新藤晴一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/17 05:41 UTC 版)
経歴
中学生の頃にBARBEE BOYSの影響を受けてバンドを意識し始める。高校受験期に友人からエレキギターを借り、その頃から高校に入ったらバンドをしたいという思いを抱く[2]。
高校時代
1990年に因島高校に入学。入学当初は野球部に所属していたが一年で退部し、軽音楽部に入部する。また、1年生の頃(時期不明)に「KONTA(BARBEE BOYS)のようにサックスを吹きながらボーカルをやりたい」という思いからソプラノ・サックスを購入し[注釈 2]、同じく因島高校に通っていた従兄弟らを誘い、BARBEE BOYSのコピーバンド・NO SCOREを結成[2]。
2年生となったある日、同級生の岡野昭仁と一緒に行ったカラオケにて岡野の歌の上手さに惹かれ、「秋の文化祭にコーラスとして参加してくれないか」と勧誘し、メンバーに岡野が加わる。文化祭での初ライヴではBARBEE BOYSやBOØWYをコピーをしたが、後に「思い出さないようにしていた」と語る出来で、文化祭後にドラムスの従兄弟から「おまえ、ギターやらん?」と言われたことから岡野にボーカルを譲り、ギターを担当するようになった[2]。当時は高校の視聴覚室で週に一度練習をしており、XやZIGGYなどをコピーしていたという[2]。
3年生の文化祭前、保育園時代の少しの期間と小学校・中学校時代の同級生であったTamaがベースとしてメンバーに加わり、秋の文化祭ではX、ZIGGY、BOØWY、聖飢魔IIなどの楽曲計10曲を演奏し、演奏を聴いた同級生や後輩からの声援に夢を抱くようになったという。また、当時はHIDEやヌーノ・ベッテンコート(エクストリーム)、スラッシュ(ガンズ・アンド・ローゼズ)といったギタリストから影響を受けていたと述べている[3]。
上阪、インディーズ時代
1993年春に高校を卒業。NO SCOREは事実上解散となり、福山市の情報処理系の専門学校に入学する[2]。しかし、入学直後から「自分の居場所はここじゃない」という思いを抱き、2ヶ月ほどしか通わなかったという[2]。当時、Tamaが因島に残って高専に通いながらバンド活動をしていたため、新藤は福山から因島に通ってバンドに参加させてもらい、次第にTamaとオリジナル曲の制作をするようになる[2][3]。夏頃からは様々なコンテストに出場し、尾道・三原地区で行われた楽器店主催コンクールで優勝するなどしている[3]。冬頃にTamaと共に上阪を決心し、
1994年春に前年に上阪していた岡野ら、NO SCOREのメンバー5人全員が大阪で再会を果たす[2]。再びバンドを結成したが、生活固めに忙殺され、ほとんど活動しないまま2人が脱退する[2]。生活も落ち着いてきた夏頃から新たにバンド活動を始め、新藤自身がポルノグラフィティと名付ける。その後は城天や心斎橋筋2丁目劇場でのライヴやイベント出演など、精力的にバンド活動を行う[2][3]。
1997年3月に『ソニーミュージック SDグループオーディション』に合格し、ソニーミュージックと契約を結ぶ。その後所属事務所がアミューズに決定し、9月末に活動拠点を大阪から東京に移す。1998年夏頃からポルノグラフィティのメジャーデビューに向け、本格的に楽曲制作やレコーディングを開始した。
メジャーデビュー以降
- 1999年9月8日、ポルノグラフィティのハルイチとして、自身が作詞を手掛けた「アポロ」でメジャーデビュー。
- 2000年12月31日、第51回NHK紅白歌合戦にポルノグラフィティとして初出場(演奏曲は「サウダージ」)。
- 2003年4月7日、『カフェイン11』(bayfm)放送開始。
- 2004年11月6日、同日に公開された映画『ロード88 出会い路、四国へ』に別所役で出演。
- 2005年12月24日、音楽雑誌『PATi PATi』に連載していたコラムを単行本化した『自宅にて』を発売。
- 2008年10月24日、女優の長谷川京子との結婚を発表。
- 2009年5月、長男が誕生[4]。
- 2010年初め、SHOCK EYE(湘南乃風)、若手サウンドクリエイターの篤志とTHE 野党を結成。自身は党首(リーダー)として活動。
- 2010年3月、作詞・作曲を手掛けた「僕らの地図」を因島南中学校へ提供[5]。
- 2010年5月15日、小説『時の尾』を発売。
- 2011年2月9日、THE 野党のデビューアルバム『8:10 PM』をリリース。
- 2012年1月、長女が誕生[6]。
- 2017年4月7日、馬場一嘉の生誕祭『CH@BA100% presents~BABI BABI BAR SP~BABI’s 50th Anniversary Live!"BABIゲージュー祭りその②"@恵比寿天窓.switch』にサプライズゲストとして出演。
- 2017年9月1日、小説『ルールズ』を発売。
- 2018年2月12日、ポルノグラフィティのサポートメンバー・宗本康兵の自主ライヴ『"&K"』に飛び入り出演。
- 2018年4月、広島テレビ 『テレビ派』火曜コーナー「ポルノグラフィティ新藤晴一の『ハルイチノオト』」放送開始。
- 2019年1月10日、月刊誌『ギター・マガジン』の別冊シリーズ "GUITAR MAGAZINE SPECIAL ARTIST SERIES" より『新藤晴一 ポルノグラフィティ』を発売。
- 2019年6月15日、表参道ヒルズで開催された『FENDER CUSTOM SHOP EXPERIENCE』のトークイベントに出演。
- 2019年10月13日、『幕張メッセ×bayfm 30th ANNIVERSARY SPECIAL THANKS PARTY』に出演。予定であったが、台風の接近により開催中止となる[注釈 3]。
- 2020年1月28日、noteアカウントを開設。
- 2021年10月29日、長谷川京子との離婚を発表[7]。
- 2023年8月及び9月、自身がプロデュース・原案・作詞・作曲を手掛けるミュージカル『ヴァグラント』を明治座、新歌舞伎座で上演[8]。
注釈
出典
- ^ a b “noteを始めるにあたって | 新藤晴一 | note”. note (2020年1月24日). 2023年1月24日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j 『ポルノグラフィティ ワイラノクロニクル―B.PASS SPECIAL EDITION』シンコーミュージック、2001年3月1日。
- ^ a b c d 『GUITAR MAGAZINE SPECIAL ARTIST SERIES「新藤晴一 ポルノグラフィティ」』リットーミュージック、2019年1月10日。
- ^ 長谷川京子、愛息との2ショット初公開!愛らしい小さな手がハセキョーの鼻をなでる… - シネマトゥデイ(2011年3月1日)
- ^ times (2010年3月13日). “因島南中学校 よみがえる通学風景 寄贈された楽譜「僕らの地図」”. せとうちタイムズ(尾道市因島・瀬戸田地域の週刊新聞). 2021年9月30日閲覧。
- ^ ポルノ新藤晴一&長谷川京子夫妻に第2子となる女児誕生 - 音楽ナタリー(2012年1月31日 21:42)
- ^ “長谷川京子とポルノ新藤晴一が離婚「互いに合意し慰謝料等なしと」事務所”. 日刊スポーツ (2021年10月29日). 2021年10月29日閲覧。
- ^ “ポルノグラフィティ・新藤晴一、ミュージカル初プロデュース「憧れ続けてきた世界に足を踏み入れることになりました」 8月から上演「ヴァグラント」”. サンスポ (2023年1月23日). 2023年1月24日閲覧。
- ^ “関ジャニ∞新曲の作詞も担当 ポルノグラフィティ 新藤晴一が紡ぐ、“深読み”したくなる言葉の魅力”. Real Sound|リアルサウンド. 2021年9月30日閲覧。
- ^ a b “つま恋ロマンスポルノ'11 〜ポルノ丸〜・東北ロマンスポルノ'11 〜ポルノ港〜”. 2022年1月2日閲覧。
- ^ “ホロライブ所属の角巻わため、ポルノグラフィティの両名とtasukuが作編曲を担当した「Fins」配信スタート!”. リスアニ!Web. 2023年6月10日閲覧。
固有名詞の分類
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