日本刀 歴史

日本刀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 03:10 UTC 版)

歴史

日本刀は、政治・経済・文化・風俗・習慣など、その時々の歴史的要因により、変貌を続けてきた。

上古から彎刀の出現まで

大刀(たち)を佩用する聖徳太子。黒漆塗の鞘に山形金物と長金具が付いた大刀を帯取と佩緒で下げている。

日本では弥生時代前期には青銅製の刀剣類が確認される。日本最古の王墓といわれる福岡県吉武高木遺跡からは銅剣が多数発掘されている。 また、弥生時代後半(250年)頃の古墳である同県の祇園山古墳からも製の剣が発見された。 この様に、古墳時代以前にはすでに鉄製の刀剣類の生産が始まっていた。例えば、古事記に登場し古代天皇の三種の神器とされ、そのなかの一つ草那藝之大刀(彎刀完成以前の直刀には「太刀」ではなく「大刀」の字をあてる)がそれであり、埼玉県稲荷山古墳島根県安来市の古墳時代前期を代表する出雲の大型方墳である造山古墳(現古代出雲王陵の丘の一部)からは鉄剣大刀が出土している。稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣にはワカタケル(雄略天皇)に仕えた功績を記念して471年に作ったとの由来が115文字の漢字で刻まれている。

この時代の刀剣の多くは朽損しているが、古墳時代後期(6世紀)以降の直刀は「装飾付大刀」とも呼ばれ、金装・銀装・金銅装の煌びやかな装具を装着し、形態的にも様々なバリエーションのものが出現した。島根県安来市のかわらけ谷出土の金銅装環頭大刀は、奇跡的に優れた保存状態にあり、黄金色の柄をもち刀身さえも古代の輝きを今に伝える稀有な例として有名である。

7 - 8世紀以降の刀剣には原形を良く留めているものが多く、四天王寺の「丙子椒林剣(へいししょうりんけん)」や「七星剣(しちせいけん)」、正倉院の「金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんかざりのからたち/きんぎんでんそうのからたち)」などが知られている。正倉院では唐様大刀と呼ばれる国産の直刀も保管されている。また、平造り・切刃造りなどの国産の直登、蕨手刀なども現存している。

平安時代初期の刀剣は遺品にこそ乏しいが、坂上田村麻呂の儀仗用とされる鞍馬寺の「黒漆剣(くろうるしのつるぎ)」や、兵仗用とされる清水寺 (加東市)の「騒速(そはや)」が現存している。特に清水寺の大刀は切刃造の1口の他に鋒両刃造の2口があり、特色として3口とも鎬筋がやや中央に寄り、刀身全体に浅い反りがあることから、奈良時代末期から平安時代中期にかけて兵仗が直刀から湾刀へと変遷する過程の初期のものとも考えられる。作風の変遷や、いつ頃どのようにして日本独自の湾刀が形成されたかについては、はっきりと分かっていないが、平安中期以降には湾刀へ移行したとみられている[2]

これら国産の直刀は東北地方に住んでいた蝦夷との交易や俘囚による技術の影響を受け[14]、直刀片刃に角度をつけた蕨手刀(彎曲刀)、柄に透かしをつけて斬撃の衝撃を緩めた毛抜形蕨手刀、柄の装飾を排した毛抜形刀、長大化させた毛抜形太刀を経て、反りのある日本刀に変化していったと考えられている[14]。反りがつくことで引き切りに適した武器となり[14]、特に騎馬戦で使いやすくなった[15]

また、平造り・切刃造りに代わって、刀身の断面が長菱形である「鎬造り(しのぎづくり)」の刀剣が造られるようになったのもこの時代である。「鎬造り」は平造り・切刃造りより頑丈で斬りやすいとされている。以上の変化の過渡期にあたるのが柄が刀身と共鉄の毛抜形太刀や、鋒両刃(きっさきもろは)造りで反りのある小烏丸(こがらすまる)である(小烏丸は古伝書には大宝年間(8世紀初頭)の刀工・天国(あまくに)の作とあるが、実際の制作は平安中期と見るのが定説となっている)。毛抜形太刀は、藤原秀郷所用と伝える伊勢神宮のものが著名である。柄に毛抜形の透かし彫りがあることからこの名がある。

平安時代

稲荷山 小鍛冶。刀匠・宗近稲荷の使いに相づちを打たせ、小狐丸という名刀を作り上げた。

平安時代後期、特に武家勢力が活発になった前九年の役後三年の役あたりから武家の勢力が増大し、これに伴い太刀が発達し、通常これ以降の物を日本刀とする。良質な砂鉄がとれる雲伯国境地域や備前国と、政治文化の中心である山城国大和国などに刀工の各流派が現れてきた。源頼光大江山酒呑童子を斬ったとされる「童子切」(伯耆国安綱作、国宝)やキツネに合鎚を打たせたという伝説のある「小狐丸」(山城国の三条宗近作、第二次大戦時に焼失)などがこの時期を代表する日本刀である。「童子切」の作者である雲伯国境の安綱は古伝書には時代を9世紀初めとするが、現存作品を見る限りそこまで時代は上がらず、平安中期、10世紀末頃と見るのが刀剣史では通説となっている。安綱のほか、山城(京)の三条小鍛冶宗近、古備前友成などが、現存在銘作のある最古の刀工とみなされる。

平安時代の太刀の特徴を以下に列記する。造り込みは鎬造り、庵棟(いおりむね)で、身幅(みはば)は総じて狭く、鋒(きっさき)が詰まって小切先となる。姿は腰から棟側にあたかも倒れるような姿をしており、反り高く、物打(ものうち)は反りが伏せごころ。踏ん張りのある(元幅に比べて先幅が狭くなっていく形)優美な姿をしている。刃文(はもん)は直刃(すぐは)または小丁子(こちょうじ)・小乱(こみだれ)が入っており、沸(にえ)出来である。焼幅はあまり広くなく、刃区(はまち)から少し先の方から刃文が始まっているものが多い。これは研ぎ減りの関係でもあるが、「焼き落とし」とも呼び、豊後国行平など、九州鍛冶には後世でも見られる。茎(なかご)は反りがあり、雉股(きじもも)形が主流である。稀に元先の身幅(みはば)に差があまりない豪快な太刀も存在し、古備前派包平大包平(おおかねひら 東京国立博物館蔵)、真恒(さねつね 久能山東照宮蔵)、友成(ともなり 厳島神社蔵)、九州の三池光世(みいけみつよ)の大典太(おおでんた 前田育徳会蔵)が著名でいずれも国宝に指定されている。

鎌倉時代

鎌倉時代は武士の台頭とともに諸国で争乱が生じ、それに伴い日本刀の需要が急激に高まり[16]後鳥羽上皇による御番鍛冶制度の創設で刀工に対して積極的に作刀を奨励したこともあり、日本刀の黄金期を迎えた[17]。21世紀時点で日本刀は100件以上が国宝に指定されているが、そのうちの8割が鎌倉時代の刀剣で7割が太刀である[18][19]

源頼朝像。毛抜形太刀を佩刀している。

鎌倉時代初期

鎌倉幕府による武家政治の体制が確立し、刀剣界が活発になっていく[20]源頼朝の没後、源氏の三代目の源実朝でその政権が途絶え、代わりに北条氏が実権を掌握したが、この変動に乗じて後鳥羽天皇は自らの朝威を回復しようとした[20]土御門天皇に位を譲った後鳥羽上皇は院政を行い、熱心な愛刀家であったため日本刀の鑑定にも詳しく、自らも焼刃を施したといわれる[20]。『正和銘尽[注 3]によると後鳥羽上皇は月ごとに山城・備前・備中などから刀工を召して鍛刀させ[20][17]、番鍛冶制度の影響で日本刀を代表する名刀がこの時代に多数生まれた[17]

鎌倉初期の日本刀は、平安後期にみられる初期日本刀の上品さを思わせる姿から、鎌倉中期に確立された豪壮な造りに移行する過渡期にあった[17][21]。反りに関しては、平安後期のような鎺金(はばきがね)のある部位から勢いがついて曲がるような形状から、鎺元の上あたりに反りの中心がくるような上品な立ち姿へと変化していった[17]。また、切先は小切先に分類されるが、この時期になると一回り大きくなり、それに伴い元身幅と先身幅の間が小さくなっていった[17]。この時期の日本刀を代表する刀工の栗田口久國の地金にみられるように、肌がよくつんで微細な地沸が良く付いたきれいな地金が造られるようになった[22]。刃文も美麗な小丁子乱がみられるようになり[22]、華麗な見栄えに加えた勇渾な作品が目立つようになってきた[21]

同時代の著名な刀工としては、備前国の末古備前派の正恒・延房・吉包、同国の古一文字派の則宗・助宗・助則、同国の福岡一文字派の延房・宗吉・助包、山城国の粟田口派の國友・久國・國安、大和国の古千手院派の行信・重弘、陸奥国の舞草派、出羽国の月山派、伯耆国の安綱派、備中国の古青江派の守次・恒次・康次・貞次・助次・家次・正恒、豊後国の定秀派、薩摩国の古波平派の行安などが存在する[22][23][24]

鎌倉時代中期

太刀 岡田切吉房吉房作、国宝、東京国立博物館蔵
太刀 長光作、東京国立博物館蔵

鎌倉幕府は承久の乱後鳥羽上皇と争い、「御成敗式目」の制定により武士の全国支配を確固たるものにさせ、必然的に鎌倉が武家文化の中心地となっていった[25]。こうした変化に伴い武士が用いる武器の需要がますます高まり、それに応じて山城国の栗田口国綱、備前の三郎國宗や福岡一文字助眞はじめとする刀工一族が鎌倉に集まった[25]承久の乱で敗れた際に隠岐島に流された後鳥羽上皇は、そこでも刀を制作したとされ、後世に菊御作を残した[26]。こういった事実はこの時代の世相をよく物語るものとなっている[26]。また、この時代の寺院の権力化に伴う僧侶の武装化も刀剣界に影響を与えている[26]。大和国では寺院お抱えの刀工群が生じたが、寺院が公家や武家以外の一大勢力へ変化していくのに伴い、刀工の各流派はしだいに各宗派の影響力がある地域へと移住し、そのことによって寺社と刀工流派は双方に影響を及ぼすようになった[26]。寺社権力の強大化を恐れた幕府は六波羅探題を通して、1228年に高野山の僧徒などに武装を禁止する命令を下し、また、1235年に再び禁止令を徹底しようと試みたがいずれも失敗し、この時代の流れに逆らうことはできなかった[26]

鎌倉時代中期になると、実用性を重視した結果、身幅が広く元幅と先幅の差も少なくなり、平肉がよくついてくる[25][27]。鎌鋒は幅が広く長さが詰まって猪首(いくび)となり、質実剛健の気風がよくでている[25][27]。剛健な武家文化の特徴をよく表した強さが刀にも反映され、鎌倉初期に見られた傾向がより顕著になっていき、堅牢な武具を断ち切ることが可能なように造り込みが変化していった[25]。反りに関しては前時代のものと比べると浅くなっており、鎌倉末期から南北朝期の作品に特徴的な中間に反りがくるような姿になる過渡期にあった[25][28]。地鉄は全般的に多様化しており[25]、備前鍛冶の作にみられるように匂出来で映りが雲煙のごとくたなびくものが多くあらわれるようになった[25][28]。また、一文字派の吉用の例では、地景と映りが断続的にあらわれ、第二の刃文が確認できるように地は変化に富む[29]。この時期の刃文は歴史上、最も美しく華やかなものとされ、備前と山城の作にみられるような大房丁子乱れが多く流行した[25]

この時期の短刀の特徴としては、反りがないか(刺刀:さすが)、わずかに内反り(棟が研ぎ減ったと考えられているかあるいは元から筍反:たけのこぞりと呼ばれる筍造:たけのこづくり)になっており、茎は反りのないものと振袖形(ふりそでがた)がある[27]。この頃から短刀の制作が活発になり、作例がしばしば見うけられる[30]

同時期の著名な刀工としては、備前国の福岡一文字派の吉房・吉平・吉用・吉宗・吉家・吉包・助眞・助依・則包、同国片山一文字の則房、同国備前三郎派の國宗・國貞、同国古長船の光忠・長光、山城国の栗田口派の國綱・有國・國清・則國・國吉・吉光、同国の来派の國行・國俊、同国綾小路派の定利、大和国の千手院の力王・金王、備中国の古青江派の守次・助次・俊次・包次、周防国の仁王派の清綱・清久、薩摩国古波平派の家安などが存在する[30][24]

鎌倉時代末期

短刀、新藤五国光作、重要文化財、仙台藩主伊達家伝来品、東京国立博物館所蔵。
石田正宗正宗作、重要文化財、東京国立博物館蔵(後世に太刀から刀に磨上げられた作)

鎌倉幕府では、作刀研究推進のため、各地から名工を招聘した。主な刀工は、山城国から粟田口藤六左近国綱、備前国から福岡一文字派の助真、国宗派の国宗、京伝、大和伝の流れを汲む新藤五国光などと言われている。特に新藤五国光は、従来の山城伝伝統の精緻な地鉄の上に、大和伝に見られる沸働きの強い作風を確立し、事実上「相州伝」の祖と言われている。その弟子には行光、国広がおり、行光の弟子に越中則重、岡崎五郎入道正宗が知られている。備前伝が「匂出来」で知られる一方、相州伝は「沸出来」である。

鎌倉時代末期、2度の元寇や政治体制の崩壊などの動乱により、作刀はさらに活気づく。この時期の日本刀は、鎌倉中期の姿をより豪快にしたものに変わっていく。身幅はより広くなり元幅と先幅の差も少なくなり、鋒が延びたものが増えてくる。短刀やその他の刀剣にも太刀と同じように長寸の作がでてくる。ただし、全般に重ねが薄い点が他の時代との大きな差異である。

古今で最も著名な刀工、相州の岡崎五郎入道正宗は、ちょうど鎌倉中期から末期にかけて活躍したと推測されている。彼は、新藤五国光が確立した「相州伝」をさらに強化した作風で知られる。硬軟の鋼を巧みに組み合わせた地鉄を鍛えることによって、砂流(すながし)・金筋(きんすじ)・沸裂(にえさけ)・地景(ちけい)・湯走り(ゆばしり)・沸映り(にえうつり)と称される地刃中の「沸の働き」を従来の刀工以上に表現した。殊に刃中の細かい沸の輝きは、後世の沸荒く飛び焼き顕著な「相州伝」と一線を引き、同時代の「相州伝」刀工の作を「相州上工の作」と区別し褒め称えられている。また、地鉄の「働き」が豪華絢爛であるのと同様、「湾れ(のたれ)」に「互の目乱れ(ぐのめみだれ)」を交えた、従来にはなかった大乱れの華やかな刃文を確立した。正宗の作風は鎌倉末期から南北朝期の各地の刀工に絶大な影響をあたえた。世に「正宗十哲」とよばれる刀工がいる。彼らの大部分は、後世の仮託であり、正宗とは実際の師弟関係がないにもかかわらず、正宗の相州伝が各地に影響を及ぼしたことがよくわかる。

五箇伝のうち、相州伝のみが相模と言う国名で呼ばず相州となる。

南北朝時代

姉川合戦図屏風
この図では騎馬武者が馬上で柄の長い大太刀を両手で振るっている

政治的時代区分では室町時代に包含されることの多い南北朝時代は、刀剣武具史ではあえて別な時代として見るのが一般的である。この時代の刀剣は他の時代と違い大太刀・野太刀といった大振りなものが多く造られている[31]。薙刀も大薙刀と呼ばれる大ぶりな物が多く造られている[32]。槍も穂先の長い大身槍が登場し、大鉞金砕棒といった大型武器も登場している[33][34]。これらは威力が高く戦場で目立つものの取り扱いが難しいため、武勇に優れる者しか扱えないというイメージがあり、武士の羨望の的となった[33][35]。すでに述べた通り、この時代は相州伝が各地に影響をおよぼしている。刃文は「のたれ」に「互の目乱れ(ぐのめみだれ)」を交えたものが良く見受けられ、古来から大勢力であった備前国においても、当時長船派の棟梁格であった兼光一派の作にも、伝統の丁子乱れ(ちょうじみだれ)ではなく、互の目乱れが見られ、後の長船一派の刀工へ影響を及ぼしている。この時代の太刀は、元来長寸の大太刀であったものを後世に磨上げ(すりあげ)・大磨上げ(おおすりあげ)されて長さを調整され、打刀に造り直されているものが多い。天正年間に織田信長などの戦国武将が、秘蔵の太刀を多く磨上させていることから、室町末期の磨上を「天正磨上」と呼び非常な名刀が多い。また、この時代には小太刀もいくらか現存しており、後の打刀を連想させるものと思われる(この時代以前の目釘穴の位置は茎の中心に存在したが、不具合があったため南北朝時代の初期の建武の頃から区よりに目釘穴を設けるようになったという[36])。その後の室町時代は大太刀がある一方で、総体的には太刀や薙刀といった刀剣が短寸化する時代である[37][38]

室町以降

脇差。刀身が15世紀から16世紀前半の室町時代の相州房宗作、拵えは江戸時代の18世紀作、メトロポリタン美術館
太刀:備前長船祐定(青貝螺鈿拵)。室町時代の太刀。

室町時代初期には備前国で「小反り」と呼ばれる一派が活躍した。主な刀工は長船政光、秀光、師光などである。続く応永年間には、備前長船盛光、康光、家助、経家などの名工が輩出した。これらは応永年間に作られたものが多いので、世に「応永備前」と呼ばれている。応永備前の特徴は、鎌倉時代の太刀を狙った腰反りがつく優美な姿である点にある。また、嘉吉の乱で、室内戦闘用に鎬作りの短い刀が求められたため、脇差の製作が行われた点も重要なポイントである。太刀から打刀・脇差の二本差しスタイルが生まれたのはちょうどこの時期である。応永備前の打刀(23前後)、脇差(1尺5寸前後)は非常に姿が良く、江戸時代に大名が美しい拵えを作るために珍重された。この頃、たたら製鉄技術が一段進歩したと言われ、大規模な製鉄場跡が見られるようになる。

15世紀前半頃からへの貿易品として日本刀の生産が行われるようになった。15世紀後半の応仁の乱によって再び戦乱の世が始まると、足軽に貸し出す「お貸し刀」が大量に必要となり短期間で需要に応えるため、粗悪な「数打物(かずうちもの)」「束刀(たばがたな)」と呼ばれる粗製濫造品が大量に出回るようになった。

戦国時代に入ると刀剣生産が各地で行われ、特に祐定を名乗る刀工だけでも60名強揃った備前国と、兼「某」を名乗る刀工が活躍した美濃国が生産拠点の双璧である。他には、豊後、三原、大和、加賀、越中、駿州が知られている。寛正年間から火縄銃が普及する天正頃まで、片手打ちの刀(2尺前後)が多い。また財力に余裕のある武将は、己が命運を託する刀剣を特注することもあった。これらオーダーメイドである「注文打ち」には名刀が揃っている。重要文化財に指定されている「長船與三左衛門祐定」の永正年期作は、注文主の栗山某の美意識を反映してか、元から中ほどまで中直刃で、中から先まで互の目乱れを焼き、従来にはない感覚の異色の名刀である。同時代の著名な刀工としては、備前の則光、在光、賀光、祐光、勝光、宗光、清光、春光、治光、幸光など、美濃の兼定兼元、兼常、兼房、兼先、兼道、兼則、兼若、兼生、氏貞、正吉(坂倉関)、正善(坂倉関)、正利(坂倉関)などが挙げられる。他の地方では、相州綱広、千子村正、高天神兼明、豊後平鎮教、平安城長吉、手掻包真、加州行光、宇多国宗、波平某などがある。その他無名の刀工を含めると相当数が存在していた。

室町中期以降、15世紀後半の応仁の乱を経て後期の戦国時代には、日本刀の主流は刃を下向きにして腰に佩(は)く太刀から、刃を上向きにして腰に差す打刀(うちがたな)に移り変わった。これは南北朝時代に始まっていた戦場における集団戦化がさらに大規模化し、戦場における戦い方が徒歩の大集団による戦闘に変化したことによる。この頃には大量に動員された徒歩の足軽が戦場で大きな役割を果たすようになっていた。彼らは応仁の乱の頃は武装が統一されておらず、簡素な片手打ち(片手持ちの日本刀)で武装するなどしていたが、戦国時代にはで武装し密集隊形で運用されるようになっていた。また16世紀後半には南蛮貿易により火縄銃が伝来し、日本の刀鍛冶が改良火縄銃を大量生産し、足軽が火縄銃で武装するようになっていた。このような戦場の環境の変化により、薙刀は廃れて槍に取って代わられ、と火縄銃が混用されるようになり、太刀はより軽量で携行しやすい打刀にとって代わられたのである。見た目が豪壮な太刀は次第に上級武士の権威の象徴となっていった[39]。また太刀のが切り取られて短小化され根元の刃が潰され打刀に改造されていった。このような短小化を磨上げという[40]

朱漆金蛭巻大小、16世紀、安土桃山時代、重要文化財、東京国立博物館蔵。豊臣秀吉が所有していた。

戦国時代には、火縄銃の登場などにより甲冑もより強化された当世具足が搭乗すると、一時普及した片手打ちは廃れて再び両手で柄を握る姿に戻り、身幅広く、重ね厚く、大切先の刀剣が現われ始めた。この姿が豊臣秀吉による天下統一後にも受け継がれ、豪壮な「慶長新刀」体配を生み出す土壌となった。南北朝時代から使われた大身槍[41] が室町時代末期から安土桃山時代の軍記などの文献にはよく現れ[35]、南北朝時代に流行した大太刀・野太刀が安土桃山時代に再び流行したとする説もある[42]。また、南北朝時代に大太刀の改良型である長巻が登場し、戦国時代に最もよく使われた[35]

青漆銀流水文半太刀大小 16-17世紀、安土桃山か江戸時代、東京国立博物館蔵

戦国時代から江戸時代にかけての一時期、打刀を太刀のように刃を下に向けて帯に差す半太刀拵の様式が正装に取り入れられた。これは太刀から打刀への過渡的な状況を反映したものとも考えられている。帯に留める栗型は打刀様式で、鞘の刀装金具は太刀の様式が混ざるなど、拵も打刀と太刀の折衷的なものになっているものも多い[43]

江戸以降

刀剣史上注記すべき点としては、長らく続いた備前長船一派が度重なる吉井川の氾濫で天正末期に壊滅したことがある。これによって備前鍛冶の伝統は一時休眠状態となった。そのため、各地の大名は量産体制のある美濃の鍛冶をこぞってお抱え刀工に採用した。この点は「新刀」を語る上で非常に重要なポイントとなる。

刀剣史では、慶長以降の作刀を「新刀」として、それ以前の「古刀」と区別がされている。違いは地鉄にある。従来は各々の地域で鋼を生産していたため、地方色が強く現われた。しかし、天下が落着いたことにより、全国にある程度均質な鋼が流通するようになり、刀剣の地鉄の差が少なくなったため、基本的に新刀の地鉄は綺麗である。また鎖国に伴い、中国製の(原始的)高炉製鉄法による輸入鉄流通が途絶え、国産のたたら鉄に切り替わった。新刀の祖は埋忠明寿と言われており、その弟子に肥前忠吉がいる。

刀 銘 以南蛮鉄於武州江戸越前康継、康継は家康のお抱え刀工であるが本作は安土桃山時代の作、特別重要刀剣。

備前鍛冶が壊滅状態に陥ったこともあり、京都に近い美濃国から京都、近江、越前、尾張、大坂へと刀工が移住していった。中でも京都に入った兼道一族は、全国を転々とし京都堀川に居住した国広一派と技術交換含め、新刀期の技術的基礎を築いた。諸国の刀鍛冶は両派のいずれかに入門し、身につけた技術を全国へ伝播していった。即ち、新刀の特色としては、美濃伝の特徴である「鎬地に柾目が流れる」ものとなる。徳川家康越前下坂康継をお抱え工としているが、康継も美濃伝を受け継いでおり、一部地域を除いて、文字通り美濃伝が主流となった。これが新刀初期の実態である。

徳川幕府により武士の正装は長い打刀と短い脇差大小二本差と定められた。本作は大小二本差であるが登城時の意匠の基準を満たさないため正装用ではない。

江戸時代に入り、風紀取締りを目的として、武家の大小差し(打刀、脇差)の差し料の寸法、町人などの差し料の寸法が制定された。登城する際の正装の大小二本差は黒一色の漆塗り鞘、黒色の柄糸、白色のエイの皮の柄巻と定められた[44]。特に武家の大小差しの新規需要が多く、寛永から寛文延宝にかけて各地の刀鍛冶は繁栄し、技術水準も向上した。一方で幕末までの間、普段差しを中心に用いられる短刀の作刀は急激に減る。江戸初期に活躍した各地の著名刀工は以下の通り。北から 仙台・国包、会津・政長、兼定、江戸・越前康継(初、2代)・江戸石堂是一(初代)、相州・綱広、尾張・伯耆守信高(初代)・政常・氏房、加州・兼若、越前・下坂一派(忠国・重高・包則)、京・堀川派(国路・国安・国儔)・三品派(金道・吉道・正俊)、大坂・親国貞、紀州・重国・紀州石堂正俊、筑前信国派、福岡石堂一派(守次、是次)、肥前・忠吉一派(初代・忠廣)、正廣一派(初代・河内大掾正廣)、薩摩・波平一派などである。寛文頃から江戸での鍛刀も盛んになるが、元和、寛永時期においては、京都、越前、美濃が中心地であった。

刀 銘 長曽祢興里入道乕徹/(金象嵌)寛文五年十二月十六日 山野加右衛門六十八歳永久(花押) 四ツ胴截断、東京富士美術館蔵。

江戸においては、幕府お抱え刀工である越前下坂康継一派が大いに活躍し、また、石堂(いしどう)と呼ばれる備前鍛冶の末裔を名乗る刀工、室町期の法城寺(ほうじょうじ)派の末裔を名乗る刀工、武州土着の下原鍛冶も出現し、お互い技量を高めた。また、島原の乱以降平和な時代が続き、寛文頃になると、剣術竹刀稽古中心となった影響で、竹刀に近い、反り浅く伏せごころで小切先詰まる刀が求められた。この姿を寛文新刀と呼び、江戸時代の刀剣の姿の代表である。寛文新刀の中心地は江戸であり、その武骨な姿が武芸者に好まれた。主な刀工としては、江戸越前康継(3代)・石堂是一(初、二代)・和泉守兼重上総介兼重大和守安定法城寺正弘・八幡平高平・そして特に著名な長曾祢虎徹興里興正がいる。少し後れて、石堂派から日置光平、対馬守常光がいる。

大名家から将軍家へ、代替わりの時期に刀剣献上が行われている。家督相続の重要性が表されている。

交易の中心地の大坂には、近郊から刀工が次第に集まってきた。同時代の著名な刀工としては、三品派(親国貞・国貞(二代)・吉道・河内守国助)、紀州から移住した大坂石堂派(康広、多々良長幸)、地元の助廣(初代、二代)、粟田口忠綱一派(忠綱、国綱)がいる。これらの刀工集団の作を大坂新刀と呼び、新刀の中でも特に区別される。その特徴は地鉄にあり、地鉄の美しさは新刀内でも群を抜く。背景には大坂の力と、古来から鋼の産地である備前、出雲、伯耆、播磨を近辺に控えていることもあるだろう。そして、美しい地鉄の上に華やかな刃文を創始した。特に有名なのは、大坂正宗と賞される国貞(二代)井上真改の匂い沸深い直刃と、助廣(二代)津田助廣が創始した涛瀾乱れ。中には「富士見西行」「菊水刃」と呼ばれる絵画的で華美な刃文も登場したが、保守的な武士からは退廃的だと忌避されるものもあった。また、元禄以降太平の世になると新たな刀の需要はなくなり、刀を作る者も殆どいなくなった。中には武芸者が特注打ちで流派に即した刀を鍛えさせているがごく少数である。その中でも粟田口忠綱二代の一竿子忠綱は刀身の出来、彫りともに優れている。

黒蝋色塗鞘大小拵[鐔、縁頭、目貫]銘 石黒政美作、18世紀か19世紀
[小柄、笄]銘 柳川直政作、18世紀、江戸時代、東京富士美術館

刀剣の需要が衰退する一方で、(つば)、小柄(こづか)、目貫(めぬき)、(こうがい)などの刀装具の装飾が発達し、これらの装剣金工の分野にも林又七・志水甚吾を代表とする肥後鐔工、京透かし鐔工、山吉兵などの尾張鐔工、江戸の赤坂鐔工・伊藤鐔工、全国に散った京正阿弥一派と言った鉄地を細工する鐔工だけでなく、町彫りの祖と呼ばれる横谷宗珉を始め土屋安親、奈良利壽、濱野政随など、従来の後藤一派の伝統から離れた金工職人に殊に独創的な名工が生まれた。刀剣は消耗しないものの、刀装具は各々時代の流行に合わせて変化し(一方で登差しなど掟に縛られた拵えもある)、刀装具の繁栄に反比例するが如く、鍛刀界は衰退していく。

幕末動乱期

黒蝋色塗鞘大小拵、19世紀、東京富士美術館

黒船来航前夜の安永前期。黒船来航を待たずして度重なる飢饉、政策の失敗続きなどにより、武家の衰退が顕著となり、社会の変革の風を人々が意識・無意識に感じ始めた。そんな時代に出羽国から江戸へ上り、鍛刀技術を磨くものが現れた。安永3年に正秀と銘を改めた川部儀八郎藤原正秀、即ち新々刀の祖と呼ばれる水心子正秀(すいしんしまさひで)の登場である。これより明治維新までの時代を「新々刀」と区分する。特徴としては、製鉄技術の更なる進歩により綺麗な鉄が量産されるようになったため、地鉄が無地に見えることがある。後期には洋鉄精錬技術も取り入れられ、さらに無地風の地鉄が作られた。地鉄の変化と焼入れ技術の低下からか、総じて匂い口が漫然とするものが多い。また逆行するが如く、色鉄を用いたり、無理に肌を出した刀や、古作の写しものが出現する。姿は各国でまちまちであるが、総じて身幅広く、切先伸び、反りのつくものとなる。

新々刀初期に、鎌田魚妙という侍が『新刀弁疑』という著書で、名刀の条件に、沸匂深い作を主張し、大坂新刀の井上真改津田助廣を褒め称えた。そのため新々刀初期には江戸時代前期の津田助廣が創始した華麗な涛瀾乱れを焼くのが流行した。しかし、本科と比べると、地鉄は無地調で弱く、刃は鎬にかかるほど高く焼き、そして、茫々とした締まりのない匂い出来で、斑沸つく作が多い。実用刀とはほど遠いと感じた正秀は、鎌田魚妙の説に疑問を抱き、実用刀剣の復古、即ち鎌倉時代・南北朝時代の刀剣への復古を唱えた。この復古運動は、後の勤王思想が盛んになりつつある社会情勢と響きあい、各地の鍛冶と交流し(相州伝、備前伝の秘儀を学ぶべく弟子入りした)、同時に大勢の門弟を育てた。卸し鉄など様々な工夫を凝らし目標とする鎌倉・南北朝期の地鉄作製を試みるも、同様のものは実現しなかった。

正秀の弟子は全国各地へ散り、文字通り新々刀期の刀工のうち、正秀の影響を受けていないものは皆無と言って良いほどである。著名な弟子に大慶直胤、細川正義、加藤綱俊がおり、各々正秀と同様、多くの門人を育てた(周防岩国の青龍軒盛俊は加藤綱俊の門下)。

大小源清麿 嘉永元年八月日、江戸時代末の1848年、特別重要刀剣。(刀と脇差の画像の縮尺は原寸に比例せず)

正秀一派が活躍する一方で、信州から源清麿が登場した。はじめは大坂新刀の流れを汲む尾崎一門の河村寿隆に作刀を学び、侍になるべく江戸へ出、幕臣であり軍学者であった窪田清音に才能を見出され、各家伝来の古名刀の写しを作る。源清麿は初銘を「秀寿」と切り・「環」・「正行」・「清麿」と推移する。四谷に住んだため「四谷正宗」の異名を持つ。古作の現物を見て写しを造り腕を磨いたため、正秀一門の写し物とは姿、出来が大いに異なる。特に左文字写し、志津兼氏写しを得意とした。地鉄も他の新々工とは一線を引き、鍛え肌美しく力強い。また、焼き刃は古作の如く、盛んに金筋を交える。しかし、多額の借金(鍛刀の前受け金)を残し42歳で自殺した。弟子に栗原信秀、藤原清人、鈴木正雄がいる。藤原清人と栗原信秀は、師匠が自殺した後、残された約定の鍛刀を引き受け、借金を返したという逸話を残している。

尊王攘夷派の志士の間では、勤皇刀勤王拵と呼ばれる3尺前後で反りが少ない長寸の打刀が流行し、佐幕派である新選組の隊士も対抗として長大な打刀を欲したことから、需要に合わせ長寸の刀が多く作られた。新選組局長の近藤勇打刀とほぼ同寸の長脇差を好み、副長の土方歳三も刃長2尺8寸の和泉守兼定や1尺9寸5分の堀川国広を用いていた。幕末期には豪商などが華美な刀装具を作らせる例もあり、土方の和泉守兼定も凝った刀装であったが、多くの志士は薩摩拵のような実用性を重視した拵を好んだ。

水戸勤皇派による天狗党の乱大老井伊直弼が暗殺された桜田門外の変などがあり、諸国でも佐幕派と尊王攘夷派が入り乱れて闘争が行われるようになる。時代環境に合わせて、江戸初期以降、作刀数の少なかった短刀や長大な打刀の需要増加により作刀が再び繁栄を始めたところで明治維新を迎える。作刀数は多かったものの、実戦よる破損や紛失もあり残存数は多くない。

明治から第二次世界大戦

帝国陸軍軍旗のもと、将校軍刀で、下士官銃剣を着剣した小銃で戦う模様を描いた錦絵日清戦争平壌の戦い

明治6年、オーストリアウィーンで開かれた万国博覧会に日本刀を出品。国際社会に日本人の技術と精神を示すものであった。しかし明治6年(1873年)に仇討ちが禁止され、明治9年(1876年)には廃刀令が発布され大礼服着用者・軍人警察官以外は帯刀を禁止されたことにより、日本刀は急速に衰退してしまった。新たな刀の需要は殆どなくなり、当時活躍した多くの刀鍛冶は職を失った。また、多くの名刀が海外に流出した。それでも政府は帝室技芸員として月山貞一宮本包則の2名を任命し、伝統的な作刀技術の保存に努めた。また実業家の光村利藻は、刀装具(鞘、鍔、目貫など)の技術が失われるのを防ぐため、熱心に幕末から明治時代にかけての高度に装飾された刀装具など3,000点を収集し、これらのコレクションの一部の1,200点は、現在根津美術館に収蔵されている。

歩兵連隊長を筆頭に、連隊長(将校)は日本刀を仕込んだ両手握りサーベル拵えの明治19年制式刀、左後方の本部附見習士官・下士官は日本刀風拵えの九五式軍刀、他の一般下士官兵は着剣した三八式歩兵銃で軍旗の敬礼を行う姿(日中戦争南京攻略戦

創設されてまもない日本軍陸軍海軍)は1875年(明治8年)の太政官布告によって将校准士官の軍装品として「軍刀」を採用した(なお、同布告では野戦や常勤時に使用するこの軍刀とは別に、正装時に用いる「正剣」も採用されている(のち廃止)。様式はサーベルではなくエペ)。陸軍・海軍ともに欧米列強に範をとったため、当初は拵え・刀身ともにサーベルであったが、西南戦争における抜刀隊の活躍や日本刀に対する日本人の想い入れから、次第にサーベル様式の拵えに日本刀を仕込むのが普通となり、さらには日露戦争における白兵戦で近代戦の武器としての刀剣類の有効性が再評価され、それら軍刀需要で日本刀は復権をとげた。さらに昭和時代には国粋主義的気運が高まったことと満州事変第一次上海事変における戦訓もあり、陸海軍ともにサーベル様式に代わり鎌倉時代の太刀拵えをモチーフとした、日本刀を納めるのにより適した将校軍刀拵えが登場した。また、同時期には将校准士官用と異なり長きに渡り拵え・刀身ともに純サーベル様式(三十二年式軍刀)であった下士官用の官給軍刀でも太刀拵え・日本刀々身(九五式軍刀)が採用された。しかし同時に、軍刀として出陣した古今の数多くの刀が戦地で失われることにもなった。

日本軍において下士官兵(騎兵輜重兵憲兵など帯刀本分者)の軍刀は基本的に官給品であり扱いは「兵器」であるが、将校准士官の軍刀は上述の建軍まもない1875年の太政官布告以降、第二次世界大戦敗戦による日本軍解体に至るまでほぼ一貫して服制令上の制式であり、そのため扱いは「兵器」ではなくあくまで軍服などと同じ「軍装品」であった(軍刀を含む将校准士官が使用する大半の軍装品は自弁調達であるため、官製のものを購入していても「私物」であった)(「軍服 (大日本帝国陸軍)」および「軍服 (大日本帝国海軍)」参照)。

九五式軍刀(官給軍刀)。鞘を除く拵え自体は日本古来の太刀をイメージしながらも実戦に特化した全金属製となる。刀身も実戦に特化した陸軍造兵廠製の日本刀

従来の日本刀は北方の極寒の中では簡単に折れるため強度に対して、また海軍からは錆に対する不満が高まっていたため満州事変以後、陸海軍の工廠帝国大学など各機関の研究者は拵えだけでなく刀身においても実戦装備としての可能性を追求した。例として、官給軍刀の刀身をベースにした陸軍造兵廠の「造兵刀」、満州産出の鋼を用いた南満州鉄道の「興亜一心刀(満鉄刀)」、北支・北満や北方方面の厳寒に対応した「振武刀」、海軍が主に使用した塩害に強いステンレス鋼使用の「不錆刀」など、各種の刀身が研究開発された。日本刀の材料・製法を一部変更したものから、日本刀の形態を模した工業刀に至るまで様々な刀身が試作・量産され、「昭和刀」「昭和新刀」「新村田刀」「新日本刀」などと呼称された。

将校准士官の軍刀は軍装品であり私物であるため、これら特殊軍刀以外にも先祖伝来のものや内地で特に入手したような旧来の日本刀(古刀から新作現代刀まで)も大量に軍刀として使用された。広義に「軍刀」とは軍隊で使用される刀剣を総称(通称)する単語であり、場合により語弊が生じることにも注意を要する(「軍刀#刀身」参照)。

第二次世界大戦後

太平洋戦争大東亜戦争)終結後、日本刀を武器であると見なした連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により刀狩が行われ、蛍丸を始めとした数多くの刀が遺棄・散逸の憂き目にあった(熊本県のように、石油をかけて焼かれた後海中投棄された例もある)。また、「刀があるとGHQが金属探知機で探しに来る」との流言も飛び交い、土中に隠匿して、その結果刀を朽ちさせ駄目にしたり、回収基準の長さ以下になるように折って小刀(こがたな)としたり、日常生活に使えるよう鍛冶屋に持ち込み、その他日常用の刃物に改造したりと日本刀の価値を貶めた例は枚挙に遑がない。GHQに没収された刀の多くは赤羽にあった米軍の倉庫に保管され、占領の解除と共に日本政府に返還された。しかし、元の所有者が殆ど不明のため、所有権は政府に移り、刀剣愛好家の間でこれらの刀剣は「赤羽刀」と呼ばれている。

一時は日本刀そのものの存続が危ぶまれたが、日本側の必死の努力により、登録制による所有が可能となった。登録されていない刀は、警察に届け出た後に審査を経て合格すれば各都道府県教育委員会から登録証が交付される。この登録がされた刀は、携帯や運搬に関しては銃刀法による制限はあるが、単なる所持については許可は必要なく誰でも可能である(条例により18歳以下への販売を規制している地域はある)。なお、購入・相続など所有者変更の際には、登録証記載の各都道府県教育委員会への届け出が必要である(詳細は「銃砲刀剣類登録」を参照)。

今日では日本刀は武器ではなく、将棋盤碁盤の製作工程の太刀盛りに日本刀を用いるなどの例はあるが、基本的には居合道抜刀道といった武道用の道具、絵画陶器と同格の美術品であり、その目的でのみ製作・所有が認められている。世界の刀剣の中でも日本刀は、美術品としての価値が高く、国宝重要文化財に指定、あるいは重要美術品に認定されたものもある。日本刀は独自の鍛錬による、さまざまな刀姿、刃文、帽子、茎形、銘を鑑賞する、いわば鉄の芸術品であり、その価値を知るには、特色をよく理解しなければならない。日本刀の鑑賞の歴史は千年以上の歴史があり、名刀と言われる日本刀は、実際に武器として使われず、千年以上時を経ても健全な形で残っていることも多い。現代刀に関しては、刀匠1人当たり年に生産してよい本数の割り当てを決め、粗製濫造による作品の質の低下を防いでいる。しかしその一方で、作刀需要が少ないため、一部の刀匠を除き多くの刀匠は本業(刀鍛冶)だけでは生活が難しく、かと言って上述の本数制限もあり無銘刀は作刀できず、武道家向けに数を多く安く作りその分稼ぐこともできないため、他の伝統工芸の職人と同じく数々の問題を抱えている。そのような状況の中でも現代の刀匠も、美術品としての日本刀の作刀を、さまざまな形で現代に伝えている。


注釈

  1. ^ 稀に奉納用の刀などで目釘孔がないものがあるほか、特に脇差短刀では平造りや菖蒲造りなども多い。
  2. ^ 刀剣メーカーのコールドスチールなどが製造している。
  3. ^ 日本最古といわれる観智院本。「後鳥羽院御字被召抜鍛冶十二月結番次第」という記述がある[20]
  4. ^ 正宗賞の受賞刀の解説文によると「均整のとれた力強い太刀姿や現代丁子とは明らかに異なる焼刃の古色さもさることながら、その映りである。備前伝を手掛ける多くの刀匠にとっては刃文と共に地鉄、ひいては乱れ映りの再現が長年の課題であったが、本作では随所に現れた地斑状の暗帯部によって乱れ映りが明瞭に形成され、古作に近い雰囲気を湛えるのに見事成功している。このことから映りの解明に向けて大きく前進したことは間違いなく、一つの到達点に達したと言え、革新的な功績として今回の受賞は称えられるべきである」としている(『刀剣美術』、平成26年6月号より)。
  5. ^ 『実戦刀譚』の著者である成瀬関次は、柄に使われる木材は朴が最も多く、その中でもくるいの少ない板目・柾目のしっかりしたモノを使うべきであり、若木、樹皮に近い部分、節目、逆目、木取の都合で斜になったモノは使ってはならないとしている。
  6. ^ 二つ纏めて縁頭とも呼ばれる。
  7. ^ 山本七平は「自身の経験に照らして日本刀で斬れるのは高々3人である」としている(『私の中の日本軍』より)

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