日本刀 日本刀の多様な側面

Weblio 辞書 > 同じ種類の言葉 > 文化 > 武具 > > 日本刀の解説 > 日本刀の多様な側面 

日本刀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 03:10 UTC 版)

日本刀の多様な側面

日本刀の性能と力学的性質

日本刀は「折れず、曲がらず、よく切れる」といった3つの相反する性質を同時に達成することを追求しながら作刀工程が発達してきたと考えられている。「折れず、曲がらず」は材料工学においての強度靭性の両立に相当する。両者の均衡を保つことは高度な技術の結果である。また「よく切れる」と「折れず」の両立も難しい。これについては刃先は硬く、芯に向かうと硬さが徐々に下がるいわゆる傾斜機能構造を持つことで圧縮残留応力を刃先に発生させて実現されている。

日本刀の切れ味については、様々なところで語られる。有名な逸話として、榊原鍵吉同田貫一門の刀による「天覧兜割り」がある。ただし、この切れ味も最適な角度で切り込んでこそ発揮できるもので、静止物に刀を振り下ろす場合はともかく、実戦で動き回る相手に対し常に最適の角度で切り込むのは至難の業とされる。

日本刀のうち、江戸時代の打刀は、江戸幕府の規制(2尺9寸以上の刀すなわち野太刀は禁止された)と、外出中は本差脇差をセットにした大小を日常的に帯刀することから、(江戸幕府の)創成期と幕末期を除き、刃渡り2尺3寸(約70cm)程度が定寸である。また、江戸時代には実戦に供する機会がなくなり、試し斬りが多々行われた[68]。刀剣は一般通念よりも軽く作られている。

以下は各地域発祥の刀剣との比較。なお、重量は全て抜き身の状態のもの。

  • 打刀(日本):刃渡り70-80cmの場合 850-1400g程度(などを含める、抜き身の状態。刃渡り100cm程のものは、2,000g前後)
  • サーベル(世界各地):刃渡り70-100cmの場合 800g-1500g程度(地域によって異なり、この値より上下する場合もある)
  • シャスク東ヨーロッパ):刃渡り80cm 900-1,100g程度
  • バックソード(西ヨーロッパ) :刃渡り90cm以下、1200g-1300g(籠状の鍔も含む)
  • ロングソード(西ヨーロッパ) :刃渡り90-110cm(全長は100-130cm) 1300-1500g
  • 中国剣中国):刃渡り70-100cmの場合 900-1,000g程度 (両手用、刃渡り100cmほどのものは3,000g程度以上)

以上は近代まで使われていた物である。日本の刀は、他の刀剣と比べ柄が長く、刃の単位長さ当たりの密度が低いわけではないが、両手で扱う刀剣の中では最も軽量な部類に入る。なお、日本刀は「断ち切る」ことに適した刀剣であり、一般的には切断の際に手前に引く必要性があるといわれているが誤りである[69] ともいわれる。また切断の際の肘を伸ばしそのまま手前に下ろすという一連の動作を行えば自然に引き切りになるため、無理に引いて斬る必要性は薄いと言う意見もある[70]

日本刀の性能に言及されている史料

日中戦争支那事変)中、日本軍将校2人が百人斬り競争を行ったという。将校の一方は自らの関の孫六について、56人の時点で刃こぼれが1つ、86人の時点で「まだ百人や二百人斬れるぞ」と言ったという(東京日日新聞1937年11月30日・同12月4日)。これについて「名誉毀損」として訴訟が起きており、「全くの虚偽であると認めることはできない」とされた高裁判決が確定している。ただし、この裁判自体は戦時報道の虚偽性に関するものであり、日本刀の性能に関しては判断されていない。判決自体も結局のところ「総合的には真実とも虚偽ともどちらとも言えない」というような曖昧なものである。[要出典]

刀工の成瀬関次は『戦ふ日本刀』(1940)で日本刀での47人斬り他複数の逸話や伝聞の信憑性を肯定的に述べている。秦によると、鵜野晋太郎という少尉が『ペンの陰謀』に、捕虜10人を並べてたてつづけに首を切り落とした経験を寄稿したという[注 7]

怒羅権のメンバーだった汪楠は、自身の持ち金を盗んだヤクザへの報復で組事務所に飾られていた日本刀を用いた際に、相手の二の腕あたりの骨はきれいに切ることは出来たがは断ち切れず、続けて同じ刀で首を切ろうとしたが首の骨に阻まれて切断できなかったと証言している[71]

戦史上の日本刀

日本の古代で軍事史料の見いだせるのは弥生前期(紀元前300~100年頃)の出土兵器からであり、当時は石器・青銅器が主に使用され、青銅製の剣(両刃を剣といい、片刃を刀という)や矛(剣に長柄をつけた刺突・斬撃両用の兵器。穂先が細鋭で刺突専門のものを槍というが、はっきり区別されないものもあるという説がある)・戈などが末期の末頃に出現しており、鉄製品では刀子(小刀)や銛と思われるものが発見されている[72]

弥生中期(紀元前100年頃~紀元100年頃)になると、前半の出土兵器は依然として青銅製の細鋭な剣や矛・戈などであるが、期の中期より青銅製は少なくなり鉄製の剣や矛が出現するようになる。しかし、当時の倭人の冶金術は未熟だったために、鉄剣は30~40cm程度の長さに過ぎず、護身用程度ではあるが、矛の穂先としては十分な長さであり、そこで主兵器は鉄矛だったと考えられ、青銅からより鋭利な鉄に代わった事はこの時期に世代の交代があったと考えられ、その他に、石や青銅の鏃が出土しており、鏃に鉄製品が出土しないのは、戦で大量に消耗される鏃にまで鉄が向けられず、不要になった青銅や石や骨鏃で間に合わせたと考えられ、弥生中期末には日本刀の前身と考えられる鉄大刀が出現するが、これはおそらく漢よりの輸入品で、豪族などの貴重兵器であり、また、鏃がこの程度では弓矢の力は必ずしも決定的ではなく、この時代の戦は手盾と手矛を持って戦う近接戦闘が主なものだった。漢書・後漢書によれば、西暦0年代頃より約50年の間に倭奴国が倭の代表的国家となり、さらにその後約50年の間に師升が倭人諸国を統一し、その代表者となった[72]

弥生後期(100~300年頃)になると、出土品に鉄製の長剣や大刀・鏃などが出現し、矛も依然として見られる。これらはおそらく日本列島産で、原料は砂鉄を用い鍛造法で作られ、後期の終わりになるに従い1m程度の大刀が多数国産できるようになったが、これは、製鉄技術が砂鉄の多い山陰や近畿各地に導入されたためであり、大倭王部族の鉄器独占が終わったことを意味するものでもあり、また、広幅の銅矛と銅剣が西日本で乱雑に棄てられた状態で発見されており、銅広矛などは祭儀用または部族の象徴として用いられたとされているので、この廃棄現象は鉄剣・矛の普及に伴うこれらの敗北を示すものである。馬は日本では乗用にならない南方系の小型馬が南九州以前の地に生息していただけで、騎乗の習慣はなかったが、新羅は早くから小柄の馬ながらも乗馬の習慣があり、戦にも若干の騎兵を使用したが、装甲のない軽騎兵のため倭の歩兵も十分に対抗できた[72]

弥生後期は卑弥呼より壱与に至る時代と比定され、中国における魏と西晋初期に相当し、卑弥呼時代を示す魏志を見て、師升時代と比べると、矛は同じだが鏃に鉄鏃が加わり、矢戦に大きく威力を増している。そこで卑弥呼軍は弓矢を主兵器とし、離れて敵に致命傷を与えて勝敗を決する戦法をとり、それでも敵が退却しない場合には手盾と手矛で接近戦を行うか、あるいは接戦を嫌って退却した。壱与の時代を示す晋書になると、卑弥呼時代に比べ、矛がなくなり、刀となり、鏃も骨がなくなり、鉄だけとなる。鉄の普及に伴い鏃が鉄だけになったのは当然として、問題は近接戦闘の主兵器である矛がなくなり刀が出現した事である。双方の戦意が旺盛で矢戦で勝負がつかず接近戦になった場合は手矛と手盾より、大刀と手盾の方が有利であるために、卑弥呼時代の弓矛軍は壱与の時代になって大刀弓軍に取って代わられたと考えられる[72]。壱与の女王国では卑弥弓呼を追放したが、彼の大和優先の方針は継承し、日本書紀の神武東征に見られる兵器は弓矢・盾・大刀(頭槌大刀)・石槌(石斧)や矛などであり、遠征軍が熊野で高天原より大刀の補給を受けて戦力を回復したとの記事は大刀が最も重要な兵器であった事を示しており、また甲冑使用の記事も見られるので、おそらくは指揮官や突撃兵が、植物や革製の短甲様の物を着用したと考えられるが、防護力も弱く、数も不足し、突撃兵全員には行き渡らなかったであろう。戦闘では木の置盾を並べて掩護とし、その直後に弓兵を置いて矢戦を始め、盾を少しずつ前進させ、矢戦を激しくし、それでも敵が敗走しなければ突撃兵が手盾と大刀で突進した。装甲が発達しないために矢戦の損害が多く、また正面衝突では容易に戦に決着が着かなくなるために、そこで、側背への機動が賞用され、敵を欺く計略や離間手段が盛んに用いられた[72]

その次の兵器の世代は古墳前期(300年前後)より、古墳中期の中頃・五世紀上代まで続いた。この時代には薄鉄板を革紐で綴った歩兵用の短甲や鉄兜が出土し、これらの使用により、突撃兵の装甲は著しく強化され、片手に盾を持つ必要がなく両手で長柄兵器を使用できるようになり、突撃兵用の4~5メートル以上もある長槍が、出土品として急激に増加しているのもこのためである。短甲を着ければ腕や脚は自由に動かせても、胴は曲げられず動作の小回りが利かず、威力を発揮するには多人数の集団による外ないために、そこで鉄短甲・兜で装甲し、長槍を構え、槍襖を作って前進する古代ギリシアのファランクスと類似した突撃兵集団が、倭軍の戦闘力の中核になったと考えられている。この短甲・長槍は半島ではほとんど出土せず倭軍独自のものなので、その後の半島での倭軍優位の源泉となった。四世紀末以降短甲の付属品として頸鎧・肩鎧・籠手・草摺なども出現し、突撃兵の装甲はますます強化され、刀剣は更に長大となり、1.2メートルに及ぶものまで国産され、これらの装備をつけた兵士の姿を、初期の武人埴輪により想像する事が出来る[72]。その後、高句麗騎兵に敗れた倭は兵器装備にも大きな影響を受け、古墳中期以降中期末に至る時期にその出土が見られ、すなわち馬具などの乗馬用具および鉄札を革綴して作った騎兵用のケイ甲がそれで、馬鎧や馬兜すら見られる。馬具はクツバミ・鞍・鐙などの揃った完全なもので、倭では大陸諸国に見られる「鐙なし騎乗」の時代はなかった。ただし、本期の挂甲の出土数は極めて少ない。倭軍に騎兵使用の記事が見えるのは444年の日本書紀が初見で、この時は高句麗騎兵を模した突撃矛騎兵用法だったと考えられるが、しかし、その後、倭では騎兵部隊使用の記事はほとんど見られず、馬は指揮官などの上層部の乗用に多く用いられ、しかも弓騎兵として発達する。これは倭では鏃が改良されて貫徹力を増したため(古事記)、矢がケイ甲をも突き抜くので突撃しなくとも矢戦で相手を倒せたことも原因だったろう。200年前に卑弥呼軍が弓を主兵器としたのと同様の現象である。短甲の本期後半に鉄鋲留の堅固なものが出現し、兜も衝角型に変わり、後には大陸系の眉庇付のものすら見られるに至った。鏃は前期に見られた広幅の矛型で切り裂く力を含めたものから、茎の長い槍の穂先型の貫徹力を重視したものに変化し、前期に見られた刺突専門の長槍は、柄をやや短くした矛に代わったが、おそらく乱戦になった場合に振り回して斬る事も出来る便利さを考えての事だと考えられる[72]

古墳後期の出土兵器の中で、短甲は全く姿を消し、挂甲が頻繁に出土しており、さらに頸鎧・肩鎧その他が加わり、装甲が強化され、徒歩兵も身体を動かすのに便利なように簡略化された挂甲を着用し、防護の不足を再び、盾で補うようになり、鎧は鉄甲より革甲に移った可能性もあり、したがって長矛は姿を消し、主兵器が大刀に代わった。この軍備により、歩兵は置盾などを掩護とし、敵騎兵の突進を強力な矢戦で阻止し、止むを得ず接近戦となったら手盾と大刀で対抗した。ケイ甲・盾・大刀歩兵方式は乱戦での各兵士の融通性ある身軽な活動を許し、古代ローマ歩兵が長槍方陣方式を廃して、盾(スクトゥム)と剣(グラディウス)での格闘方式を主とする軍団歩兵に移ったのと極めてよく似た経過をたどっている[72]

奈良・平安時代の軍隊は律令兵制が基幹となっている。「農民徴兵より構成された歩兵」を主体とした軍である。一般を歩兵とし、弓射に優れ、騎乗に慣れた者(必然的に平常馬を備えられる富裕・実力者の子弟に限られる)は騎兵隊に入れたが、極めて少数である。兵士は各人ごと一か月分の兵糧を納付し、また各人ごとに負担する兵器装備品は弓1・弓弦袋1・副弦2・征矢50・胡籔 (ヤナグイ、矢を入れて負う器)1・大刀1・小刀1・砥石1などである。上記は全て各人負担なので、短期招集の際は政府の負担は極めて少なかった。出動の際はこれらの個人装備の他に、兵士の配置により割り当てられる増加装備品を駄馬で携行したが、盾・矛・甲冑の大部や矢・大刀・弓の予備、さらに作戦間の所要糧食などはあらかじめ基地、たとえば多賀城に集積せねば作戦は開始できなかった。軍団には弩を備え、「隊」ごとに強壮な者2人を選び弩手として専門訓練を受けさせた。弩には機械弩・手弩があった。弓・刀などは一般に私家での保管を認められたが、指揮用具、弩・牟(長さ二丈の矛)・一丈二尺の矛・具装は私人の所有を禁じられた。律令歩兵の最も重点を置いた戦闘方式は弓・弩による遠戦である。これは挂甲の強度が十分でなく、時には綿甲のため、弓・弩の威力が防護力を上回ったためである。しかも当面の敵である蝦夷や隼人は一層、装甲が弱かった[72]。また蝦夷は騎射による機動戦を主体としていたため、刀槍が届く間合いでの戦闘は少なかったと考えられている。

俘囚により騎射の技術が伝わると、武士たちは「弓馬の道」を尊ぶ「騎馬弓兵」の性格が強くなったが、薙刀や太刀など打物も用いられており、騎乗中も刀は必ず装備していた。平安時代には騎射を主体としつつ、太刀で兜を殴ること相手を転倒させ、その隙に組付いて短刀でとどめを刺すための打撃武器であった[73]。また携帯しやすいため補助的な武装(サブウェポン)としても利用されたと考えられている。

『可然物(しかるべきもの)』という室町時代の刀剣一覧がある。これは家臣に報奨として刀剣を下賜する機会が多かった足利義満が、将軍家からの太刀はおそらくその家の重代の家宝にするだろうから、斬れない刀ではあっては差し障りがあるだろう、として宇都宮三河入道に対して特に「切れ味」を基準に「然るべきもの」60工をピックアップさせたものである[74]。このように当時の武士本人は日本刀を儀仗ではなく実用品と見なしており、家宝ですら美術的価値としてではなく武器としての性能が最も重視されていた[75]

近代以前の戦史における日本刀の役割についての論争

鳥飼潟の戦いにおいて元軍に弓を射る白石通泰の手勢。太刀を携行している。

日本刀が日本史上の戦場でそれほど活躍しなかったと主張する論者がある[76][77][78][79][80]山本七平鈴木眞哉、横山雅始、本郷和人加来耕三)。

鈴木眞哉は、日本刀が普及していた理由は、首を切り落として首級をとるために必要不可欠な道具であったからだと結論づけている。しかし、そのような用途では脇差短刀の類で十分であり、太刀打刀のような中型の日本刀が普及した事の説明にならない。山本七平のものは、彼自身が戦時中に軍刀で死体を切ってみた感想に基づいた意見である。また、山本七平が世界中の合戦において槍が主武器であるために刀剣の出番はほとんどなかったのではないかという推測をし[76]、鈴木眞哉が日本刀全般の実用性に疑問を呈しているのに対し[77][78]、横山雅始はほとんどは戦国時代の日本刀と剣術についてのみ触れ、それ以前の時代についての解説はほぼ省いており[79]、戦国時代の古刀については主力武器ではなく、いざという時の補助的な武器であったが、均衡が取れていることや重量の面で非常に扱いやすく操作性が良いという点は認めている[79]

日本刀不要物論において彼らが挙げた根拠は以下のもの。

  1. 南北朝~戦国時代における合戦における負傷理由のうち、刀傷は弓矢による傷より圧倒的に割合が低い。とする[77][78]
  2. 鎖帷子を着用した部位に対する斬撃は威力を減じる[78][79]
  3. 刀身と柄が一体でなく、その接合方法上強い打撃に耐えられない構造上の問題があること[77]。それに比べて、長柄物は柄が木製である特性上刀よりも容易に毀損する。刃の薄いものは力を加える方向によっては容易に変形や毀損を来たし、日本刀の利点である切れ味が失われる。
  4. 間合いの長い武器には野太刀や長巻もあるが槍の方が安価だった[77]。高品質の名刀も高価だった。
  5. 野太刀は運搬に不便で手入れにも時間がかかった[77]
  6. 南北朝時代における野太刀の流行は後に戦国時代における槍の流行に取って代わられている[77]
  7. 日本刀の草創期からすでに武士の主戦術は騎射だったこと[81]。槍(鑓)は初見が南北朝時代(元弘四年(1334年)南部家文書)で、鎌倉時代末期頃に成立した新様式の武器であり、中世末期には中心的攻撃具となり、近世の武士の象徴となり、戦国期後半以降、弓矢・槍・鉄砲が重視され、弓隊・鉄砲隊・槍隊という明確な役割分担を持つ足軽(歩兵)部隊と、打物騎兵である武将クラスとの組織戦の時代となっていく[38][82]。近世の戦士と兵士は中世後期と同じ、打物騎兵、打物歩兵、弓射歩兵に、新たに鉄砲歩兵が加わり、中世後期よりも歩兵と騎兵の連携がより組織的になり、また、打物の基本が槍となった[82]
  8. 日本人の間で広く剣術が盛んになったのは、平和な江戸時代になってからであったこと[79]
  9. 模擬合戦を実施した際、槍の次の間合いでは脇差や短刀による組討ちの出番となり、打刀は槍が壊れた時に使われ、組討ちになって使う武器としては刀は長さも重量も不適当であり、短刀か脇差程度がちょうど良いと結論づけられた[79]
  10. 模擬合戦において、刀の破損率が高く、刀は合戦上の兵器として強度における問題があるという説。何度か敵の攻撃を払ったり受けたりすると刃こぼれが生じ、ついには折れるか曲がってしまう[79]
  11. 模擬合戦において、刀対槍の勝率が刀が3で槍が7であった[79]。打刀や太刀は接近戦向きで、統制の維持されている集団が広い空間で戦う場合は長柄武器(槍や薙刀など)に対して不利だったこと[78]
  12. 打刀も陣太刀も戦場を走り回ったり、騎乗中の振動で鞘走り(勝手に抜け落ちる)の無いように鯉口を硬くしめてあり、とっさに抜こうとしてもすぐに抜けない[79][79]
  13. 戦国時代の合戦においては、メインウェポンである槍が折れたり痛んだ場合は、武将は刀を持っていても、後方へ下がって一時的撤退をする事を許された[77][79]

これに対して、以下の根拠から日本刀は有効な武器であったという反論がなされている(近藤好和、釈迦堂光浩、トマス・D・コンラン、平山優、松本一夫、高橋昌明、樋口隆晴、渡辺誠、東郷隆、森瀬繚)。

野太刀の背負い方を示した図。太刀と小太刀も携帯することを前提としている。
  1. 隊列が乱れた乱戦状態での闘い[35][83][84][85][86]、城内、市街地、屋内といったの閉所での戦闘[87][88]、および奇襲や夜襲を受けた時や山岳戦[89] など、長柄武器飛び道具が有効でない状況において「補助兵装(サブウェポン)」[89] として特に有効な武器であり、必要不可欠であった。2m程度で室内戦や物見役が使う短槍(手槍)も存在し、こちらも乱戦や閉所での戦闘に有効で[79][90]、城攻めでの室内戦に使われたのは刀ではなく短槍という説もある[89]。しかし刀の活用例は史料に残っており、「信長公記」は1573年9月の伊勢長嶋における一揆鎮圧では、織田信長が偽の降伏勧告で砦から誘き出した一揆勢に銃撃を加えたところ、激怒した70人余りが抜刀突撃で織田軍の包囲を突破した事と伝えており[89]、大坂夏の陣においても、藤堂家弓兵の加藤権右衛門と松宮大蔵が白兵戦に巻き込まれて刀を使った記録が残っている他[89]、島原の乱でも、松倉家の兵が槍の代わりに刀を用いた事が記録されており[89]、刀は短槍の代用品として使われたという説もある[89]。つまり、刀はリーチの長い槍や飛び道具である弓には出来ない役割を担っていた[89])。
  2. 戦国時代以前に開かれた多くの流派では槍、薙刀、太刀、小太刀、体術と各間合いで最適な技法を抱合しており、実戦ではその場で最適な武器を選んで使っていたと推測されている。武道として整理される以前の武術流派では武器術と体術を併用することは珍しいことではなく、新陰流や鹿島新當流などには鎧の隙間に刃を突き刺す技法もあるなど、刃を交わして斬り合うのではなく、突くことも考慮していた。このような流派の刀は切っ先が鋭く、刀身と鍔元は切れ味より頑丈さを重視して作られていた[89]。乱戦状態や室内などの狭い場所では打刀の長さですら長すぎて扱いづらい場合もあり、そういった時は脇差が使われた[84][85]。狭い所では打刀では長過ぎ、だからといって腰刀では短くて使いにくいという場合があった[85]
  3. 刀は驚くほど粗製の物が平然と使われていたこと[91]。打刀は戦国時代の足軽にも携帯が義務づけられいたが、支給品である「御貸刀」はコストカットのため安価な量産品(数打ち)であった[92]。戦闘が大規模化し足軽が多く動員された応仁の乱以降は刀の需要が爆発的に増えたが、足軽への武器の支給については合戦に臨む考え方により違いがあり、戦国時代の北条氏は軍令で「自分が得意とする武器を持参するように」と命じており、武器を所有していない者は、鎌や鍬でも良かったという[93]。一方、上杉謙信は足軽を招集する覚書に、槍や鍬を持参するように命じている[93]
  4. 二度にわたって、日本に遠征したモンゴル軍は日本軍の弓の威力だけではなく、日本刀の威力も見せつけられ、後に日本刀を大量に買い占めたという記録が残っている[93]。鎌倉時代初期には既に海外の刀剣愛好家に認められ、輸出品になっていたとも言われている[93]
  5. 戦国時代の戦闘の主流は槍を使った集団戦で、打刀を使う機会は南北朝時代に比べ減ったと言われる[31][72] が、「信長公記」を始め、戦国時代の戦いで刀が活躍したことを示す記録が少なからず存在し、「関ヶ原合戦図屏風」にも打刀を持つ兵の姿が多数描かれているので、状況に応じて槍と刀が使い分けられていたと考えられる[92]。ただし関ヶ原合戦図屏風では多くの兵は槍を武器にしており、この時代には槍が主力となったことがうかがえる。
  6. 足軽は手足の露出した簡素な鎧(お貸し具足)が多く、雑兵などは鎧なしの者もいるなど、鎧は全身を覆っていない[35][87]。一式を揃えられる高級武将とは違い、最前線で戦う足軽や雑兵は貧弱な武装と引き換えに身軽に動ける者が多かった[87]。弓や鉄砲を使う者は接近戦の頻度が少ないために甲冑を着ない者も多かった[87]。完全武装した足軽もいたが、ほとんどの者は何も防具を着用しないか陣笠のみの状態であり、大河ドラマのように兵士全員が甲冑を身に着けられるわけではなかった[87]。また、金属部分であっても最適な条件で斬りつけた場合は鎖帷子などでは切断されるし[94]、鎧であっても籠手など装甲の薄い部分なら怯むことになる[92]。日本の甲冑の籠手は西洋の鎧より脆弱で剣撃や鈍器での強い打撃には耐えられないが、軽く動きやすいという特徴があった[87]。中世と近世の戦乱のあった時代の日本刀はあまり切れない[31][81] が、それでも攻撃力は人体を斬り落とすには十分であり[81]、鎧の隙間から刺突するという攻撃方法もある[95]。そして、日本の甲冑は動きやすさを重視しているが手足の防御は薄かった[31]。合戦が日常化するにつれて、防具の改良は行われたが、変化は漸進的なものであり、特に手や脚の防具の改良は効率が悪かった[96]。甲冑を着込んだ者を刀で斬ることは難しく、刀を鈍器として使う他は甲冑の隙間を攻撃することが有効であり、主に喉・脇・股間などを突き刺す、または腕の内側や膝の裏など甲冑のない部分を狙った[87][87]黒田二十四将の1人、野口一成は左手の籠手で攻撃を受けてから、右手で敵の甲冑の隙間を刺す戦法で多くの武勲を上げているが、このような甲冑を装備しての剣術を介者剣術(甲冑剣術)、平服で行うものを素肌剣術といい、古い流派では両方が現代に伝わっている[87]。しかし、打刀は主に斬る攻撃で使われた[93]。足軽(農民兵)などの雑兵に貸し与えられた刀は「御貸刀」と呼ばれ、打刀が中心だった理由は太刀よりも短く軽量で、実戦でも扱いやすいからである[93]。「御貸刀」は粗悪品が多かったがために、防具で守られていない、手足を狙って斬りつける攻撃が主体であった[93]。刀が最も活躍するのは当然ながら白兵戦であり、刀の主な使い方は「斬る」「突く」「打つ」「払う」で、敵を斬りつけたり、敵の兜や鎧の隙間を切っ先で突いたり、兜の上から頭部を打撃して敵に脳震盪を起こさせたり、敵の槍や刀を払ったり、脇差であれば敵に投げつける用法もある[93]。ただし、剣術の訓練を受けていない足軽には難しい技法もある為に、足軽たちは主に乱戦時や槍が折れた時や敵に組み伏せられた時の護身用、または敵を組み伏せた時に敵の首を取るのを目的として打刀や脇差を使っていた[84][93]
  7. 弓や槍など両手を使う武器を持つ場合、打刀や太刀は腰に差して携帯可能、携帯中に両手が使える、短刀よりは長いという特徴があり、予備の武器として使われたという説がある。騎射を行う騎馬武者にこそ、未使用時に腰に差しておけるサブウェポンとしての太刀が重要であった[81]。また騎射を行わない、槍や薙刀や野太刀などをメインウェポンとする打物武者も、武器が壊れた時に備えて太刀や打刀を携帯していた。
  8. 血糊や多少の刃毀れにより切れ味が失われても、殺傷力に大きな影響は生じない。鎧は打撃に若干弱い面があり、南北朝期や戦国期には刀を刃物付き鈍器として扱う戦い方もあったこと(戦乱期の刀には蛤刃といって刀身を分厚くこしらえたものが存在する)[95][96]。また、打刀の場合は使用直前に細いノコギリ状の傷をつける場合もあり、これで鎧に対する打撃力は増した[97]。太刀が「打物」と呼ばれるのには理由があり、敵を斬ることも不可能ではないが、斬ることよりは打つこと、すなわち打撃武器としての効果の方が重視された[95][96]
  9. 精神性を重視されるようになるのは江戸時代以降であり、当時の様々な記録に残っている通り刀は実用品であった。美術的価値のみが重視されたのは近代以降であり、当時において美術的価値を持ったのは美術品として作られたごく少数の刀しかなかった。
  10. 南北朝期のトマス・D・コンランによる調査では矢傷が最も多くとも、刀傷や薙刀傷、鉞傷を含めた切傷が一定の割合で存在する。そして鈴木眞哉の南北朝期の負傷率統計は切傷がコンランの調査より少ないが、統計のデータ数がコンランのものよりも少ない[31][77][78][96] そして、南北朝期のコンランによる調査では戦場における負傷者と死亡者の数があまり変わらない[96]。さらに南北朝期のコンランの調査によると馬の場合は致死の原因も記載しているが、それによれば、太刀や槍などの白兵戦武器の方が弓矢より死亡率が高いことが明らかであること[96]。さらには南北朝期のコンランの調査によれば武士や馬を射殺すことは非常に難しかったようで、殺傷力が低いため、毒矢や火箭が使われたこともあったこと[96]。そして、南北朝期や戦国期の合戦手負注文や軍忠状といった古文書では矢傷が多いが、あくまでも負傷者の受け身の史料であり、”生存者の負傷原因”はわかっても、おおむね”戦死者の死因”が不明である[38][98][99]。これらの文書類の分析ではコンランによるものでも鈴木によるものでも、いずれも矢傷が最も多いことが指摘されているが、その矢を騎兵と歩兵のどちらが射たのか、さらに同じ騎兵でも馬上から射たのか、徒歩で射たのかといった攻撃側のことがわからないため、戦闘史料として、一見有効なようで、実は公平を欠く不完全な史料である。[38] そして、合戦手負注文(及び討死注文)においては記載される対象は勝った方の士分以上の者のみであり、徴収された雑兵・軍夫は対象外である[100]。そして、南北朝期~室町期(戦国期除く)において、矢傷が最も多くとも、それだけで戦闘が決せられるものではなく、戦闘に決を着けるのは、徒歩弓兵の掩護の下に突撃し、積極的に近接戦闘を交える事の出来る、騎射弓兵から「打物騎兵」に変じ、太刀や薙刀や大太刀などをメインウェポンとした武士たちの役割であった[95]。軍忠状などに基づく統計的な数値からの考察は一律的な分析に過ぎず、戦闘の具体像は個々の場合ごとに考えなければならない[101](負傷率の目安にはなるが[89])。また、釈迦堂光浩が指摘する様に致死率と負傷率の相関性だけで、武器使用の状況を云々する事は出来ず、致死率が高くなれば負傷率が低くなり、逆に負傷率が高いという事は致死率が低いとも言える。[101] なお、松本一夫はコンランの南北朝期の統計を引用した上で負傷率の割合から見れば弓矢が主流の武器だったとも思われるが、軍忠状や手負注文では負傷率しかわからず、死因が不明であるため即断は出来ず、相手を殺す確率は接近戦で使われる太刀や槍の方が圧倒的に高いと考えるのが常識的で、この時代には槍の使用率が低い事から、太刀が主流の武器だったとも推測出来るが、これもまた断定は出来ないとしている[98]。高橋昌明はトマス・D・コンランの南北朝期の負傷率統計と矢田俊文の戦国期の負傷率統計を引用した上で刀は接近戦以外では弓に敵わないとし、中世後期に太刀打ち戦が広まった事を認めつつも、南北朝期も戦国期も太刀傷や薙刀傷や槍傷の割合が矢傷よりも圧倒的に少なく、この様なデータが出るのは、矢傷は致死率が低いため「手傷」とカウントされ、太刀などの近接戦闘による負傷は多くが致命傷となり「討死」と一括され、その原因が記載されないという事情の他に、より根本的には近接戦闘自体が想像されているほど多くはなく、南北朝期でも、激戦が続いた元弘・建武年間(1331~1338年)を除いて中心が矢戦だったからであり、弓矢の戦が基本でありながら、打物戦や組討ちなど近接戦闘が無視出来ない比重で起こったのは、武士にとり武功の端的な表現は敵の首を取る事だったからだという鈴木眞哉の指摘が示唆的だとしている[82]。トマス・D・コンランは負傷率の割合から弓矢が南北朝期に最も有効な武器としつつも、馬上の太刀打ちこそが南北朝時代の特徴であり、騎兵こそが南北朝期に最も有利な軍事組織だったともしており、大太刀と薙刀は当時の槍よりも有効な打物であり、特に大太刀が南北朝期の戦乱において最も有効な打物だったとしている[96](馬上では太刀や薙刀はほとんど使用されなかったとし、それらは主に歩兵の武器であり、南北朝期から室町期においては合戦に本質的な変化はなく、刀の類が打物の中で最も頻繁に使用されたが、戦国期になると槍の使用率が刀にとって代わり、刀はほとんど使用されなくなると主張していた事もある[31])。樋口隆晴は太刀や薙刀や大太刀や大薙刀や長巻や槍や鉞や棒や金砕棒といった日本刀を含む様々な打物が南北朝期~室町期の騎兵のメインウェポンだとしており、その中でも薙刀が最強の白兵戦武器であり、長巻は大太刀の究極の形態とし、矢傷の割合が高くとも、太刀や薙刀などを主武器とする打物騎兵たる武士の突撃こそが戦闘に決を着ける事ができ、降りくる矢の中を突撃し(実際には自軍の弓兵で、敵の弓兵を制圧しなければ突撃は出来ない)、フェイス・トゥ・フェイスの近接戦闘で人を殺せるのは異常な能力や資質を持つ個人を除き、身分制社会の中では、戦いを生業とする武士のみが為せる技であり、確かに、呉座勇一や新井孝重が述べるように、長期にわたる戦争の結果、武士たちの戦意は下がる一方だったが、多くの場合、それは、戦争に参加しない、あるいは参加してもまともに戦わない事で家を守るためであり、逆に言えば、家や面子(武士という稼業を続けるためには重要であった)を守るためには、彼らはやはり容赦なく戦ったと指摘し、また、南北朝期には、少数ではあるがまだまだ存在する騎射騎兵と新しいタイプの「兵科」と言える打物騎兵と強力になった徒歩弓兵とさらに打物歩兵、この様な武器によって異なる戦技と特質を持つ将兵を連携させることが必要になったとし、現代的な視点で見れば「諸兵科協同」で戦うようになっていたと指摘する[95][102]
  11. 「甲陽軍鑑」や「雑兵物語」によれば戦国大名の軍勢同士が会戦に突入した場合はまず双方で弓を射かけ合う「矢戦」が開始されたと記されており、鉄砲が普及し始めると、弓矢よりも射程距離が長い鉄砲を撃ち合う「鉄砲競合」が最初に行われるようになり、互いに距離を詰めながら前進し、やがて弓矢が放たれる事になったとも記録されており、こうした事例は枚挙にいとまがなく、例えば、武田信虎は大永四年(1524年)に、甲斐国猿橋(大月市)で、北条氏綱の軍勢と会戦し、矢戦を行っているが、打物戦を行った形跡はない(「勝山記」「妙法寺記」)が、これは両軍が打物戦に突入するのを断念したか、小競り合い程度に収めたかを意味しており、合戦を矢戦から打物戦へ本格化させるか否かは大将の情勢判断次第だった。[103] 西国でも矢戦から打物戦に移行した事例は見られ、イエズス会士のガスパル・ビレラは(「那蘇会士日本通信」一五五七年十月二十八日(弘治三年十月七日)付、パードレ・ガスパル・ビレラが平戸よりインドおよびヨーロッパの那蘇会のパードレおよびイルマン等に贈りし書簡)「市民は叛逆者が自邸或いは田野において攻撃を受くるを見物す。双方まづ矢を放ち、更に近づきて槍を用ひ、最後に剣を交ふ」と弓から槍、槍から刀(剣)の矢戦から打物戦への変遷を記録している。[103] これは豊後大友宗麟に対し、筑前秋月文種らが叛乱を起こし、成敗された時の模様である。[103] 他にイエズス会士のガスパル・ビレラは1561年8月17日付きの書簡において、二隊に分かれた子供たちが「第一に少年投石し、次に弓及び銃を用い、次に槍、最後に剣を以て」戦う京の祭りについて報告している。これは端午の節句に行われた印地打ち(石合戦)で、実際の合戦を再現した模擬戦だった[92]
  12. 「甲陽軍鑑」や「雑兵物語」は、軍勢相互の距離が詰まると、鉄砲や弓は前線を槍に譲って打物戦に移行すると記す。「雑兵物語」は、敵の間近まで迫ったら、鉄砲や弓は左右に分かれて槍に勝負を譲り、自身は刀を抜いて敵の手足を狙って斬りつけるか、左右に分かれた場所から槍を援護するか(「鑓脇」を固める)、どちらかを行うのが作法だったという。[103] もし左右に散開出来なければ、出来るだけ左に寄って、敵の右側から弓や鉄砲を撃つよう心がけたというが、これは、武器を所持する武士たちにとって、右側はとっさの対応が効かない弱点であったからである。[103] こうして槍・刀(打物)を主体とした打物戦が開始された。[103]
  13. 江戸時代の武士は大小一振りの打刀と脇差を差すのが基本となっているが戦国時代の武士は大小それぞれ複数の打刀と脇差を身につけて戦場に臨んだ。敵を何度か斬りつけると刀はすぐ使い物にならなくなり、敵の甲冑に当たれば刀は曲がったり、折れたりすることもあったためである。また、安物の刀の場合は刃こぼれすることも多かった、などの理由があり、予備の刀を使ったり、倒した敵の刀を奪って使ったりと、何本もの刀を使って敵と戦っていた[84](しかし、刀の切れ味が付着した血や脂で鈍くなるというのはデマである可能性が高く、実験では豚の頭を何度斬って刀身に脂が付着しても切れ味は変わらず、生き身を斬った時の血液の影響については、刀剣界には特に何も伝えられておらず、大問題という訳ではないという事が考えられる[104])。
  14. 古来の武人が矢傷を不名誉とせず、白兵戦武器による傷を不名誉とする場合があったため、白兵戦武器による傷を自己申告しなかったことが考えられる[105]
  15. 出土する希少な甲冑の遺物の中で、それでも太刀傷をとどめた甲冑が発掘されていること[105]
  16. 南北朝期の合戦において最も一般的に使用されていた白兵戦武器は薙刀や槍や鉞ではなく、刀(太刀や大太刀や長巻や打刀)だった[31]。また、南北朝期の戦乱において肉薄戦はもっぱら騎馬による討ち合いであったが、騎馬武者が薙刀や槍などの長柄武器を持つ事は一般的ではなく、接近した討ち合いに備え、五尺以上もある大太刀を佩く者がしばしば見られたという説も存在する[72]
  17. 南北朝期~室町期(戦国期除く)においては太刀と大太刀と長巻という日本刀の類が合戦におけるメインウェポンの一つだった[33][42][85][95][99]。刀剣は、人類にとって最もポピュラーな「武器」であるが、世界的に見て、一部の例を除き、「兵器」として戦場で主要される事があまりなく、一方、弓矢と同様に狩猟道具から発展した長柄武器は、火器の発達以前には、主要兵器として用いられ、中世の日本における刀剣と長柄武器は太刀と薙刀であり、太刀(というより日本刀)は古代から使用されている中国式の直刀と蝦夷の蕨手刀の影響を受け、平安時代中期に誕生したとされ、武士と共に生まれた武器である[95]。日本刀全ての特徴として、衝撃吸収力はあるが、柄と刀身がガタつきやすいという欠点を持っており、この欠点は、長い日本刀の歴史の中でついぞ改良されなかったが、使用者である武士たちが、それで構わないと考えていた。つまり太刀をはじめ、刀にさほどの頑丈さを期待していなかった。すなわち、戦場において太刀は少なくとも平安期と鎌倉期、戦国期と安土桃山期には主要な存在ではなく、薙刀は、徒歩兵あるいは僧兵の武器として用いられ、斬撃、刺突、打撃、石突きでの打突など多彩な攻撃が可能なほぼ万能の武器と言えるのだが、それ故に相応の訓練が必要であり、振り回して使用するには広いスペースを必要とし、密集隊形では扱いにくく、この2つの「武器」は騎射技術が衰え始めた治承・寿永の内乱で戦場の表舞台に現れ、中世の大変革期であった南北朝の戦乱の中で主要な「兵器」に成長した[95]。「太平記」には、太刀を二振り、あるいは太刀と大太刀を持つという描写が散見されるが、これは太刀も大太刀も長巻も柄がガタつきやすいという日本刀の欠点が解消されておらず、さらに、鎧武者を相手にする以上、刃こぼれや折損を考えての事と考えられる[95]。平安時代と鎌倉時代すなわち中世前期が弓を主体とした戦の時代で、南北朝時代と室町時代すなわち中世後期が刀剣を主体とした戦の時代だった[38][81][106]。ただし、南北朝期は太刀や薙刀といった刀剣が長寸化する打物騎兵の時代であるが、室町期は大太刀や大薙刀がある一方で、相対的にはそれらの刀剣が短寸化し、打物騎兵の戦闘が主体でありながらも、下馬打物が増加し、徒歩戦へと移行していく時代である[37][38]
  18. 南北朝期~室町期(戦国期除く)には大太刀や長巻の攻撃から身を守るため、喉輪、膝鎧、立挙脛当、諸籠手が利用されるようになった[95][105] そして、その時期の甲冑は弓矢の威力向上よりも斬撃武器の攻撃に対応していた[95]。鎌倉時代後半までの星兜は打物による攻撃の衝撃を直接、頭部に与えてしまうため、クッションである浮張を持つ筋兜が南北朝期後半に登場した[95]。南北朝期の内乱において著しく強化された武器は弓矢であり、平安時代末期から鎌倉時代末までは、木を芯にその表に竹を張り付けた外竹弓だったものが、南北朝期には、芯材である木の両面に竹を貼った三枚打弓となり、矢の射程と威力が向上したが、これは衰えつつある武士の表芸である騎射よりも、徒歩での射撃戦に戦闘力の向上をもたらし(騎射は弓を大きく引けないために、三枚打弓の威力をフルに発揮出来ないからでもある)、戦士階級である武士よりも、本来的には近接戦闘を苦手とする非武士階級(人間は一般的に、長期の訓練を受けなければ、至近距離で人を殺す事は難しい)の戦力化に大きく寄与し、多数の非武士階級が徒歩弓兵として戦闘に参加するようになった[102]。戦場では、遠距離から数多くの矢が飛来するという状況を呈し、多数の弓兵により遠距離から放たれる矢は、威力は弱いものの、上方から数限りなく射込まれ、兜はシコロを横に開いたもの(笠ジコロ)が多くなり、また、肩に付けていた杏葉というパーツを胸につけ、更に面頬当(面頬)と喉輪で顔面と喉を守るという変化を促したが、これだけでは歩卒用の胴丸・腹巻の使用が主役になった理由の説明とはならない[102]。胴丸・腹巻は、体にフィットして動きやすく、元来、打物を扱うのに適した甲冑であり、騎射技術が衰え、その代わりに打物による戦闘が出現すれば、そうした打物を使用するのに適した甲冑を使用するのは当然と言え、室町期には、腕を動かしやすい広袖が、ついで室町期後半には裾をつぼめた壺袖が出現し、壺袖は戦国期の当世袖の原型とも言え(ただし、大袖は戦国時代も使用された)、加えて乗馬しての打物使用に備え、大腿部や膝を防護するために、膝鎧(佩楯)や大立挙の脛当も現れた[102]。つまり、南北朝期の鎧の変化とは、徒歩戦への対応ではなく、騎射戦闘に特化した大鎧からの汎用化だったとも言える[102]
  19. 南北朝期の戦乱において、矛や槍は短く、大太刀より折れやすいため、広い円形範囲で敵を「打つ」「突く」「斬る」ことのできる大太刀や薙刀の方が利用価値が高かった[96]。そして、南北朝期の戦乱において、鉞や薙刀といった木の柄の武器は大太刀より折れやすいため、柄が大太刀ほど長くなかった。そのため、最も有効な白兵戦武器が大太刀であったという説が存在する[96](南北朝期の戦乱において最強の白兵戦武器はリーチが長く、多彩な攻撃を繰り出せる薙刀だったという説も存在する[95])そして、大太刀と大薙刀の流行は南北朝時代の20数年間で廃れるが[107]、大太刀は室町時代から安土桃山時代にかけてもそれなりの頻度で使われており[35][37][42][83][108]、薙刀は小薙刀が主流になりながらも大薙刀が稀に使われた[37]。槍傷の少なさ、槍の短さ、槍より大太刀などが多く使われた事、戦で大太刀という長剣を用いた事は南北朝期の歩兵が密集隊形を組んでいなかった事や南北朝期の合戦が基本的に集団的でなかった事を示している[31][96]。また、薙刀は恐るべき威力を持った長柄の刀剣であり、縦横無尽な多彩な攻撃ができ、単独使用でも複数の相手に対応が可能で、十分な効果を期待できる武器であるが、周囲に空間が必要な個人戦用の武器である。一方では攻撃の方向が前方に限定され、攻撃の幅が狭くなり、単独使用では複数の相手には対応しにくいが、組織化された集団戦で運用してこそ効果が発揮できる組織戦用の武器といえる[101]。薙刀が戦国以前の平安、鎌倉、南北朝、室町の中世の戦闘で必要とされた最大の理由は、当時の戦闘が騎兵、歩兵共に個人の力量による戦闘が個人戦主体だったからである。これに対し、律令軍制は中央集権制のもとで組織的な集団歩兵制を柱としており、その目指した戦闘が統率のとれた組織戦であったとすれば矛の攻撃の幅の狭さは、組織の使用で補われ、むしろ攻撃の幅の狭さが組織戦に適しており、薙刀の様な武器は、組織戦において、動きが制約されて、かえってその効果が半減されるため、律令軍制では必要なかった[101]。この点では、分国単位の集権体制を背景とした戦国期後半以降の組織戦において槍が隆盛したのも同様の理由であり、両手でしごく槍の方が、片手もしくは両手で固定して使用する矛よりも攻撃の幅は広くなるにしても、「鑓衾」と呼ばれる密集陣形などでより大きな効果が期待できる武器と言える[38][101]。鎌倉末期以降は、薙刀が馬上でも使用される様になったが、いずれにしろ、統率のとれた組織戦を行うには、その背後に強力な集権体制が必要であり、そうした組織戦に適した武器が古代の矛であり、近世の槍であり、これに対し、強力な集権体制のない中世は、統率のとれた組織戦が行いにくい時代といえ、治承・寿永期や南北朝期の様な内乱期には、それぞれ戦闘要員の増加があり、特に南北朝期には、集団的な戦闘も行われており、時代の下降と共に集団線的な要素が加わってくるのは確かである[101]。だからこそ、南北朝期に槍が発生したともいえるのだが、しかしそれは、集団戦ではあっても、統率のとれた組織戦とは言い難いものであり、統率のとれた組織戦の出現(再現)は、戦国後半期まで待たねばならず、それ以前の中世の戦闘は、やはり相対的に組織力の弱い、個人本位の個人戦・単独戦が主体だったといえ、だからこそ、多彩な攻撃が可能な薙刀の様な武器が使用されたのであり、かつ必要だったのである[101]
  20. 日本刀の中でも長巻は南北朝時代と室町時代と戦国時代と安土桃山時代に特に盛んに利用された[31][35][37][42][87]。長巻は大太刀の究極の形態だという説も存在する[95]
  21. 戦国時代においては、刀は海外での戦において最も有効活用された。豊臣秀吉が朝鮮半島に攻め入った文禄・慶長の役では、南原城の戦い蔚山城の戦いで、明の騎馬兵が日本刀で撃退された話が多数残っている。[89] 明・朝鮮軍は日本兵の装備する日本刀に苦しんだ。文禄の役で日本軍が勝利した碧蹄館の戦いに関して、朝鮮王朝実録には「天兵(中国兵)短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深, 不能馳騁, 賊(日本軍)奮長刀, 左右突鬪, 鋒銳無敵。」とある。[109] 当時の朝鮮の宰相である柳成龍が著述した懲毖録には、「「李如松提督が率いていたのは皆北方の騎兵で火器を持たず只切れ味の悪い短剣を持っていただけだった。一方賊(日本軍)は歩兵でその刀剣はみな3, 4尺の切れ味無比のものだったから、衝突激闘してもその長刀を振り回して斬りつけられるので人も馬も皆倒れ敢えて立ち向かうものはなかった。提督は後続軍を呼び寄せたが、その到着以前に先軍は既に敗れ死傷者が甚だ多かった。日暮れに提督は坡州に戻った。その敗北を隠してはいたものの、気力を沮喪すること甚だしく、夜には親しく信頼していた家丁の戦死を痛哭した。」とある。臨津江における朝鮮軍の敗北に関しては「(朝鮮の)軍士たちは敗走して川岸に来たものの渡ることができず、岩の上から川に身を投じたが、それはさながら風に乱れ散る木の葉のようであった。まだ川に身を投じていなかった者には、賊(日本軍)が後ろから長刀を奮って切りかかったが、みな這いつくばって刃を受け、敢えて抵抗する者もなかった。」とある。竜仁における日本軍と朝鮮軍との接触について述べた記事には「日が暮れ、賊は、光彦らの緊張がややゆるんだのを見て、白刃をきらめかせ大声をあげて突進してきた。あわてて馬を索して逃げようとしたが間に合わず、みな賊に殺されてしまった。諸軍はこれを聞いて恐れおののいた。(中略)翌日、賊はわが軍が怯えきっているのを察知し、数人が刃を揮って勇を誇示しながら突進して来た。三道の軍はこれを見て総潰れになり、その声は山崩れのようであった。打ち棄てられた無数の軍事資材や器械が路を塞いで、人が歩行できぬほどであった。」とある。他に「わが軍(朝鮮軍)は、賊がまだ山の下にいると思っていたのに、突然一発の砲声が響き、四方面から大声で呼ばわりながらとび出してくるのがみな賊兵(日本兵)であったので、仰天して総崩れとなった。将士たちは、賊のいない処に向けて奔走したところ、ことごとく泥沢の中に落ち込んでしまった。賊が追いついて、まるで草を刈るように斬り倒し、死者は数しれなかった。」という記述もある。日本軍が南原城を陥落させたときの日本・明間の交戦に係わる記事では「日本兵は、城外にあって二重,三重にとり囲み、それぞれ要路を守り、長刀を奮って、やたらと切りつけた。明国軍は、首を垂れて刃を受けるのみであった。」とある。朝鮮軍の防具に関しても懲毖録には「賊(日本軍)は槍や刀を巧みに用いるが、我々朝鮮軍にはこれを防御することの出来る堅甲が無いために対抗できないでいるのです。」とある。また、朝鮮王朝実録によれば、朝鮮軍は、朝鮮側に投降した日本兵(降倭)から、日本式の剣術を学んだという。ルイス・フロイスの著した「日本史』には「朝鮮人は頭上に振り騎される日本人の太刀の威力に対抗できず」「日本軍はきわめて計画的に進出し,鉄砲に加え,太刀の威力をもって散々に襲撃したので、朝鮮軍は戦場を放棄し、足を翼(のよう)にして先を争って遁走した」という記述がある。1790年に朝鮮で編纂された武芸図譜通志には、「倭と対陣すると、倭はたちまち決死の突進をしてくる。我が軍(朝鮮軍)が槍を持ち剣を帯びていようとも剣を鞘から出す暇がなく、槍も切っ先を交えることができず、皆凶刃によってことごとく血を流す。すべて剣や槍の訓練法が伝わらなかったためである。」とあり、また、中国の史料を引用する形で「(明の戚継光曰く)日本刀は倭寇が中国を侵したときに初めて見られるようになった。彼らがこの刀を手にして舞うと光閃の前に、我が兵たちは気を奪われ、倭人は一丈余り一躍し、遭遇した者は両断された。これは刀が鋭利で、しかも両手で使用するので力をこめられるためだ。今日でも、(刀だけ)単独で用いては防御できない。ただ鳥銃を兼用すれば防御可能で、賊が遠ければ鳥銃を発射し、近ければ刀を用いる。」、「(明の茅元儀曰く)日本刀は極めて強く鋭く、中国刀では及ばない。(中略)、倭賊は勇敢だが愚かで生死を重視しない。戦いのたびに三尺の刀を手に舞いながら前進してくると防ぐことができない。」とある。元寇に関する元側の史料では、王惲の汎海小録に「(日本軍の)兵杖には弓、刀、甲がある。しかし戈矛は無い。武士は騎兵を結束している。殊に武士の精甲は往往黄金を以って之を為り、珠琲をめぐらした者が甚々多い。刀は長くて極めて犀なるものを造り、洞物に入れて、出し入れする。」とあり、鄭思肖の心史には「倭人は狠、死を懼れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」 とある。
  22. 戦国時代には火縄銃の連射速度が遅いことから、打物による敵陣への突撃戦法は愚策と捉えられてはいなかった[103][110]ルイス・フロイスは「日本史」西九州篇第五三章(第二部五二章「野戦が行われ、隆信が戦死し、その軍勢が壊滅した次第」)において、天正十二年の龍造寺隆信と島津家久との会戦(沖田畷の戦い)の模様を「敵はふたたび我ら(の味方)の柵塁を攻撃してきた。薩摩勢はこれに応戦したものの、既にいくぶん疲労しており、彼我の戦備は極度にちぐはぐであった。すなわち隆信勢は多数の鉄砲を有していたが弓の数は少なく、長槍と短い太刀を持っていたのに反し、薩摩勢は鉄砲の数が少なかったが多くの弓を持ち、短い槍と非常に長い太刀を備えていた。(中略)そして戦闘が開始された。それは熾烈をきわめ、両軍とも槍を構える暇もなく、手当たり次第に(刀で)相手の槍を切り払った。薩摩勢は敵の槍など眼中にないかのように、その(真只)中に身を投じ、鉄砲も弾を込める暇がないので射つのをやめてしまった」と伝えており、この合戦で龍造寺軍は大軍であるにもかかわらず、寡兵の島津軍に惨敗し、隆信が戦死する事態に至っている[110]。また、この合戦の前哨戦で、龍造寺軍の強力な鉄砲衆の銃撃に直面していた有馬晴信軍は、大将の晴信とその弟が、鉄砲隊の真っただ中に斬り込もうとしたために、家臣が慌てて抱きつき、これを制止している(フロイス「日本史」西九州篇第五三章)[110]。同じく「日本史」豊後篇七〇章では天正十四年二月、豊臣秀吉の九州出兵に伴い、大友宗麟、仙谷秀久、長宗我部元親・国親父子が、島津軍と激突した豊後戸次川合戦の模様を「(豊後勢が)渡(河)し終えると、それまで巧みに隠れていた(薩摩の)兵士たちは一挙に躍り出て、驚くべき迅速さと威力をもって猛攻してきたので、土佐の鉄砲隊は見方から全面的に期待をかけられていながらも鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった、というのは、薩摩軍は太刀をふりかざし弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである」と記録している[110]。九州で行われたこれらの合戦の記録によれば、多数の鉄砲を所持しながらも、島津軍の武士たちは、命を惜しまずに敵陣に身を投じていることがわかり、しかも、あまりにも早く接近された為、敵方の鉄砲衆は弾込めの余裕がなくなり、鉄砲は無力化、槍も有効に機能せず、刀で次々に切り払われ、陣中への突入を許し、大混乱に陥っている。一方、島津軍が敵陣に接近する際の援護射撃は、鉄砲が少なく、主に弓であったといい、この様な状況下で、多数の鉄砲が待ち受ける中、火器の劣勢を承知で突撃が行われている[110]。織田信長も同様の作戦を採用した事実があり、「信長記」巻九には、天正四年五月七日、信長と石山本願寺軍とが激突した際、多数の鉄砲を持つ敵に織田軍は苦戦した。だが信長は先手の足軽集を励ましながら馬で駆けまわって指揮をとり、自信も足に鉄砲傷を受けた。本願寺軍は、数千の鉄砲で打ち立てたが、織田軍はこれを凌ぎ、ついに本願寺軍を切り崩したという。これは兵力と火器で劣る織田軍が、鉄砲数千の攻撃を受けながらも、これには目もくれず、必死の突撃を敢行して切り崩した訳で、信長は打物戦に持ち込んで勝利を収めた事がわかる[110]。また、北関東で戦国の戦場を生き延びた野口豊前守の軍功覚書(「牛久市史料」中世I)には、天正十一年九月、谷田部城攻撃に赴いた際、退却する牛久衆を騎馬で追撃していたところ、鉄砲の五、六ほどで狙撃されたとの記述があり、幸い弾は命中しなかったが、銃声を聞いた味方が続々と野口に追いついてきて、馬で乗りかけて敵を攻め崩したという。ここでも、鉄砲をものともせず、有利と見るや躊躇せず敵陣に突撃を仕掛けている事がわかる[110]。以上の事例を見ると、鉄砲や弓矢などを装備して待ち構える敵陣に対し、突撃を仕掛ける攻撃法は、当時としては正攻法であった可能性がある。武田勝頼が軍勢に攻撃を命じ、武田軍将兵がそれを長篠合戦で実行に移したのも当時としてはごく当然の戦法だったからである[110]。武田軍が敗れたのは、織田・徳川軍の鉄砲装備が、東国戦国大名間で実施された合戦では経験したことのないほどの数量であったことや、敵陣に接近するまでに多くの将兵が戦闘不能に陥り、肉薄して織田・徳川軍の鉄砲を沈黙させるに至らなかったことにあり、それは恐らく、武田軍の兵力が少なかった事が、織田・徳川軍の火器による被害を乗り越えて、鉄砲を制圧できなかった原因と推察され、長篠合戦の戦法そのものを批判する記録は見つかっていない(「甲陽軍鑑」は大軍を擁する信長・家康との決戦に反対だったと記しており、突撃そのものを批判してはいない)。後に武田勝頼は、上野国善城を武装も整わないまま攻略し、俗に「素肌攻め」と讃えられた事を受けて「自分が先頭に立っていれば、長篠合戦で敵の三重の尺木どころか、十重であっても負けなかったであろう」と述べたと「甲陽軍鑑」は伝える。これを鈴木眞哉は「勝頼も懲りないやつだ」と評しているが、現代人の常識では無謀な長篠合戦での突撃も当時は正攻法だったことを理解していないことに由来する[110]。なお、突撃はその活用法など形態こそ違えど、銃器の連射速度が向上するまで、作戦の常道に位置していた[110]
  23. 武田家兵書の1つ「武具要説」によると、武田信玄はかつて各種武器の得失について経験豊かな5人の武将に議論させたことがあり、槍については原美濃守が「槍は、太刀・薙刀を持つ敵と対する以上、二間(約360cm)以下では無益である。短くては騎馬武者を突く事も出来ぬ」と長柄を主張した事と横田備中守もこれに賛同して「平時の警護用ならば九尺(約270cm)、一丈(約3m)でも良いが、戦場では長いほど良い。薙刀など持った敵を九尺、一丈の槍で突くのでは相打ちの恐れがある」と言った事[111](戦場においては長槍が好まれたが狭い所では手槍が有利であるためにかなり使われており、戦場でも場所によっては手槍が良いので用いられ、戦場でも随分と用いられ長槍と渡り合っているのは槍術が発達したからで、あながち長槍が有利とは限らぬことを物語っている[112])。
  24. 日本の戦国時代と同時代における近世ヨーロッパにおいてニッコロ・マキャヴェッリが著した戦術論では、混戦になると槍兵は機能を発揮しない事、戦場が混乱して槍兵の機能が有効でなくなった場合には長剣と大盾の兵士が乱戦において威力を発揮する旨が語られている事[113]
  25. 江戸時代に入って徳川幕府が通達で刀の長さを二尺三寸程度を常寸と定めたのは、太平の時代に異端を嫌う考えと共に、実際に大太刀の威力を恐れたためである事[114]
  26. 戦国時代に入ると、槍の組織化が進み集団戦が進展するが、武将たちには、槍が浸透しておらず1460年頃から1540年頃までは武将の得物は太刀、打刀、薙刀、長巻、大太刀であった[114]。槍が下卒のみならず、将官クラス以上の武器となるのは1540年頃から元和偃武まで[114]
  27. 日本刀は宋代(960-1279)にはすでに中国へ輸出されていたが、軍隊や民間で倭刀及び倭刀術が広く用いられるようになったのは明代(1368-1644)からである。中国で日本刀が兵器として認められるようになったのは、倭寇が日本刀(大太刀)を火縄銃と共に好んで戦闘に使ったからであり、倭寇の大太刀は接近戦に大きな威力を発揮し、明軍の従来からの長柄武器はしばしば穂先を斬り落とされ、火縄銃よりも明軍に恐れられた[114][115]。倭寇と戦った戚継光を始めとする明の将軍たちは日本刀の威力に注目し、倭寇と同じように火縄銃兵に日本刀(大太刀)を装備する事から、自分の部隊への装備を始めた[114][115]。明の軍隊においては銃兵が長刀(大太刀)を、藤牌と呼ばれる盾を持って戦う兵士と弓兵が腰刀(中型サイズの日本刀)を装備していた[116]。中国は多くの日本刀を輸入し、日本刀を模した刀も製作された(後に苗刀と呼ばれる)。戚継光の著作『紀効新書』には「此は倭が中国に攻めてきた時わかったことである。彼らは舞うような歩法を用い、前方への突進力は光が閃くようで我ら明の兵は気を奪われるのみだった。倭はよく躍動し、一度動き出せば丈あまり、刀の長さは五尺なので一丈五尺の間合でも攻撃される。我が兵の剣では近づき難く、槍では遅すぎ、遭遇すればみな両断されて殺される。これは彼らの武器が鋭利であり、両手で振れる強力で重い刀を自在に用いているためである。日本人には遠くからの鳥銃が有効である。だが日本人は全く臆せず攻めたり刺したりできる至近まで突っ込んでくる。兼ねてよりこの銃手が弾を込める間に時間を取られて接近を許すことが多い。その勢いを止められない。日本人の刀捌きは軽くて長く接近を許した後の我が軍の銃手の動きは鈍重すぎる。われわれの剣は銃を捨てて即座に対応するための有効な武器ではないのだ。それゆえ我々も日本式の長い刀を備えるべきだ。」とある[117]
  28. アーマードバトルをしているジェイ・エリック・ノイズと円山夢久は14~15世紀にかけて使われた両手剣タイプのロングソードを狭く混雑した場所でその力を遺憾なく発揮できたと主張している[118]
  29. 大太刀や大薙刀、斧、マサカリ、金砕棒などは南北朝期から室町前期にかけて大いにもてはやされたという説がある。[119]大太刀の流行は鎌倉時代に兆し、南北朝時代に盛んになり、室町時代に及ぶという説もある[120]。大太刀は南北朝時代の後に安土桃山時代に再び、流行するという説もある[121][122]
  30. 戦国時代の主力武器は論者によって主張が異なり、槍こそが最強、鉄砲があればそんなモノはイチコロ、日本刀は装飾品で首切りに使われる脇差こそが最終兵器だなどとあるが、結論から言えば、武士は基本的に自分が最も得意とする武器で戦った。集団化されるときにはその集団に求められる武器を使った。城戦では周囲の味方を気にして短めの武器を使う事もあれば、縦横無尽に戦う為に柄の長い武器を選ぶこともあった[123]
  31. 各種の軍記物や戦陣訓において、開戦から時間が経ち乱戦となった局面や二間より近い間合いで槍を揮うのは下策としている。

合戦に刀が使用された理由

騎馬武者の武器として
太刀は刀身が大きく反っているため、馬上から斬りつけるのに適していた[35]
一騎討ちでも始めに騎射による矢戦、矢が尽きたり接近した際は太刀を使った馬上での打物戦、最後は馬を下りて太刀や短刀を使う徒戦という流れだった。
平安時代から鎌倉時代等の戦では遠距離では和弓を放ち、近距離では弓を捨て太刀に持ち替えて戦うことがあったとされる[93][124]。武士たちは、離れた場所では馬上から弓を射て、接近戦になれば馬上で、または馬を下りて、敵を刀で斬りつけた[93]。平安時代末期以降戦国時代に槍にとってかわられるまでは太刀が騎馬武者の主力白兵武器だった[92][125]
南北朝期~室町期(戦国期除く)では、太刀、大太刀、長巻が騎馬武者(打物騎兵)のメインウェポンとして薙刀や槍などの多彩な打物と並んで使われた[32][33][42][81][82][85][95][98][106][126][127]。ただし、南北朝期は太刀や薙刀といった刀剣が長寸化する打物騎兵の時代であるが、室町期は大太刀や大薙刀がある一方で、相対的にはそれらの刀剣が短寸化し、打物騎兵の戦闘が主体でありながらも、下馬打物が増加し、徒歩戦へと移行していく時代である[37][38]
予備の武器としての価値
武器は武人の蛮用により破損してしまうことが日常的にあり、予備の武器が必要である。
槍や薙刀を使う兵であっても、腕を使わずに携行できる刀は予備として適していた。槍が折れても槍折と言い[35]、棒術で戦う方が乱戦にならない限りは[35][83][84] 有利であるが[77]、壊れた武器を使うか捨てて刀を使うは自身の技量や状況次第となる[87]
自衛用の武器としての価値
白兵戦を専門とし長柄武器を持つ兵は一部であり、弓・鉄砲・石つぶてといった投射兵種、荷駄や黒鍬といった支援兵種などを運用する兵の方が多かった。これらの兵に槍を持たせると手が塞がり仕事に支障が出るため、携帯時に両手が使える自衛用の武器として刀が使われた[86]。これは現代の軍隊におけるPDWと同じ思想の装備である。
長柄武器を使用しづらい状況での使用
刀は城内、市街地、屋内、山林などの狭い場所では長槍や薙刀より使い勝手が良かった[87]。刀が長槍や薙刀よりも狭い場所での使い勝手が良いことは鈴木眞哉も肯定している[77]。なお刀の他に手槍(2m以下の短い槍)も多く使われたと考えられる[88][90]
幕末期の京都では尊皇派と佐幕派による市街戦が発生したが、両者は3尺前後の打刀の他に手槍を使っていたことが記録として残っている(明保野亭事件)。この時期には市街地での追撃、室内への突入、物陰からの急襲、狭い路地での乱戦など、手槍も使いにくい状況で戦闘が発生した例が多い。
火縄銃や弓矢や槍の補助として乱戦での護身用や追撃戦での使用や鉄砲隊と弓部隊による槍部隊への援護攻撃での使用
日本の合戦はや鉄砲などといった遠戦から始まり、統制の取れている段階では長槍などで闘い、乱戦になると手槍に持ち帰るか槍を捨て刀が使われることが多かった[35][83][84][90]
戦国時代の一般的な合戦は弓部隊による攻撃から始まり、次に騎馬隊や槍部隊による突撃、その後、乱戦になると刀による斬り合いという順番で進んだと考えられている[93]
合戦で使用された刀の中には、峯などに相手の刀などによる切り込み傷のあるものが多い。たとえば、名物石田正宗には、大きな切り込み傷が多数存在し、実戦で使用されたことを窺わせている。
戦国時代になると刀は乱戦での護身用に使われることが多くなったが[84][128][129]、その他に追撃戦においても重い槍を後置して刀のみで斬りつけるという用途に使われた[129]。秀吉の朝鮮出兵では、日本側の兵器の威力として鉄砲の次に言及されるのが日本刀であるが、これは緒戦において朝鮮軍が日本軍の射撃で混乱・壊走してしまい、ただちに日本軍が追撃戦に移行したためと考えられる(例えばフロイスの「日本史」の小西軍についての記述、あるいは「懲毖録」)。[129]
「雑兵物語」には経験の浅い足軽隊に乱戦(接近戦)での刀の扱い方を説いた記述があり、「兜を狙うがいい、だが、お貸し刀がなまくらなら、手や足を狙うといい」とあるが、このくだりの背景は、もはや槍や火縄銃が使えないほど敵が接近している状況であり、この記述からうかがえるのは平安時代の武者が最後に行った洗練された徒戦ではなく、非情な兵たちが乱戦で刀を振り回す様子だけである[86]。実際のところ、刀しか武器を持たない足軽が描かれることは珍しく、彼らの主要武器はお貸しの槍、弓、火縄銃であり、刀は補助武器に過ぎなかったが、足軽などの歩兵たちにとってはどんな刀でも有効な武器であった[86]
「甲陽軍鑑」や「雑兵物語」は、軍勢相互の距離が詰まると、鉄砲や弓は前線を槍に譲って打物戦に移行すると記す[103]。「雑兵物語」は、敵の間近まで迫ったら、鉄砲や弓は左右に分かれて槍に勝負を譲り、自身は刀を抜いて敵の手足を狙って斬りつけるか、左右に分かれた場所から槍を援護するか(「鑓脇」を固める)、どちらかを行うのが作法だったという[103]。もし左右に散開出来なければ、出来るだけ左に寄って、敵の右側から弓や鉄砲を撃つよう心がけたというが、これは、武器を所持する武士たちにとって、右側はとっさの対応が効かない弱点であったからである。こうして槍・刀(打物)を主体とした打物戦が開始された[103]
敵将の首級を挙げる
槍などの刀以外の武器では、戦場の真っ只中で迅速に首を切り落とすのは非常に困難であり、条件が揃っても剣術を納めていない者には難易度が高い行為であるが[71]、合戦では自らの功績を示すものは首級であったため重要であった。
実際に首を取る際には主に小脇差(予備の刀)や腰刀(腰に差す短刀)が使われたようで、江戸時代前期に書かれた「雑兵物語」には、大脇差は首の斬り取りに向かないとある[92]。首を取り合う時に打刀で戦う斬りあいも生じるため、間合いによっては打刀が使われることもあった[87]
小太刀へ持ち替える際に隙が出来るため、打刀や太刀でそのまま首を取ることも行われていたようで、「大阪冬の陣図屏風」で「鴫野今福の戦い」を描いた場面には、太刀で首級を挙げようと膝をついた武士が、横ら来た武士に太刀で頭を斬りつけられる様子が描かれている[130]

戦場外での日本刀

関東大震災発生後に押収された自警団の武器。大半が打刀である

戦場外でも本差と脇差は携帯され、これは比較的扱いやすく丈夫(いざというときは命を預けられる)すぐれた護身用の携帯汎用武器として秀逸であったことを示している。戦場用よりも護身用の武器としてより役立った[86][131]。刃物により切り傷を負わせる事で、殺害せずに相手の戦意を喪失させたり、出血多量で戦闘能力を失わせる戦法は一定の効果を発揮するとされ[132]、喧嘩の道具としては有用だったと思われる。なお江戸時代の初期には社会が不安定で戦場から流出した武器も出回っていたことから、江戸初期の京都を描いた洛中洛外図(舟木本)には数人のかぶき者が槍や薙刀で喧嘩している様子が描かれているなど、喧嘩でも様々武器が使われていた。ただし槍や薙刀の所持は次第に難しくなった。

平和になるにつれ刀も緊急時以外は殆ど用いられることがなくなったが、あだ討ちに使われるなど、十分な殺傷力を秘めていることを実証している。

1875年(明治8年)に採用され廃刀令の元となった山縣有朋の建議は「刀は倒敵護身を目的としているが、国民皆兵警察制度により個人には必要なくなった」という趣旨である。ただし、廃刀令以降も所持自体は禁止されていなかったことから、庶民は日本刀を始めとした武器を所有しており、関東大震災後に組織された自警団でも多くの打刀や小太刀が利用されていた。

江戸時代以降は剣術道場が多く誕生し、町人・農民にも親しまれていたのとは対照的に、他の武芸十八般に含まれる武器術は武家以外には広まりを欠け、多くが失伝したとされる。また剣術についても平時の服装で剣のみを用いる「素肌剣術」が主流となり、甲冑を着込んだ状態で使う「介者剣法」は下火となった。町人・農民が大半の新選組では剣術、柔術軍学砲術馬術槍術の各師範を設けたが、竹刀による素肌剣術の稽古以外には本格的な訓練が行われた記録が無い[133]。新選組の構成員で剣術以外を本格的に学んだ者は原田左之助(槍術)など少数の武家出身者だった。

日本刀の文化・宗教的側面

室町時代から武士階級以外の幅広い階層の人々に打刀と脇差を同時に携帯する大小二本差しが流行しており[134]、戦国時代の村落においては成人と認められた男児に脇差の携帯を許す「刀差祝」の儀式を行うまでになった[135]

安土桃山時代には有力な武将達は贈答品として名刀を利用していた[136]

江戸初期以前における社会では激高しやすい者が多く警察機構も未発達であったことから、些細なトラブルから組織同士の抗争まで自力救済による解決が求められ、身分にかかわらず刃傷沙汰に及ぶことは珍しことではなかった。人間同士の生命を賭した戦いという極限的状況は戦時か平時かに問わず、常に発生する可能性が極めて高かった[137]。日本刀は鞘に収めれば手を使わずに常時携帯でき、咄嗟に使いやすく護身具として最適であった。一方で武士達は、戦場において最後の拠り所となるに刀に神器としての精神的要素、宗教的価値も見いだしていたと考えられており、戦乱の時代には所有者が信じる神仏の名や真言を刀に彫り付けることも流行した。

苗字帯刀が許されることは名誉なことであることとされた。

明治2年(1869年)3月、廃刀令に先立ち、森有礼は「早く蛮風を除くべし」として佩刀禁止を公議所で提議したが、王政復古から間もない頃であったため反対意見が多く、「廃刀をもって精神を削ぎ、皇国の元気を消滅させるといけない」として否決され、森は退職を命じられている。

工学的側面からは、金属の結晶の理論や相変化の理論が解明されていない時代において、刀工たちが連綿と工夫を重ね科学的にも優れた刃物の到達点を示しえたことに今も関心がもたれている。理論や言語にならない、見た目の変化、手触り、においなどの情報を多く集積したり伝承したりすることで、ブラックボックス型の工学的知識を実現しているためと思われる。


注釈

  1. ^ 稀に奉納用の刀などで目釘孔がないものがあるほか、特に脇差短刀では平造りや菖蒲造りなども多い。
  2. ^ 刀剣メーカーのコールドスチールなどが製造している。
  3. ^ 日本最古といわれる観智院本。「後鳥羽院御字被召抜鍛冶十二月結番次第」という記述がある[20]
  4. ^ 正宗賞の受賞刀の解説文によると「均整のとれた力強い太刀姿や現代丁子とは明らかに異なる焼刃の古色さもさることながら、その映りである。備前伝を手掛ける多くの刀匠にとっては刃文と共に地鉄、ひいては乱れ映りの再現が長年の課題であったが、本作では随所に現れた地斑状の暗帯部によって乱れ映りが明瞭に形成され、古作に近い雰囲気を湛えるのに見事成功している。このことから映りの解明に向けて大きく前進したことは間違いなく、一つの到達点に達したと言え、革新的な功績として今回の受賞は称えられるべきである」としている(『刀剣美術』、平成26年6月号より)。
  5. ^ 『実戦刀譚』の著者である成瀬関次は、柄に使われる木材は朴が最も多く、その中でもくるいの少ない板目・柾目のしっかりしたモノを使うべきであり、若木、樹皮に近い部分、節目、逆目、木取の都合で斜になったモノは使ってはならないとしている。
  6. ^ 二つ纏めて縁頭とも呼ばれる。
  7. ^ 山本七平は「自身の経験に照らして日本刀で斬れるのは高々3人である」としている(『私の中の日本軍』より)

出典

  1. ^ 三省堂大辞林第三版
  2. ^ a b c d 歴史 - 刀剣博物館
  3. ^ 歴史人 September 2020. pp.64-65. ASIN B08DGRWN98
  4. ^ 福永 1993, 2巻p. 61.
  5. ^ 福永 1993, 2巻pp. 30-33.
  6. ^ 近藤好和『弓矢と刀剣』吉川弘文館、121頁。
  7. ^ 清水克行『喧嘩両成敗の成立』講談社メチエ、14頁。
  8. ^ 二木謙一『図解 戦国合戦がよくわかる本 武具・組織・戦術・論功行賞まで』PHP研究所、70頁。
  9. ^ 久保田正志『日本の軍事革命』綿正社、28頁~30頁。
  10. ^ 小松安弘コレクションについて ふくやま美術館
  11. ^ 日本刀の刀匠・刀工「無鑑査刀匠」 名古屋刀剣ワールド.
  12. ^ <審査規程第17条第1項に基づく審査基準> 日本美術刀剣保存協会
  13. ^ “銃3つ、刃物12本、実弾 米乱射容疑者宅に大量の武器”. 朝日新聞. (2013年3月31日). http://www.asahi.com/international/update/0331/TKY201303310010.html 2013年3月31日閲覧。 [リンク切れ]
  14. ^ a b c 『金属が語る日本史』72p(斎藤努著、吉川弘文官出版、2012年初版)
  15. ^ 日本の歴史07『武士の成長と院政』 2001年 下向井龍彦 講談社 ISBN 4-06-268907-3
  16. ^ 図説・日本刀大全―決定版 34頁。
  17. ^ a b c d e f 得能一男 2007, p. 17.
  18. ^ 日本刀の格付けと歴史. 名古屋刀剣博物館「刀剣ワールド」
  19. ^ 鎌倉期の古名刀をついに再現 論説委員・長辻象平. 産経新聞、2017年7月2日
  20. ^ a b c d e 小泉富太郎 et al. 1966, p. 30.
  21. ^ a b 小泉富太郎 et al. 1966, p. 32.
  22. ^ a b c 得能一男 2007, p. 18.
  23. ^ 小泉富太郎 et al. 1966, p. 246.
  24. ^ a b 小泉富太郎 et al. 1966, p. 247.
  25. ^ a b c d e f g h i 得能一男 2007, p. 23.
  26. ^ a b c d e 小泉富太郎 et al. 1966, p. 31.
  27. ^ a b c 石井昌国 & 加島進 1966, p. 80.
  28. ^ a b 石井昌国 & 加島進 1966, p. 82.
  29. ^ 石井昌国 & 加島進 1966, p. 83.
  30. ^ a b 得能一男 2007, p. 24.
  31. ^ a b c d e f g h i トマス・D・コンラン. 図説 戦国時代武器防具戦術百科. 原書房 
  32. ^ a b 近藤好和. 騎兵と歩兵の中世史. 吉川弘文館 
  33. ^ a b c d 日本の武器と武芸date=. 別冊宝島 
  34. ^ 日本甲冑史 上巻. 中西立太. 大日本絵画 
  35. ^ a b c d e f g h i j k 戸田藤成. 武器と防具 日本編. 新紀元社 
  36. ^ 臺丸谷政志『日本刀の科学』サイエンス・アイ新書、163頁。
  37. ^ a b c d e f 笹間良彦. イラストで時代考証2日本軍装図鑑 上. 雄山閣 
  38. ^ a b c d e f g h 「騎兵と歩兵の中世史」近藤好和
  39. ^ 歴史人 2020年9月. p40. ASIN B08DGRWN98
  40. ^ 日本刀鑑賞のポイント「日本刀の姿」 名古屋刀剣博物館「刀剣ワールド」
  41. ^ 中西立太. 日本甲冑史. 大日本絵画 
  42. ^ a b c d e 戸部民夫. 日本の武器・甲冑全史. 辰巳出版 
  43. ^ weblio. 半太刀拵
  44. ^ 稲田和彦 (2020) 図説・日本刀大全―決定版 (歴史群像シリーズ) p46 978-4651200408
  45. ^ (渡邉・住、2014)、p.6
  46. ^ (天田、2004)、pp.12, 13,78
  47. ^ (渡邉・住、2014)、p.9
  48. ^ (渡邉・住、2014)、「はじめに」のp.ii
  49. ^ 不可能とされた名刀の地紋再現に成功 奈良・吉野の刀匠、刀剣界最高賞を受賞 産経WEST 2014年6月13日
  50. ^ 現代に生きる刀匠 河内國平さんに聞く 精神を強くするのが名刀 切れ味追求へ回帰 日本経済新聞 2015年7月25日
  51. ^ 日本刀名匠の眼力、武器にこそ潜む「本来の美」神が宿る武器「日本刀」(4) 日本経済新聞 2015年8月21日
  52. ^ (渡邉・住、2014)、pp.i, ii(「はじめに」)
  53. ^ (天田、2004)、p.83
  54. ^ https://doi.org/10.15027/32973 「たたら製鉄法」の基礎研究と定量実験としての教材化
  55. ^ (渡邉・住、2014)、p.10
  56. ^ 日立金属「たたらの話」
  57. ^ 柴山光男著 『趣味の日本刀』 雄山閣 2002年6月20日発行、ISBN 4639010265
  58. ^ JSTP編 『もの作り不思議百科』 コロナ社 1996年7月25日初版第3刷発行 ISBN 4-339-07668-6
  59. ^ a b c 歴史群像編集部編 『図解 日本刀事典』 学研 2006年12月26日第1刷発行 ISBN 4054032761
  60. ^ 三所物(目貫・小柄・笄)とは 名古屋刀剣ワールド
  61. ^ 【日本刀の美の壺】日本刀鑑賞の要点
  62. ^ 差裏(kotobank)
  63. ^ 小泉富太郎 et al. 1966, p. 221.
  64. ^ a b 小泉富太郎 et al. 1966, p. 222.
  65. ^ a b c d e 小泉富太郎 et al. 1966, p. 223.
  66. ^ a b c d e f g h i 小泉富太郎 et al. 1966, p. 224.
  67. ^ a b c d e f 小泉富太郎 et al. 1966, p. 226.
  68. ^ 試し斬りについて
  69. ^ 田中普門『古流剣術』愛隆堂、1995年6月、119ページ。
  70. ^ 『最強!侍伝説-侍を遊び尽くす(別冊宝島(512))』宝島社、2000年6月、122ページ。
  71. ^ a b 汪楠. “「刀を振り下ろすと、ホースで水をまくように大量の血が…」なぜ私はヤクザの腕を日本刀で切り落としたのか”. 文春オンライン. 2021年4月7日閲覧。
  72. ^ a b c d e f g h i j k 兵器と戦術の日本史. 中公文庫 
  73. ^ 近藤好和『武具の日本史』平凡社、99頁。
  74. ^ 福永 1993, 3巻, p. 7.
  75. ^ 福永 1993, 3巻, p. 43.
  76. ^ a b 山本七平著 『私の中の日本軍』 文春文庫 1983年1月初版第1刷発行 ISBN 978-4167306014
  77. ^ a b c d e f g h i j k 「刀と首取り」鈴木真哉
  78. ^ a b c d e f 鈴木眞哉. 「戦闘報告書」が語る日本中世の戦場. 洋泉社 
  79. ^ a b c d e f g h i j k l 横山雅始. ガチ甲冑合戦でわかった実戦で最強の「日本武術」. 東邦出版 
  80. ^ 日本刀が戦場で「主要な武器」になったことは一度もない! 殺傷率は「投石」以下
  81. ^ a b c d e f 近藤好和. 弓矢と刀剣. 吉川弘文館 
  82. ^ a b c d 武士の日本史. 岩波新書 
  83. ^ a b c d 図説・日本武器集成. 学研 
  84. ^ a b c d e f g 中西豪 大山格. カラー版 戦国武器甲冑事典. 誠文堂新光社 
  85. ^ a b c d e 武具 ずかん. 技術評論社 
  86. ^ a b c d e 戦闘技術の歴史5 東洋編. 創元社 
  87. ^ a b c d e f g h i j k l m ビジュアルポーズ集 図説戦国甲冑武者のいでたち. 新紀元社 
  88. ^ a b 宮永忠将. 空想世界構築教典 増補改訂完全版. 洋泉社 
  89. ^ a b c d e f g h i j k 最新研究でここまでわかった日本史通説のウソ. 彩図社 
  90. ^ a b c 武器屋. 新紀元文庫 
  91. ^ 東郷隆. ビジュアル合戦雑学入門 甲冑と戦国の攻城兵器. 大日本絵画 
  92. ^ a b c d e f 森瀬繚. ゲームシナリオのための戦国事典. SBクリエイティブ 
  93. ^ a b c d e f g h i j k l 武器で読み解く日本史. PHP文庫 
  94. ^ 須田武郎. 中世騎士物語. 新紀元文庫 
  95. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 樋口隆晴. 歴史群像 武器と甲冑. 歴史群像 
  96. ^ a b c d e f g h i j k トマス・D・コンラン. 日本社会の史的構造 南北朝期合戦の一考察. 思文閣出版 
  97. ^ 東郷隆. 絵解き 戦国武士の合戦心得. 講談社文庫 
  98. ^ a b c 中世武士の勤務評定 南北朝期の軍事行動と恩賞給付システム. 戎光祥出版 
  99. ^ a b 「刀と真剣勝負 日本刀の虚実」渡辺誠
  100. ^ 笹間良彦『図説 日本戦陣作法辞典』柏書房、280頁。
  101. ^ a b c d e f g 中世的武具の成立と武士. 吉川弘文館 
  102. ^ a b c d e 歴史REAL 足利将軍15代. 洋泉社MOOK 
  103. ^ a b c d e f g h i j 検証 長篠合戦. 吉川弘文館 
  104. ^ 陸軍戸山流で検証する日本刀真剣斬り. 並木書房 
  105. ^ a b c 渡辺誠. 刀と真剣勝負 日本刀の虚実. ワニ文庫 
  106. ^ a b 吉丸雄哉. 新典社. 武器で読む八犬伝 
  107. ^ 日本刀図鑑 保存版. 光芸出版 
  108. ^ 笹間良彦. 図説日本武道辞典. 柏書房 
  109. ^ http://sillok.history.go.kr/popup/viewer.do?id=wnb_12601001_003&type=view&reSearchWords=&reSearchWords_ime= 朝鮮王朝実録 "○宋經略進住安州, 提督李如松進兵坡州, 戰于碧蹄驛, 不利, 退住開城。 提督引大軍而南, 柳成龍先行促辦糧草, 幸不乏供。 臨津氷解, 乃從上流薄氷上, 聯葛索布籬, 作梁以渡軍, 列邑士民始從山谷出, 竭力搬運, 事皆隨辦。 提督徐行至坡州, 持重不前。 査大受與我將高彦伯, 領兵數百, 先行偵探, 至京城西, 遇賊於碧蹄驛南礪石峴, 斬百餘級。 提督聞之大喜, 獨與親丁騎兵千餘馳赴之, 令大軍繼發。 賊先伏大兵於峴後, 只數百人據峴示弱。 提督卽麾兵進, 賊自峴而下, 兵未交, 賊兵猝起於後, 結陣山上, 幾萬餘。 天兵短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深, 不能馳騁, 賊奮長刀, 左右突鬪, 鋒銳無敵。 提督麾下李有升及勇士八十餘人被砍死, 提督使査大受殿後, 奪路而出, 大軍繼至, 賊望見還走。 提督暮還坡州, 召李有升壻王審大, 拊背慟哭曰: "好男兒, 爲我死也。" 提督欲退住東坡, 柳成龍、兪泓、金命元等, 叩帳請見曰: "勝負, 兵家常事, 當觀勢更進, 奈何輕動?" 提督曰: "昨日吾軍無不利事, 但此地經雨泥濘, 不便住軍, 所以欲還東坡, 休兵更進耳。" 遂退陣東坡。 明日退住開城, 成龍等力爭不聽, 獨留査大受領兵數百, 與柳成龍守臨津。"
  110. ^ a b c d e f g h i j 長篠合戦と武田勝頼. 吉川弘文館 
  111. ^ 中国武術史大観. 国書刊行会 
  112. ^ 図説日本武道辞典. 柏書房 
  113. ^ マキアヴェリ戦術論. 原書房 
  114. ^ a b c d e 日本刀が語る歴史と文化. 雄山閣 
  115. ^ a b 武器と防具 中国編. 新紀元社 
  116. ^ 中国武術史 先史時代から十九世紀中期まで. 技芸社 
  117. ^ 此自倭犯中國始有之。彼以此跳舞、光閃而前、我兵已奪氣矣。倭善躍、一迸足則丈餘、刀長五尺、則丈五尺矣。我兵短器難接、長器不捷、遭之者身多兩斷、縁器利而雙手使、用力重故也。今如獨用則無衛、惟鳥銃手賊遠發銃、賊至近身再無他器可以攻刺、如兼殺器則銃重藥子又多、勢所不能、惟此刀輕而且長、以備臨身棄銃用此。況有殺手當鋒、故用長刀備之耳。
  118. ^ 『中世騎士の武器術』新紀元社、100頁。
  119. ^ 『日本刀が語る歴史と文化』雄山閣、8,131。
  120. ^ 『刀と真剣勝負 日本刀の虚実』ワニ文庫、180頁。
  121. ^ 『武器と防具 日本編』新紀元社、113頁。
  122. ^ 『日本の武器・甲冑全史』辰巳出版、58,59。
  123. ^ 『戦国時代大図鑑』洋泉社、48頁。
  124. ^ 西股総生. 戦国の軍隊. 角川ソフィア文庫 
  125. ^ 榎本秋. 戦国武将の戦術論. ベストセラーズ 
  126. ^ 騎馬武者 サムライの戦闘騎乗. 新紀元社 
  127. ^ 武具の日本史. 平凡社新書 
  128. ^ 歴史群像アーカイブVOL.6 戦国合戦入門. 学研 
  129. ^ a b c 日本の軍事革命. 錦正社 
  130. ^ www.girafficthemes.com, Giraffic Themes |. “0005.大坂の陣 名場面10選【終了】” (英語). 「大坂冬の陣図屏風」デジタル想定復元公式. 2021年6月19日閲覧。
  131. ^ 大波篤司. 図解 近接武器. 新紀元社 
  132. ^ 汪楠. “「50人を土下座させ、1人ずつ木刀で腕、指、歯を折る。そして橋から…」半グレ集団「怒羅権」元幹部が語る喧嘩の作法”. 文春オンライン. 2021年4月7日閲覧。
  133. ^ 新・歴史群像シリーズ『土方歳三』、学習研究社 84頁
  134. ^ 近藤好和『武具の日本史』平凡社新書、2010年8月10日、70ページ。
  135. ^ 藤木久志『戦国の村を行く』朝日撰書、1997年6月1日、101ページ、102ページ
  136. ^ Sendai, 仙台市役所 City of. “主な収蔵品 3 武器・武具” (日本語). 仙台市役所 City of Sendai. 2021年3月15日閲覧。
  137. ^ 清水克行『喧嘩両成敗の誕生』講談社撰書メチエ、2006年。






日本刀と同じ種類の言葉


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日本刀」の関連用語

日本刀のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日本刀のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの日本刀 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2022 GRAS Group, Inc.RSS