地方消費税の導入(4%→地方消費税1%を合わせて5%)を橋本内閣が実施。

産経新聞田村秀男編集委員は、記事「カンノミクスの勘違い」の中で橋本が消費増税を実行したせいで、増税実施の翌年から、日本は長期デフレーション平成不況失われた20年)に突入したと評している。田村編集委員は、消費増税を実施した1997年度(平成9年度)においては、消費税収が約4兆円増えたが、2年後の1999年度(平成11年度)には、1997年度比で、所得税収と法人税収の合計額が6兆5千億もの税収減にとなったと指摘し、消費増税の効果が「たちまち吹っ飛んで現在に至る」と評している。さらに、「橋本元首相は財務省官僚の言いなりになった事を、亡くなる間際まで悔いていたと聞く。」と述べている[40]

2001年自由民主党総裁選挙に出馬した際も、橋本が自身の公式ホームページにて、財政再建を急ぐあまり経済の実態を十分に把握しないまま消費税増税に踏み切り、結果として不況に陥らせたことを謝罪している[41]

橋本は生前「私は平成9年から10年にかけて緊縮財政をやり、国民に迷惑をかけた。私の友人も自殺した。本当に国民に申し訳なかった。これを深くお詫びしたい」「財政再建のタイミングを早まって経済低迷をもたらした」との自責の念も示している[42]

所得税収、法人税収はそれぞれ1998年度、1999年度と減少し続けているが、法人税は両年にわたって、所得税は1999年度に減税が実行されている。他の先進国の基準にあわせる方向で、所得税は高所得者の負担が軽減[43]、法人税は税率が引き下げられている[注釈 1]ため、減税による税収減も含まれている。

その額は、所得税・住民税の定率減税(3兆5000億円)と最高税率の引下げ(5000億円)、法人税・法人事業税の税率引下げ(2兆5000億円)など[44]。この三つの合計は6兆5千億となり、上の指摘の額と同じになる。つまり、税収の減収額は、減税の額と同じになり、消費税導入の効果は中立的であったことになる。

1997年の消費税増税、健康保険の自己負担率引き上げ、特別減税廃止など、総額約10兆円の緊縮財政の影響や金融不況の影響もあり、1998年度には名目GDPは、前年度比マイナス2%の503兆円まで約10兆円縮小し、GDPデフレーターはマイナス0.5%に落ち込んで、深刻な就職氷河期デフレーション経済が蔓延する結果になった[45]

首相退任後

首相退任後の1998年8月、橋本は小渕恵三首相から、首相外交最高顧問を任じられ受けている。この首相外交最高顧問は、内閣官房長官が「任務を解く」と談話を出すまで続けられることとなっており、議員引退後もこの肩書は残っていた。小渕、森、小泉と三代にわたって務め上げた。

同年12月、育ての母である正が死去。葬儀では喪主を務める。

1999年9月、橋本は小渕首相から厚生大臣への就任を打診された。2000年4月に介護保険制度導入を控えており、実力者でなければ職務に耐えられないと判断した小渕は、厚生族の橋本に白羽の矢を立てたものだが、橋本は「(前年の)参院選惨敗の責任は私にあるから入閣は無理」として固辞。自分に代わって、同じく厚生族の丹羽雄哉を推薦し、丹羽が厚生大臣に就任する[46]

2000年7月、旧小渕派会長の綿貫民輔衆議院議長に就任したことに伴って、会長に就任したが、これは周囲が橋本を積極的に推したわけではなく、他に適格な人材がいなかったためである。実権は野中広務青木幹雄が握っており、橋本は会長とは名前ばかりの「雇われマダム」と揶揄するマスコミもあった。橋本自身、会長職を望んでいたわけではなかったが、放っておくこともできず、仕方なく引き受けたという。

同年11月、加藤の乱の際に、かつてヨーロッパで行われた儀式を引き合いに出し「猫を鉄板の上で躍らせるようにして甚振れ」と発言し、物議を醸す。

同年12月、不人気に苦しんでいた森喜朗首相に請われ、沖縄開発庁長官に就任し、また、新設された行政改革担当大臣も兼務した。自身が進めた省庁再編を担当し、翌2001年、省庁再編で生まれた沖縄及び北方対策担当大臣に就任する。その仕事ぶりは政官ともに評価が高く、ポスト森(森の後継)に浮上した。

2001年4月の総裁選では、同派幹部の高鳥修や村岡兼造らのすすめもあり派内や公明党に待望論のあった野中広務を抑えて出馬[注釈 2]。橋本擁立に当たっては派内若手から異論が出たが、当初は橋本の勝利が予想された。結局「小泉フィーバー」と呼ばれる絶大な人気を誇った小泉純一郎に敗北。小泉が298票を獲得したのに対し、橋本は155票で次点に終わった[47]。なお小泉からも入閣を要請されたが、橋本は固辞している。

2003年9月の総裁選では橋本派から熊代昭彦笹川堯藤井孝男の3人が総裁選出馬を表明。橋本は3人と面談し藤井の擁立を決定するが、藤井は小泉純一郎・亀井静香の後塵を拝して落選した。この総裁選の過程で村岡兼造や久間章生らベテラン議員、さらに青木幹雄・片山虎之助らの参議院側、自身が自民党総裁・内閣総理大臣として陣頭指揮を執った1996年衆院選当選組の桜田義孝下地幹郎新藤義孝大村秀章などの橋本派若手議員が小泉支持に回るなど派内の分裂が決定的となり、橋本派は弱体化した。

晩年

2004年7月、日歯連闇献金事件が発覚した。内容としては、橋本と青木幹雄・野中広務が日本歯科医師連盟会長、理事(当時)と料亭で会食し、その際に1億円の小切手を受け取り、旧橋本派の公認会計士が換金を行って旧橋本派の派閥金庫にしまわれ、この献金について旧橋本派や平成研究会が収支報告書に記載しなかったというものであった。

東京地検政治資金規正法違反で旧橋本派の公認会計士、日歯連会長と理事を逮捕した。この事件により平成研究会の会長を辞任し、同派から離脱。次期総選挙での小選挙区岡山4区からの出馬を辞退する意向を示した。橋本と同席していた青木・野中も東京地検が捜査していたが同年9月に不起訴となった。のちに検察審査会で同事件での不起訴は不当であるとする議決を行った。

村岡兼造が収支報告書への不記載を首謀したとして在宅起訴された。橋本は「会食で1億円の小切手を貰った記憶は無い」などと発言し、日歯連の不正献金疑惑が大きく報道に取り上げられ、当時の自民党随一の政界影響力を誇り最大派閥であった橋本派の各種団体との癒着や政治と金の問題が浮き彫りになった。その後、比例区からの出馬が模索されたものの、党はこれを認めず、政界引退を余儀なくされた。

2006年7月1日、東京都新宿区の国立国際医療センターで、腸管虚血を原因とする敗血症性ショックによる多臓器不全のため死去した。68歳没。

7月3日には葬儀・告別式が東京高輪の高野山東京別院で営まれた。また8月8日には小泉総理大臣を葬儀委員長として、内閣・自由民主党合同葬が日本武道館で行われ、自衛隊による儀仗、堵列及び弔砲が捧げられた。追悼の辞は小泉葬儀委員長が述べた。戒名は高潔院殿俊岳龍吟大居士。墓は岡山県総社市宝福寺にある。

なお、死因である腸管虚血は、原因がよくわからないこともあり、橋本の死後、病院側の意向により、遺体は病理解剖に付された。

政策

  • 厚生政務次官、自民党社会部会長、衆議院社会労働委員長、厚生大臣と厚生族議員としてキャリアを積んでいき、水俣病患者に対して対応が冷酷・傲岸であるとの批判もあったが、厚生族のドンとも言うべき存在になる。
  • 環境庁の発足や、環境庁から環境省への移行など環境行政にも関わった。また、京都議定書の締結にも首相として関わった。
  • 第3次中曽根内閣運輸大臣に就任し、中曽根康弘が首相就任以来取り組んできた国鉄分割民営化の総仕上げに携わったが、のち郵政解散をめぐって産経新聞の取材に応じた際の2005年12月、行政改革の話題で「分割民営化をほめてくれる方がいるが、JR西日本の福知山線脱線事故が起きてものすごく後悔している」と明言。新規投資にゆとりのないJR西日本のスタートに無理があり、信楽高原鉄道事故につながったとする見解をも示唆した[48]
  • 海部内閣では大蔵大臣に就任し、党内基盤の脆弱な海部俊樹首相を、特に政策面で強く支えた。湾岸戦争では多国籍軍の経費として130億ドルを拠出。 過熱気味の不動産価格をソフトランディングするべく、不動産関連融資の総量規制を行う。
  • 自社さ連立政権の基礎となった三党政策合意がまとまったのは、社会党きっての厚生労働族議員である村山富市が、国会議員の中で厚生労働問題に詳しく力量を信頼をしていた橋本が自民党の政務調査会長だったことも大きいと言われる[49]村山内閣発足後、橋本は通商産業大臣に就任する。
  • 首相在任中は、「六大改革」を唱え、構造改革・行政改革を目指した。「たとえ火だるまになっても行政改革を断行する」と決意表明したことから、「火達磨の決意」「火達磨改革」「火だるま行革」とも呼ばれた。村山内閣において決定された消費税率5パーセントへの引き上げを実施するも、アジア通貨危機と重なって、長期不況に陥った(失われた10年失われた20年就職氷河期を参照)。
  • 行政改革に取り組み、22ある省庁を1府12省庁に削減する省庁再編大蔵省の名称変更や金融業務の切り離し、首相権限強化を伴う内閣機能の見直し、郵政三事業の一体公社化、公務員定数の一割削減などを「行政改革会議」において最終報告という形で決定した[50]。この最終報告は、1998年に成立した中央省庁等改革基本法に結実し、一定の成果を挙げた。
  • 薬害エイズ事件に関して、橋本は田中秀征に「秀征さん、僕が厚生族であることを知っているでしょう。この政権合意ほんとうにきついけど、政権の合意だからやらないといけない。邪魔だけはしない。」と伝えた。業界団体や会社の要望も全てはねつけ、役所も政権合意だから仕方ないと思うようになった。後で「菅直人一人がやったような気分になっているが、秀征さんはそれでいいのか」と言ってきた。田中はこの問題が解決したのは、さきがけの主張と、橋本の見えない協力が一番だったと高く評価している[51]
  • アメリカ合衆国から、沖縄県普天間基地移設問題についての同意を取り付けた。その一方で「新・日米防衛協力のための指針」を策定。
  • ロシア外交では、エリツィン大統領との間に個人的な信頼関係を結び、エリツィンの訪日を実現、川奈合意の実現をみた。
  • エリツィンは橋本を「友人リュウ」と呼んだ。フランスのシラク大統領も橋本を「リュウ」と呼んで、趣味を認め合う仲だった。
  • 1995年まで日本遺族会会長を務めていたこともあり、首相就任後に靖国神社へ参拝した。それは子供の頃に継母になじめなかった頃に面倒を見てくれた従兄が召集されて戦地へ行く前に、「自分が亡くなった時は、靖国へ戻ってくる。」と橋本に言い残したためであり、首相就任後に参拝した日はその従兄の命日であった[52]



注釈

  1. ^ 日本の法人税は1990年度以降は37.5%であったが、1998年度に削減されて34.5%となった。1999年度にはさらに引き下げられ、30%になっている。財務省:法人税の推移
  2. ^ 高鳥は「野中さんだと派閥が分裂する」として橋本に総裁選出馬を進言した
  3. ^ なお、ここで海部は「河野(洋平)にもあった」と余計な発言をしている
  4. ^ 「橋本龍太郎氏の慰霊碑」『野口健ブログ』
  5. ^ また首相在任中に行われた党首討論(日本記者クラブで各党首による公開討論)で日本共産党委員長の不破哲三が「北方領土が日本固有の領土という点においては、なぜか自民党と一致している」と発言したのに対して、「山登りも同じだよ」と混ぜっ返して会場を和ませた。不破もまた登山を趣味としていた。
  6. ^ 橋本の父・龍伍と小渕の父・光平第24回衆議院議員総選挙の当選同期であり、同じ吉田茂派に在籍していた
  7. ^ 同じ岡山県出身で、橋本に見いだされて政界入りした
  8. ^ なお龍太郎本人は東京生まれの東京育ちであるが、岡山を選挙区として政治活動を始めてからは“岡山県総社市出身”と称した。本籍東京都渋谷区(『人事興信録』より)。昭和43年(1968年岡山県総社市を建てた(橋本久美子『夫 橋本龍太郎 - もう一度「龍」と呼ばせて 』48頁より)

出典

  1. ^ 総社市
  2. ^ 仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』12頁
  3. ^ 『橋本龍太郎・全人像』98-100頁
  4. ^ 『橋本龍太郎・全人像』108頁
  5. ^ a b 安倍譲二署「塀の中の懲りない面々」より
  6. ^ 仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』31、32頁
  7. ^ 『橋本龍太郎・全人像』116頁
  8. ^ 『橋本龍太郎・全人像』118頁
  9. ^ 『自由 第44巻、第507~510号』2002年
  10. ^ 『橋本龍太郎・全人像』118頁
  11. ^ 仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』35頁
  12. ^ 仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』39頁
  13. ^ 『橋本龍太郎・全人像』123頁
  14. ^ 『小説 角栄学校』83頁
  15. ^ 俵孝太郎『日本の政治家 父と子の肖像』父親龍伍に学んだ橋本龍太郎の真骨頂 1997年
  16. ^ 俵孝太郎『政治家の風景』1994年
  17. ^ 仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』 47-48頁
  18. ^ 『橋本龍太郎・全人像』128頁
  19. ^ 物語・介護保険第59話 訪問看護から政治へ、"女は度胸"2014年5月10日閲覧
  20. ^ 仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』30頁
  21. ^ 『西日本新聞』 ワードBOX
  22. ^ 『橋本龍太郎・全人像』148頁
  23. ^ 『私の後藤田正晴』編纂委員会, ed (2007). 私の後藤田正晴. 講談社. p. 128 
  24. ^ 『自民党幹事長室の30年』 pp.227-232
  25. ^ 『実録・橋本龍太郎』岩見隆夫
  26. ^ 『小説 角栄学校』 pp.209
  27. ^ 『小説 池田学校』 pp263-265
  28. ^ 『小説 角栄学校』 pp266-pp.227
  29. ^ 『劇録!総理への道』大下英治著 pp.665-666
  30. ^ 『新進党vs自民党』大下英治著 pp.412-442
  31. ^ 『激録!総理への道』 pp671-687
  32. ^ 『自民党ナンバー2の研究』pp.280-281
  33. ^ 『激録!総理への道』pp.687-695
  34. ^ 『小沢一郎の日本をぶっ壊す』 pp389-390
  35. ^ 『激録!総理への道』 pp695-699
  36. ^ 『激録!総理への道』 pp.707-723
  37. ^ 『激録!総理への道』 pp.723-730
  38. ^ 『激録!総理への道』 pp.723-740
  39. ^ 『小説 角栄学校』 pp.280-283
  40. ^ 田村秀男 (2010年6月15日). “【経済が告げる】編集委員・田村秀男 カンノミクスの勘違い (1/3ページ)” (日本語). 産経新聞 (産経新聞社). オリジナルの2010年6月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100616112438/http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100615/plc1006150300003-n1.htm 2012年4月9日閲覧。 
  41. ^ 岩本沙弓『バブルの死角 日本が損するカラクリ』(2013年、集英社新書)p.83
  42. ^ 【アベノ断(中)】「平成9年のトラウマ」 終止符打てるか+ (1/4ページ)MSN産経ニュース 2013年10月3日
  43. ^ 財務省:所得税の税率構造の推移
  44. ^ 日本共産党・用語解説
  45. ^ 田村秀男『財務省「オオカミ少年」論』
  46. ^ 『蠢く野中広務』 pp.316-319
  47. ^ 『小泉純一郎の「宣戦布告」』 pp.341-342
  48. ^ 産経新聞』2005年12月22日
  49. ^ 俵孝太郎『日本の政治家 父と子の肖像』父親龍伍に学んだ橋本龍太郎の真骨頂 1997年
  50. ^ 『激録!総理への道』pp.670-671 pp.699-707
  51. ^ 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P250~251
  52. ^ 俵孝太郎『日本の政治家 父と子の肖像』父親龍伍に学んだ橋本龍太郎の真骨頂 1997年
  53. ^ 仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』199頁
  54. ^ 厚生族のドン元厚生大臣 橋本元首相死去 たばこ好きとしても知られ、1995年10月の麻布高校創立100周年記念祝賀会で「高校の屋上でたばこを吸い始めて以来、ヘビースモーカーになってしまった」と、あいさつで触れるほどだった。
  55. ^ http://www3.grips.ac.jp/~oralreport/view?item=100025 海部俊樹『海部俊樹オーラルヒストリー(下)』p.168
  56. ^ 切れ者で正直すぎる政治家 橋本龍太郎 文春写真館
  57. ^ “特集ワイド 早大探検部員殺害事件”. 毎日新聞(東京夕刊) (東京): pp. 2. (1998年1月30日) 
  58. ^ 「内閣総理大臣・橋本龍太郎にたいする糾弾文」『週刊ポスト』第30巻第5号、小学館、1998年2月6日、 183頁。
  59. ^ 仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』138頁
  60. ^ 仕事師と呼ばれた男 橋本龍太郎』93頁
  61. ^ 俵孝太郎『日本の政治家 父と子の肖像』父親龍伍に学んだ橋本龍太郎の真骨頂 1997年
  62. ^ 俵孝太郎『日本の政治家 父と子の肖像』父親龍伍に学んだ橋本龍太郎の真骨頂 1997年
  63. ^ 週刊文春2019年11月7日号、23頁
  64. ^ 浅川博忠『自民党・ナンバー2の研究』講談社文庫、258頁
  65. ^ 田勢康弘『だれが日本を救うのか』新潮文庫、249頁
  66. ^ 2015年4月20日中日新聞
  67. ^ 橋本久美子『夫橋本龍太郎』2007年
  68. ^ 小説 角栄学校 267-268頁
  69. ^ 『衆議院会議録情報 第042回国会 本会議 第1号』
  70. ^ a b 『人事興信録. 5版』(大正7年)は八五
  71. ^ 石光真清著『城下の人』
  72. ^ 橋本明著『戦後50年・年譜の裏面史 昭和抱擁 -天皇あっての平安-』112頁によれば、「二男・宙二は海軍大佐」である
  73. ^ 広瀬隆著『私物国家 日本の黒幕の系図』287頁





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