山本鼎 山本鼎の概要

山本鼎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 05:47 UTC 版)

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山本 鼎
自画像(1915年)
生誕 (1882-10-24) 1882年10月24日
愛知県額田郡岡崎町
死没1946年10月8日(1946-10-08)(63歳)
長野県上田市
墓地東京都江戸川区一之江 国柱会墓所
国籍 日本
教育東京美術学校
著名な実績版画家洋画家教育者

愛知県額田郡岡崎町(現・岡崎市)出身。16歳からは長野県上田市に住み、美術の大衆化、民衆芸術運動のなかに身を投じた。長男は詩人の山本太郎。画家で詩人の村山槐多は従弟。

来歴

おいたち

1882年(明治15年)10月14日、愛知県額田郡岡崎町(現在の岡崎市)に父一郎、母たけの長男として生まれた[1]。間もなく、漢方医の父が医師資格取得に必要な西洋医学を学ぶため上京、一家は東京浅草区山谷町に移住した[1]。小学校を卒業した鼎は、浜松町の木版工房で桜井暁雲(虎吉)の住込み徒弟となり[1]、版画職人として自立する道を歩み始める。鼎16歳のとき、父が長野県小県郡神川村大屋(現上田市)に医院を開業[1]、一家は移住、鼎にとって上田は第二の故郷となった。

美術学校時代

1901年(明治34年)に木版工房での9年間の年季奉公を終えた[1]鼎は、他人の下絵を彫るだけの職人に満足できず、1902年(明治35年)、東京美術学校西洋画科選科予科に入学した[1][2]。在学中の1904年(明治37年)、与謝野鉄幹主宰の雑誌『明星』に刀画「漁夫」を発表[1]、海辺の人々の生活感を滲ませたこの作品のリアリズムは、複製技術を主体とする、従来の版画にない新鮮さを示し、新進気鋭の版画家として注目された。それは、絵師彫師摺師の三者を一人で行う画期的な創作版画であった。1906年(明治39年)に東京美術学校西洋画撰科を卒業した[1][3][4]。1907年(明治40年)、鼎は創作版画を奨励し、若い美術家や作家たちの創作拠点とすることを目的として石井柏亭森田恒友と美術文芸雑誌『方寸』を創刊[1]。資金難の中、雑誌の発行は困難を極めたが、1911年(明治44年)の終刊までに35冊を発行、美術・文芸の分野に独特の地歩を築きあげた。卒業後、鼎は雑誌にさし絵や文章などを書き活躍を始めた。

1908年(明治41年)12月、鼎は『方寸』を母体として、発起人の一人として「パンの会」を発足させた。石井柏亭、森田恒友、倉田白羊などの『方寸』同人と、北原白秋木下杢太郎らがメンバーであった。1910年(明治43年)3月下旬から「上田朝日新聞」に、スケッチと文章による葉書通信『尋常茶飯録』の連載を始めた[1]。北原白秋との親密な文学的交遊をうかがわせるエピソードとして興味深い。1911年(明治44年)、自ら東京版画倶楽部を開設し[1]、そこからの刊行となった「草画舞台姿」というシリーズは、坂本繁二郎との共作で、従来の浮世絵版画の形式を追った作品であった。鼎は同誌に木版、石版、ジンク版などによる作品60点のほか、俳句、詩、評論、随筆などを発表している。

フランス留学

1912年(明治45年)7月、鼎は石井柏亭の妹、光子との結婚を石井家から拒絶されたことが発端で、パリへ旅立った。木版画を製作し、 を描き、エコール・ド・ボザール(美術学校)のエッチング科へも通う[1]が、貧困の生活が続き、モデルのフランス女性が、あまりの寒さにストーブを焚いてくれと言っても、石炭を買う金が無く、手のひらでその肌を時々暖めてやりながら絵を描くこともあったというエピソードが残っている。一方滞仏中、島崎藤村との親しい交友関係ができ、藤村の『新生』に登場する画家・岡は山本鼎をモデルにしている。後に鼎は、フランスで得たものは、「リアリズム」であったといっている。

モスクワにて

1916年(大正5年)6月、鼎はロシア経由で帰国の途につく[1]モスクワでは領事館の世話になり、帰国の旅費を得るため六カ月ほど滞在するが、この間、農民美術蒐集館を訪れ、児童創造展覧会も鑑賞した。モスクワ滞在中、北原白秋と懇意な青年と会い、白秋の妹、家子[5]との縁談を紹介され、帰国した翌年(大正6年)二人は結婚する[1]。またモスクワ時代には留学中であった片上伸とも出会い、以降も親交が続く。

帰国後の活動

自由学園の生徒に写生を指導する山本(1921年)[6]

1918年(大正7年)には、戸張孤雁らと日本創作版画協会を設立[1]。日本画、洋画と並ぶべき版画の独自性を主張するなど今日の創作版画の隆盛をもたらすことに貢献した。(「版画」という語は鼎の造語であるといわれている。「平凡社、世界大百科事典」)また同年、小県郡神川小学校で「児童自由画の奨励」の講演を行った[1]ことを契機に、子供に自由に描かせる自由画運動を推進することになった。1919年(大正8年)には、農民美術練習所を開講し[1]、終生農民美術振興に献身することになった。また、鼎は描きやすい画材の研究をかさね、クレパスを考案したことでも知られている[7]1921年(大正10年)頃より、夫婦で国柱会に入信[8]

山本の郷里の知り合いが星野温泉の支配人をしていたことから、帰国後の第一作「温泉道」を軽井沢で描いて発表したところ、富岡製糸場の所長から申し出があり、軽井沢のアトリエを進呈された。所長は、偶然軽井沢で画作に励む山本を目撃し、その真摯な姿勢に感激したゆえの好意だったという[9]

晩年

鼎は、フランスへ渡った当時借金生活を送ったが、その後も農民美術の事業などで莫大な負債をかかえ生活は苦しかった。晩年は脳溢血で倒れ、療養生活を送った。1946年(昭和21年)10月8日、腸捻転を病み手術後に死去[1]。享年65。鼎の墓所は江戸川区一之江の国柱会墓所にある。

代表作

  • 「漁夫」 木版画 1904年
  • 「デッキの一隅」 木版画 1912年
  • 「野鶏(ヤーチー)」 木版画 1912年 中国の娼婦を描いている
  • 「ブルトンヌ」 木版画 1920年 ブルターニュ地方の女性を描いている 山本鼎最後の木版画



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