新発田藩
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尊皇開国
「勤王の新発田」とも称されるが、十代藩主直諒の記した『報国説』『開国説』からであるといわれる。「尊皇開国」論であり、水戸藩や西国諸藩の「尊皇攘夷」とは異なる開明派の勤王思想である[6]。直諒隠居後、皇族や公家の間でも読まれたという。山崎闇斎の崎門学派の大義名分の心を述べたものである。これらの著作が一般に読まれるようになり、藩内に勤王の根を張るに至った。
相馬作右衛門の上申書にはこれまで皇室をないがしろにした将軍家の罪を上げ、先祖(家康)がいかに勲功があっても、子孫が間違ったことをするのなら、徳川家に臣節を尽くす必要はないとし、武力で自らの権勢を保持しようとするものに付けば大義名分を失するとした。藩儒寺尾文之進は5月30日の総登城の際、王事に尽くすことは歴代藩侯の遺訓である、全藩、城を枕に死すべきである、勝敗は問うところではないと主張。しかし、藩論は勤王に殉じて玉砕する方針は採らなかった。
いわゆる正義党と違うのは、藩士、領民にとって、「勤王の藩」に尽くすことが大義名分なのであって、勤王を藩を超えた価値とし、ゆくゆくは藩を解消すべきと考える正義党の価値観は危険思想であった。方義隊の新保長三郎は戦後、同じ隊だった二階堂保則と口論している。物頭佐藤八右衛門は新保を「正義党ではあるけれども、御家への忠節が本である人間で、一通りの正義党の仲間には入らず、尽力した者である」と評価した。新保や庄屋九左衛門ら庄屋たちは進んで勤王思想を学び、藩の大事に進んで貢献した。
(以上[7])
新発田藩を舞台にした作品
- 『露の玉垣』(乙川優三郎)
- 新発田藩家老・溝口半兵衛が家臣の系譜と閲歴を記した『世臣譜』という史料をもとにして、新発田藩の様々な家臣の生活を描いた小説。
著名な藩士
- 井上久助:新発田藩の危機(塩止め事件)を自分一人の責任として、会津藩に斬刑に処せられ、藩を救った烈士。
- 久米幸太郎:29年を掛けて仇討ちを遂げた藩士。
- 桑田立斎:蘭方医、北海道で多くの天然痘患者を治療した藩士。
- 堀部武庸:浪人後に高田馬場の決闘の主要人物、のち赤穂浪士となる。中山安兵衛の名でも知られる。武庸は元禄赤穂事件では「吉良家臣に罪はない」として吉良方を一人も斬殺していない[8] 。
- ^ 現在の新潟市秋葉区七日町で家臣が一揆の一味により殺されている
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 編『平成新修旧華族家系大成. 下巻』吉川弘文館 (1996年) 683頁。
- ^ 新発田藩主のほか、横田溝口家・池之端溝口家の旗本溝口家がある。
- ^ 「開基家ご当主ご来駕 – 日日是好日 – 」(廣澤山宝光寺 2016年6月13日)
- ^ 『新発田藩史料 第二巻 藩臣編』 国書刊行会 1988年
- ^ 同『第一巻 藩主篇』『第三巻 藩政篇』(新発田市史編纂委員会 編)
- ^ 『裏切り―戊辰新潟港陥落す』 中島欣也著 恒文社 1988年
- ^ 『堀部武庸日記』(細井広沢に よる加筆・編纂)
- ^ 「嘉永慶応 江戸切絵図」(尾張屋清七板)
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