帝冠様式 帝冠様式の概要

帝冠様式

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/18 03:30 UTC 版)

伊東忠太[1][2]佐野利器[2]武田五一[1]らによって推進された。彼らが審査員を務めた競技設計では様式規定に日本趣味が盛り込まれていた。

建物一覧

どの建物を帝冠様式とするかは諸説あるが、大体共通して帝冠様式と呼ばれている建物には以下のものがある[3]

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画像 名称 選考年 様式規定 審査員 設計者 建築年 備考
神奈川県庁舎 1926 港外の船舶から容易に認識可能のこと 佐野利器、佐藤功一岡田信一郎大熊喜邦内田祥三片岡安、小柳牧衛 小尾嘉郎 1928 国の重要文化財
名古屋市庁舎 1930 特になし 佐野利器、佐藤功一、鈴木禎次、武田五一、土屋純一三沢寛一 平林金吾 1933 国の重要文化財
日本生命館
(現・高島屋日本橋店)
1930 容姿ハ落着キアリ、品位アリテ自ラ大衆ノ心ヲ備フルコトヲ要ス 東洋趣味ヲ基調トスル現代建築ノ創案ニ努メタルモノハ之ヲ重視ス 伊東忠太、佐藤功一、武田五一、片岡安、塚本靖、板野兼道、飯田直次郎、田中弟稲、弘世勘太郎 高橋貞太郎 1933 国の重要文化財[4]
大礼記念京都美術館(現・京都市京セラ美術館) 1930 四周の環境に応じ日本趣味を基調とすること 伊東忠太、佐藤功一、岡田信一郎、片岡安、武田五一、石井恒升、太田喜二郎、菊池完爾、清水六兵衛、安川和二 前田健二郎 1933
軍人会館
(現・九段会館テラス)
1930 容姿ハ国粋ノ気品ヲ備へ荘厳雄大ノ特色ヲ表現スルコト 伊東忠太、佐藤功一、大熊喜邦、内田祥三、塚本靖、内藤太郎、中村達太郎、飯田久恒、稲垣三郎、岡仲次郎、辻村楠造 小野武雄 1934 帝冠様式の代表作とされる[5]
東京帝室博物館(現・東京国立博物館本館) 1931 建築様式ハ内容ト調和ヲ保ツ必要アルヲ以テ日本趣味ヲ基調トスル東洋式トスルコト 伊東忠太、佐藤功一、内田祥三、武田五一、塚本靖、北村耕造、岸田日出刀、大島義儕、河田烈、黒板勝美、龍精一、荻野仲三郎、細川護立 渡辺仁 1937 帝冠様式の代表作とされる[6]。壁体の意匠が洋風ではないため帝冠様式に分類するべきではないと主張する研究者もいる[7][8]
国の重要文化財
徳川美術館 1931 周囲ノ環境ニ調和スベキ事 大江新太郎、渡辺仁、藤村朗、大島義儕、山脇春樹 佐野時平 1934 国の登録有形文化財
愛知県庁舎 1931 一般設計競技ではない 佐野利器、土屋純一 渡辺仁
西村好時
1938 上記の名古屋市庁舎の南側に隣接。
国の重要文化財
静岡県庁舎 1935 特になし 佐野利器、大熊喜邦、内田祥三、笠原敏郎、中村與資平、足立収、木村憲七郎 泰井武 1938 国の登録有形文化財
樺太庁博物館(現・サハリン州郷土博物館) 特になし 貝塚良雄 1937
大阪商船株式會社台北支店(現・国家撮影文化センター台北館) 渡辺節 1937 台北市市定古跡
虎尾郡役所(現・雲林布袋劇展示館) 1931 雲林県歷史建築
台南武德殿(現・台南市忠義小学校講堂) 1936 台南市市定古跡
高雄市役所(現・高雄市立歴史博物館) 清水組 1939 高雄市市定古跡
高雄駅 清水組 1941 高雄市歷史建築
台湾銀行高雄支店 1947 高雄市歷史建築
澎湖庁庁舍(現・澎湖県政府) 1934 澎湖県歷史建築
香港総督府(現・香港礼賓府) 清水組 1944
関東軍司令部(現・中国共産党吉林省委員会) 1932 全国重点文物保護単位
満洲国国務院 (現・吉林大学白求恩医学部基礎医学院) 全国重点文物保護単位 (伪满皇宫及日伪军政机构旧址)
満洲国司法部 (現・吉林大学白求恩医学部校部) 全国重点文物保護単位 (伪满皇宫及日伪军政机构旧址)
満洲国交通部 (現・吉林大学白求恩医学部公共衛生学院) 全国重点文物保護単位 (伪满皇宫及日伪军政机构旧址)
満洲国治安部 (現・吉林大学第一医院) 全国重点文物保護単位 (伪满皇宫及日伪军政机构旧址)
満洲国綜合法衙 (現・空軍461医院) 全国重点文物保護単位 (伪满皇宫及日伪军政机构旧址)
満洲国民生部 (現・吉林省石油化工設計研究院) 全国重点文物保護単位 (伪满皇宫及日伪军政机构旧址)
満洲国首都警察庁 (現・長春市公安局) 1934 吉林省文物保護単位
満洲国神武殿 (現・吉林大学附属中学講堂「鳴放宮」) 宮地二郎 1940 吉林省文物保護単位

背景

1920年代から1930年代にかけてはクラシック建築が建てられた最後の時期に当たる。規則にのっとり型にはまった造形しか許されないクラシック建築が衰退することで、時代を律すべき統一的な様式が失われ、表現派ライト式モダニズムなど様々な様式が混在するようになった。また、装飾を簡素化した新古典主義建築や複数の様式を組み合わせる折衷主義建築も現れた。[9]

日本では和風の要素を取り入れた日本趣味の建物が1920年代後半から普及した[10]。この時期、内容と調和させた歌舞伎座(1924年)や東方文化東京研究所(1933年)[10]、周辺環境に配慮した芝区役所(1929年)や女子会館(1936年)[10]、国際観光ホテルとして外国人のエキゾチシズムに訴えかける琵琶湖ホテル(1934年)や蒲郡ホテル(1934年)[11][12]などが建てられている。

 帝冠様式は戦後の言葉であるが、下田菊太郎が大正9年12月から翌年3月までの第44議会で「帝冠併合式」を請願し、これに対し反応したのが伊東忠太であった。伊東は「下田菊太郎の帝冠様式」を奇形のものであると評価し、完全否定する。さらに、様式構造ともに不合理であるとし、「帝冠様式は国辱」とまで述べた。


  1. ^ a b c d e f 井上章一 1995, p. 28-35.
  2. ^ a b 佐藤嘉明 2006, p. 258-262.
  3. ^ 佐藤嘉明 2006, p. 263-267.
  4. ^ 髙島屋東京店 髙島屋東京店 文化遺産データベース
  5. ^ 大川三雄 1988, p. 204-205.
  6. ^ 藤原惠洋 1988, p. 208-209.
  7. ^ 藤森照信 1993, p. 21-23.
  8. ^ 前野嶤 1982, p. 139-142.
  9. ^ 井上章一 1995, p. 61-70.
  10. ^ a b c d 井上章一 1995, p. 54-61.
  11. ^ 砂本文彦 (2008). 『近代日本の国際リゾート 一九三〇年代の国際観光ホテルを中心に』. 青弓社 
  12. ^ a b 井上章一 1995, p. 48-53.
  13. ^ a b 井上章一 1995, p. 75-81.
  14. ^ この点が考慮されたのは後に名古屋市庁舎の南側に隣接して建てられた愛知県庁舎も同様である。
  15. ^ a b 井上章一 1995, p. 14-22.
  16. ^ 井上章一 1995, p. 23-28.
  17. ^ 井上章一 1995, p. 104-109.
  18. ^ a b 井上章一 1995, p. 124-131.
  19. ^ 井上章一 1995, p. 131-134.
  20. ^ a b c d e 井上章一 1995, p. 35-41.
  21. ^ 佐藤嘉明 2006, p. 270-274.


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