植民地大臣 歴史

植民地大臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/31 14:54 UTC 版)

歴史

18世紀大英帝国の植民地が拡大し、その対策が重要となったのを受けて、1768年アメリカおよび植民地大臣(Secretary of State for the American and Colonial Affairs)のポストが新設された[1]。しかし1782年北アメリカ植民地の独立が確実の情勢となったのを受けてこのポストは廃止され、植民地に関する業務は内務大臣が担うことになった[1]

18世紀末にフランス革命戦争が勃発したことで軍事面の統括を強める観点から1801年陸軍大臣が植民地問題を所管することになり、陸軍・植民地大臣(Secretary of State for War and the Colonies)のポストが新設された[1]

19世紀中期のクリミア戦争で陸軍の非効率性が浮き彫りとなったことで陸軍・植民地省改革の動きが強まり、1854年には植民地問題が陸軍から切り離され、改めて陸軍大臣と植民地大臣が設置されることとなった[1]

大英帝国の最盛期であるヴィクトリア朝において植民地大臣は「帝国の使命(Imperial Mission)」を担う者であるという強い自負心を抱く者が多かった。第4代カーナーヴォン伯爵ヘンリー・ハーバートは「帝国主義には二種類あり、一つは皇帝専制などの誤った帝国主義。もう一つは英国の帝国主義だが、これは平和を維持し、現地民を教化し、飢餓から救い、世界各地の臣民を忠誠心によって結び付け、世界から尊敬される政治体制である。帝国主義には確かに領土拡張を伴うが、英国のそれは弱い者イジメではなく、英国の諸制度と健全な影響を必要とあれば武力を用いてでも世界に押し広げていくことに他ならない。」と豪語し[2]。同じくジョゼフ・チェンバレンは「私は第一に大英帝国、第二にイギリス民族を信じる。イギリス民族こそが世界で最も偉大な支配民族であると確信している。これは空虚な誇りではない。現に我らが広大な領土を統治していることで実証されていることだ」[3]、「未開発地域の文明化こそがイギリスの使命である」と豪語していた[4]

ただし大英帝国植民地のうちインドに関する事務はインド大臣が所管した。また1925年以降は植民地のうち自治領(ドミニオン)に関する事務は自治領大臣(1947年には英連邦関係大臣英語版に改名)が担うことになり、植民地省は自治領以外の植民地を所管する役所となった[1]

第二次世界大戦後、大英帝国の植民地はほとんどが独立した。植民地省が管理する植民地臣民の数も1946年には6500万人だったのが、20年後にはその数は十分の一以下まで激減した。役割が減った植民地大臣は、1966年に英連邦関係大臣と合体されて英連邦大臣に改組された。さらにその2年後の1968年には英連邦大臣と外務大臣が合体され、外務・英連邦・開発大臣となり、現在に至っている[5]







英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「植民地大臣」の関連用語

植民地大臣のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



植民地大臣のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの植民地大臣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS